『暴力は絶対に許さない』という正論が、日本人を壊している
「暴力は絶対に許さない」 この言葉ほど、日本社会を静かに腐らせてきた詭弁はない。
一見すると正義のように聞こえる。だが、この言葉は“暴力の定義”を歪め、日本社会の感覚を狂わせてきた。
この言葉が社会に浸透した結果、 日本は 境界線を引けない国 になってしまった。
物理的な暴力だけを悪とし、 言葉の暴力は野放しだ。
※ここでいう境界線とは、物理的な距離ではなく「相手に踏み込ませないための心理的・社会的ライン」のことだ。
境界線を守るための拒否や反撃は“攻撃”扱いされ、 結果として、弱い側が最も傷つく社会が出来上がった。
外交も、防衛も、いじめも、熊も猿も、 すべてはこの“境界線の喪失”という構造に行き着く。
■「暴力=殴る蹴る」という狭い定義が生んだ倒錯
日本では、暴力といえば「殴る・蹴る」だけだと思われている。
しかし本来の暴力とは、 相手の境界線を踏み越える行為全般 を指す。
・言葉 ・態度 ・無視 ・圧力 ・集団の同調 これらもすべて暴力だ。
だが日本では、 言葉の暴力だけは“無罪”扱いされる。
SNSで人格を潰すような言葉を浴びせても、 「言葉だからセーフ」という詭弁がまかり通る。
そして、言葉で追い詰められた側が 「やめてくれ」「距離を置く」と言った瞬間、 今度は逆にその人が“攻撃的”あるいは“社会適正が無い”または“弱い”と扱われる。
踏み越える側は守られ、 踏み越えられた側が責められる。
この倒錯こそ、日本社会の劣化の核心だ。
■いじめがなくならない理由も、実は同じ構造
学校でいじめが消えないのは、 「暴力はいけない」というスローガンが “物理的暴力だけ”を対象にしているからだ。
言葉の暴力、無視、仲間外し、圧力。 これらはすべて暴力だが、 教師も親も行政も“暴力”として扱わない。
だから、 いじめの本体が野放しになる。
そして、いじめられた側が 「やめてほしい」「距離を置く」と言うと、 「空気を乱すな」と責められる。
境界線を守る行為が“悪”にされる社会では、 弱者が救われるはずがない。
■熊・猿の問題も「境界線の喪失」の象徴
自然との関係も同じ構造で壊れている。
動物問題は、“感情論が境界線を壊す”典型例だ。
本来、人間と野生動物の間には 明確な境界線がある。
しかし今の日本では、 「かわいそう」「殺すのは暴力だ」 という感情論が優先され、 境界線を引くこと自体が悪とされる。
その結果、
・熊が人里に出ても撃てない
・猿が民家を荒らしても追い払えない
・被害が出ても行政は動けない。
これは自然保護でも優しさでもない。 ただの 境界線の放棄 だ。
境界線を失った社会は、 必ず反撃しない側が被害を受ける。
■外交・防衛でも同じことが起きている
国家間でも構造は同じだ。
日本は「対立はよくない」「強く出るのは暴力だ」という建前を優先し、 相手に境界線を踏み越えられても、 ただ「遺憾」「懸念」を繰り返すだけ。
その結果、 舐められ、さらに踏み越えられる。
個人関係でも、動物でも、国家でも全ての元凶は同じこと。
境界線を引けない者は、必ず搾取される。
■本当に許されないのは「暴力」ではなく「詭弁」の方だ
暴力を否定すること自体は悪ではない。
問題は、 暴力の定義を歪め、境界線を守る行為まで悪にしたこと。
この詭弁が社会に浸透したことで、 日本は
・自衛できない
・拒否できない
・反撃できない
・線を引けない
社会になった。
そしてそのツケを払わされているのは、 いつも“言えない側”だ。
■境界線を守ることは、暴力ではない
踏み越えられたら拒否していい。
攻撃されたら距離を置いていい。
それでも圧をかけてくるなら、我慢しないで反撃するんだ。
自分の領域を守るのは暴力ではない。
線を引くことは“悪”ではなく“責任”だ。
これこそが本当の意味での“自己責任”だ。
自分の精神や肉体は、自分で守る以外に誰が本気で守れるのだ!
「暴力はいけない」という言葉が、 暴力そのものより先に、人間の感覚を殺してしまった。
「暴力は絶対に許さない」 この言葉に、どれだけの“暴力”が隠れているか。 そろそろ気づくべき時だ。
この“境界線の喪失”がどれほど致命的かは、数字を見ると一目瞭然だ。
日本では、10〜39歳の死因の1位が“自殺”だ。
日本全体の年間自殺者数は約2万人前後。
これは、交通事故や病気よりも圧倒的に多い。
社会は「暴力はいけない」「対立はよくない」という 耳障りの良いスローガンだけを繰り返し、 境界線を守るための拒否や反撃は“悪”とされる。
その結果、若者は逃げ場を失い、 言葉の暴力だけが野放しになっている。
世界でも類を見ない、この異常な数字に、言葉による圧の殺傷能力の凄まじさに気づけ。
もう、それもわからぬほどに、頭が麻痺しているのか?
■境界線の守り方:自分でできること
まずは、嫌なものを嫌と言うこと。
これが境界線を取り戻す最初の一歩だ。
そして我慢して他人に合わせないこと。
我慢は美徳ではない。
我慢とは、自分の心を殺す、すなわち内なる神を殺すこと。
それこそが最も最悪の結果をもたらす罪である。
我慢はするな、嫌なものは嫌だとはっきり言え。
後は、そこから離脱するなり反撃するなり自由だ。
オレも最初から完璧に出来てはいない。
ここまで来るのには、数年かかった。
でも最初に、「嫌なものは嫌だ」と行動で示す最初の一歩が必要だ。
