緑の食卓
________ 風と影、肉体の寓話
吹きつける加減を知らないとでもいうように、横なぐりの雨が肌を刺したけれど、ことさら不快でもなければ、慌てる心持ちにとらわれもしなかった。
ちょうど勢いよく回りだした独楽に静謐を覚えるごとく、残像には淡い虹が透けていた。
滲んだ空模様の色合いを見届ける。
「どう、なかなかの隠れ場所でしょう。こんなに降っているのにほとんど濡れないもの」
急流の小川を越えてしまったことに不安は覚えなかった。
めまいを覚える鬱蒼とした野原に散らばる、瘴気の漂いを払いのけながら踏みしめていた
そんな足運びが川幅をせばめてしまったが、実際には美希の言い分に頼っていたに過ぎない。なにかしら危険なところへ分け入ったのではなく、未知なる茂みの青さに灰色の空が誘われたのであった。
華やいだ悠然とした色彩。
夏の翳りは寒色にうつろう。
切り立った岩肌を占拠した祠のような空洞に息をのみ、草木が編み出している箱型の奥行きに感心して。
「たしかに雨風をしのいでるし、川の流れが見下ろせる。橋の上から見たときは低そうだったけど、ここまでは増水しそうもない。まったく驚きだよ」
人ひとり潜れそうもない繁りをかき分けると、透けた空間は大きな岩場の窪みに連なった。
わずかに緑の剥げたふうに見受けられる足許の感触からは、微弱な外の様子がにわかにほど遠く思われ、このまま暮れ落ちてしまえば、味わったことのない轟くような激しい風を間近にするだろう。
そして夜目には判じがたい雨脚が耳をふさぐ。
野宿など覚えのない幸吉には、自然の閉じた牢獄みたいな場所で息をしている実感がなかった。
「けっこう温かいのよ。わたしここで何度も夜を明かしたの。今の時期は冷え込まないわ。湿気があるもの。台風は初めてだけど」
幸吉は自分でも意外なくらい美希を信頼しており、こんな日を選んでしまった悔やみなどまったく抱かなかった。
「星降る夜だと眺めがいいんだけど、今夜は漆黒の闇ね。わたしだってひとりなら家へ帰ってたでしょうよ。あんたと話してなにか気分が変わったの」
徘徊しているのがちょっとした冒険気取りの夜空なら微笑ましい。
「もう話はおしまいだったよね」
幸吉には美希の入り組んだ心境が、すっかり解きほぐれたと思われなかった。
この秘密の場所への避難が偶発であるのか、その口ぶりに現れているように一夜を過ごすつもりなのか、どちらにせよ、あれほど身の上を語っておきながらこのあとどうするかなんて、まるで考えてもいない面持ちだったので、少々腑に落ちなかったけれど、台風の接近は間違いなさそうだし、荒れ模様が強まるばかりで日暮れはすぐそこに迫っている。
見通しの利かない山道を照らす明かりは携帯していない。
寒さに凍えることはないにしろ、こうやって一晩、天候が回復するのを待っているのか、それが望みならば。
「橋の影も消えてしまったわね。葉をつたう霧雨が眼を曇らせる。外はいよいよ暴風ね。真っ暗になるのを待つ、それともわたしを早く見たい」
「ああ、見たいよ」
幸吉は照れくさいほど甘ったるい声を出した。
草いきれが遅れて薄闇に漂っている。吐息を感じる近さが保たれた。
柔らかにまぶたを閉じた美希の顔に気持ちを重ねようとしたとき、
「あのね、お願い、由紀子よりわたしを好きになって。わたしのこと想いながら感じていたのでしょう。さっき、それでも好きってはっきり言ってくれたわよね。由紀子を忘れて、お願い、そうしたらわたしもあいつを忘れられる」
「そう簡単にいくのかなあ」
失言とわかっていながら、先走りしてしまった。
あまりに豊満な肉体に溺れ続けた眩惑は限りなく近い。
その微笑も謎めいた仕草も。
「あんた次第よ」
求めつつある視線は結び目を忘れ、あらぬ方向へとさまよい出している。
解放された気分が抱擁に応じようとしている。
なにより秘密の場所を知ったことが、交わりのゆくえを見出しており、幸吉は胸騒ぎを覚えた。
照り返しはいつもまばゆい。
滑り落ちる気分が了解し合う。小石は投じられ波紋を描いた。
静けさに包まれながらも素肌は火照りに従った。
若さみなぎる発露でしかない。
息遣いは緑の囲繞に吸い込まれた。
激しいのどの渇きを覚える。
飲み水が欲しければ、草木に猛烈に降り注ぐ雨水を啜るまでのこと。
幼い夏休みの日々に埋もれている無邪気なかがやきを呼び戻せば、疲弊した若さは当然の雲行きであって、必ずしも若さ自体が疲弊しているわけではない。
宿題をまえにしながら鉛筆を何本も無駄に削ってみたり、消しゴムで遊んでみたり、下敷きの色合いをしみじみ眺めてみたりした、あの間延びした光景がよみがえってくる。
その記憶をあえて鎮めるような寄り添いは、反対に刺々しい感触を優先させてしまったのか、ひからびた口許を湿らせたい欲求が、どちらともなく激しい雨水を手のひらに受けさせていた。
真水とは違い植物臭さを含んではいたが潤いにはなった。
ふたりして雨水を啜ったことで、柔弱な決意は、笑みを交わし合う映画のひとこまのように晴れやかになり、世界を縮めてしまった。
さらに驚いたのは野性のしきたりに遊ぶようにして、
「あんたお腹すいてない」
と、なんともとぼけた顔で訊いてきたことだった。
一晩くらい食事をしなくとも別段どうということはない。
そして強度を増してゆく雨風の勢いに、この緑の洞穴が崩れてしまうのではないかという危惧を捨てきれないまま、高ぶる意識が達するであろう不吉な、あるいは澄明な予感にすがりついている。
回転する独楽の静けさを打ち破るのは、どうしようもない猛威だけだと信じてしまっていた。
「にぎりめし持ってきたんだけど」
「どこにそんなものあるんだい」
幸吉は軽口につられたのだと思い不機嫌になった。
「あいつの家に行ってもほとんど留守なのは分かってたの。でも待ち続けていたのよ、狂おしいわたし。でもそのうち腹が減ってくる。なのでいつも弁当持参で通ってたのよ。ほら、ここに、あんたに見られるのが嫌で服のなかに隠してたわ」
そう言うと小ぶりな風呂敷を腰から取り出した。
「にぎりめしだけ、おかずはないけど」
声を低めた申し訳なさそうな美希の面差しに、幸吉は慚愧でいっぱいになった。
解いた風呂敷には経木で包まれたにぎりめし。
彩度を奪われた暗闇に仄かに白く。
「ふたつあるから一個ずつしよう」
艶やかな白米を乗せた手が差し出された。
膝の力が抜けた幸吉は、その場にへたり込んでしまった。
新たな負の感情に苛まれたと思ったが、空腹がこれほど愛おしいものだと気づかされただけであった。


































