⚽11。ワールドカップの中にいる
観察し、記憶し、日常を味わう。
ワールドカップは、画面の中だけでは終わらない。
6月21日、日曜日。
ワールドカップは、グループリーグの2巡目に入っていた。
このあたりまで来ると、
大会の空気が少し変わる。
開幕直後の
「全部が新しい」
という勢いから、
各チームの力関係や、
勝ち点の意味が、
少しずつ見えてくる。
どの国が強いのか。
どの国が苦しんでいるのか。
どのグループが混戦なのか。
次の試合で、どれだけ大会の景色が変わるのか。
ただ試合を追いかけるだけではなく、
グループ全体の流れを見るようになる。
この感覚が出てくると、
ああ、大会がひとつ進んだな。
と思う。
昨日は朝から試合が並んでいた。
オランダはスウェーデンに5-1。
ドイツはコートジボワールに2-1。
エクアドルとキュラソーは0-0。
そして日本はチュニジアに4-0。
結果だけを見ても、かなり濃い一日である。
その中で、私は
エクアドル対キュラソーの時間を、ヨガに充てた。
ワールドカップ期間中に、
試合を一つ見送って体を動かす。
これは、なかなか良い選択だったと思っている。
もちろん、試合は見たい。
できれば全部見たい。
しかし、全部を見ようとすると、
身体が少しずつ固まっていく。
画面の前に座る時間が長くなり、
食事の時間も、
睡眠の形も、
大会に引っ張られる。
それも含めて、ワールドカップの楽しさではある。
けれど、観戦を続けるためには、
自分の生活も少し整えておきたい。
だから、ヨガに行った。
身体を伸ばして、
呼吸を入れて、
画面の外の時間を少し作った。
ワールドカップに没頭することと、生活を大事にすることは、別々のことではない。
むしろ、生活が整っているから、
大会に深く入っていける。
食事も同じである。
特別なごちそうばかりを作るわけではない。
けれど、なるべく台所に立つ。
少し野菜を足す。
温かいものを用意する。
気が向けば、その国の料理や食材を少し調べて、観戦のムードを作る。
それは派手なイベントではない。
しかし、
自分の部屋にワールドカップを迎え入れるための、小さな準備である。
そして、日本対チュニジア。
4-0。
このスコアは、素直にうれしい。
日本代表が、ワールドカップでしっかり勝つ。
それだけで、一日全体の明るさが変わる。
これまでの大会では、
グループリーグの中盤になると、
どこか少し不安が膨らんでくることがあった。
勝っていても、
次は大丈夫だろうか。
内容はどうだったのか。
他会場の結果はどう響くのか。
そんなことを考えて、
楽しさと緊張がすぐに混ざっていた。
もちろん、今回も勝負事である以上、何が起こるかはわからない。
それでも、今のところは
お祭りの明るさを保ったまま見られている。
これはかなり大きい。
私は今、
ワールドカップにちゃんと入っている。
英語で言えば、into。
日本語で言えば、没頭。
ただテレビをつけているだけではない。
日程を確認し、
グループの状況を追い、
選手を見て、
昔の記憶も呼び起こされる。
生活の時間割まで、少し大会仕様になる。
それが楽しい。

もし頭の中で、世界中の選手たちと輪になってボールを蹴れるなら。
それもまた、ワールドカップ観戦者のぜいたくな妄想である。
昨日から今日、6月22日月曜日にかけて、
ベルギーの試合も気になっていた。
私は昔から、ルカクが好きである。
大きな体。
背負う強さ。
左足の迫力。
そして、どこか不器用にも見える人間味。
ルカクは、
完璧な機械のような選手ではない。
だからこそ見てしまう。
うまくいく時の圧力も、
うまくいかない時の表情も、
どちらも記憶に残る。
ベルギー代表を見ると、
ついアザールを探してしまう。
もうそこにいないとわかっている。
それでも、画面の左側やハーフスペースに、
あの低重心でぬるっと前を向く姿を探してしまう。
アザールがボールを持った時の
「何かしてくれそう感」
は、特別だった。
相手を抜くというより、
相手の時間を少しずらすような選手だった。
今のベルギーを見ながら、
記憶の中のベルギーも同時に見ている。
これもまた、ワールドカップ観戦の楽しみ方である。

予定表を見て、選手を思い浮かべ、身体の声も聞く。
大会の気配は、いつの間にか机の上にも広がっている。
そして、今日の迷いはエジプトである。
ニュージーランド対エジプト。
見るか。
それとも、9時半からのヨガに行くか。
論点はひとつ。
サラーを90分見る価値があるのか。
これは、ある。
かなりある。
サラーは、ハイライトだけでもすごさが伝わる選手である。
しかし、本当は
1試合を通して見た方がいいタイプの選手
だと思う。
右サイドでどう立つか。
ボールを受ける前に、相手守備をどう動かしているか。
自分で行くのか、味方を使うのか。
消えているように見える時間に、実は何をしているのか。
こういうものは、得点シーンだけでは見えにくい。
「サラーの90分を観るのも、ワールドカップの教養である」
などと大げさに言ってみる。
サッカーを観ない人からすれば、
ずいぶん都合のよい言い訳だろう。
しかし、ワールドカップ期間中の私は、
こういう言い訳を少しずつ積み上げながら、
今日も大会の中に入っていく。
もちろん、予定は未定である。
夜の自分は、サラーを見たいと言っている。
しかし、朝の自分は違うことを言うかもしれない。
物理的に夜が明けると、
人間の気持ちも変わる。
暗い部屋では画面に吸い寄せられていても、
朝の光が入ると、
急に身体を伸ばしたくなることがある。
その時は、ヨガに行けばいい。
昨日、ヨガに行けた。
食事もそれなりに整えている。
生活を大事にしているという土台がある。
だからこそ、
ワールドカップに迷いなく没頭できる。
ルカクを愛着で見る。
アザールを記憶の中に探す。
サラーを90分かけて観察する。
日本代表の4-0を明るく喜ぶ。
そして、身体が求めるならヨガに行く。
ワールドカップは、
試合だけでできているのではない。
その試合をどう待ち、
どう見て、
どう生活に入れるか。
どの選手に目を留め、
どの記憶を思い出し、
どの瞬間に自分の身体を取り戻すか。
それも含めて、
私の大会である。
6月22日、月曜日。
大会はさらに進んでいく。
私は今日も、
ワールドカップの中にいる。
