娘に『モモ』を渡したのは、良い父親になりたかったからじゃない
バツイチ46歳、片道90分の通勤電車が僕の読書タイム。
最近読んだ『血肉となる読書 なぜ読むことだけが人生を変えるのか』は、NHK「100分de名著」のプロデューサー秋満吉彦氏と、同番組で講師を務めた3人の識者――経済思想家の斎藤幸平氏、英文学者の小川公代氏、能楽師の安田登氏――が、「読んだ本をいかに自分の血肉に変えるか」を語り尽くした一冊だ。
タイトルだけ見ると、また「効率的な読書術」の本かと思った。でも読み始めて、すぐに違うと気づいた。
「都合のいい読書」をしていた
本書が一貫して言っているのは、情報を「消費」するだけの読書から、「血肉」に変える読書への切り替えだ。タイパ重視でAIやネットから手軽に情報を取る今のやり方に、著者たちは静かに異を唱えている。
その中で、僕が一番引っかかったのは斎藤幸平氏のこの一文だった。
「自分が違和感を抱いた一文にこそ、自分がとらわれている固定観念のせいで見落としていた何かを見るチャンスが隠れています」
普通、本を読むとき僕らは「納得できる部分」にアンダーラインを引く。でも斎藤氏に言わせれば、それは自分を補強するためだけの、都合のいい読み方にすぎない。
正直、刺さった。
僕は書評を書くとき、いつも「納得した箇所」より「なんでこんなに引っかかるんだろう」という箇所から記事が生まれてきた。『不夜脳』を読んだときも、健康本として素直に受け取るより、「『安静にしてください』が、一番危なかったのかもしれない」という、自分の経験との矛盾に引っかかった一文の方が、結局記事になった。
納得より、引っかかり。それが僕の読み方の癖だったのだと、この本に言われて初めて気づいた。
「もっと早く読むべきだった」を、娘に渡した
本書の第2章では、小川公代氏が「ネガティヴ・ケイパビリティ」という言葉を紹介している。詩人キーツの言葉で、答えの出ない、割り切れない事態に耐えうる力のことだ。
最初はピンとこなかった。でも読み進めて、ある箇所で止まった。
今の時代は、モヤモヤを残すことを許してくれない。答えを出せ、言語化せよ、という空気がいつもある。書評を書くたびに、何かを「結論」にしようとしてきた自覚がある。
公開したあと、これは言い切ってよかったのかと迷うことはよくある。特に、自分の個人的な部分を書いたときほど、その迷いは強い。
言葉にすることで楽になるのは本当だ。それは否定しない。
でもこの本は、それだけが正解じゃない、保留にしてもいい、と言っている。
『モモ』を、図書館で借りて読んだ。あらすじはなんとなく知っていたが、ちゃんと読んだことはなかった。読んでみて、すごく良かった。時間泥棒の灰色の男たちの話、モモがなぜみんなに好かれているのか――子供の頃に読んでいたら、たぶん半分も分からなかったと思う。大人になったからこそ分かる良さだった。
だからこそ思った。もっと早く読むべきだった、と。
その感情のまま、娘に買ってあげた。
格好いい話に聞こえるかもしれないが、たぶん理由はそんなに立派じゃない。「良い本を娘に教えてあげたい父親」だったわけじゃなく、自分がもっと早く出会いたかったものを、誰かに今すぐ渡したくなった、というだけの話だと思う。
「面白くなってきた」の一言
娘とは月2回しか会えない。だから本がどこまで進んでいるかは、元妻との会話で知った。毎晩、寝る前に少しずつ読んでいるらしい。
「面白くなってきた」と娘が言っていたと聞いたとき、嬉しかった。漫画やアニメ以外のもので「面白い」と思ってもらえることを知っただけでも、収穫だと思った。
漢方薬か、抗生物質か
本書には、読書には2種類あるとも書かれている。劇的な変化をもたらす「抗生物質型」と、じわじわ効いてくる「漢方薬型」。
『モモ』が僕にとってどちらだったのか、まだ分からない。一年経って今も、何かがじわじわ効いている感覚がある。だとすれば漢方薬型だったのかもしれない。
そして娘にとって、この本がどちらになるのかは、もっと分からない。今はまだ「面白くなってきた」の段階だ。読み終わった先で何を感じるのか、それは僕には分からないし、分からないままでいいのかもしれない。
あなたが大人になって読み返したら、子供の頃とは違う風に刺さった本はあるだろうか。そしてその本を、誰かに渡してみたことはあるだろうか。
