瞳をとじて
_______ 日々の光景、闇の祝祭
台風の接近を告げる天気予報を何度も聞き返していた。
学校の教室でも、帰宅後の暗い部屋でも。
ちいさな田舎町で道順でもないけれど、一軒しかない映画館への道を選ぶとき、おのずと小学生のころ歩いた脇道を辿っていた。
文具店の前を通り掛かると、色褪せた日よけが細く破れ目を覗かせている。
いつの頃からかは分からないが、その垂れ布の匂いは妙に懐かしく、記憶の奥底に染み込んでいる気がした。
斜向かいは産婦人科医院のくすんだコンクリート塀。
あきらかに脇道の景観とはなじまない威圧感が通学路をせばめており、ちょっとした迷路の影を立たせている。
そこを曲がれば、眼科医院の冷ややかな硝子窓が待っていた。
連なる電信柱は変哲もない。しかし普段はコンクリートの肌に同化している鉛色の金属が、隠し取っ手として引き出されたまま伸びていることもあった。
誰かが悪戯に足を掛け、医院の白衣の看護婦を覗き見していた名残り。
姿なきツクツクボウシの鳴き声が、近隣の窓辺に吸い込まれていく。
六年間通い続け、見飽きた道筋はおそらく今も同じ。
時間の沈殿物なのでは。
はっとして、追い風のない背後を振り返った。
駄菓子屋の板塀に貼られたポスターを見つめたのは、これで何回目。
雨風に晒されたその紙片は、新しい上映の告知にもかかわらず、すでに見終わり忘れ去られた映画のように古びた印刷物として、この瞳に映った。
今日が映画の最終日、惜別に近い胸騒ぎを持てあましている。
だが配役の記されたなかの名前だけは、清冽な色彩のまま浮かび上がっていた。
そもそも映画の内容はもちろん、雑誌などで予告らしきものさえ目にしたことはなかった。
最初の鑑賞は夏休みの終わり、盲目的な退屈を潰すために。
スクリーンの色彩でその女優を見た瞬間の想いは、なお烈しい。
場面を重ねるごとに心を奪われてゆくのをはっきりと意識し、やがて劇場の壁に貼られたポスターと、暗闇の底で流れるタイトルロールの文字列をすり合わせることで、女優がまったく未知の脇役であることを知った。
物語には重要な役柄だったけれど、出番は少なく、ため息をいつしか女優の放つ台詞のようにすら感じ始めていた。
胸には初恋にも似た、淡く切実な結晶が刻まれていた。
電信柱に止まっているアブラゼミが間近に見えた午後。
小学生の頃の怪獣映画以来、同じ上映にふたたび足を運んだ。
しかもひとりであることを思えば、妙に意地らしく、晴れやかな気分はどこか浮いていた。
上映期間は砂時計が音もなく、確実に落ちていくように目減りしている。だが下にたまった砂は湿りを知らず、焦燥が容赦なく背中を押した。
頭上の空は鈍く明るさを失い、時折吹き抜ける突風は不穏な予兆を孕んでいた。
映画館へ向かう道すがら、過去の夏休みと今この瞬間が、透きとおった膜で隔てられているような、不可思議な囚われを覚えた。
館内の古びた座席に身を沈めながら、これから訪れる決定的な場面に向けて、ひたすらに神経を研ぎ澄ませていた。
三度目になる最終日ともなれば、物語の展開は隅々まで記憶の底に刻み込まれている。
脇役である彼女の出番はけっして多くはない。そしてその場面こそが、劇中における彼女の最後の姿であることを承知していた。
台風の接近を告げている外の気配にもかかわらず、客入りは思ったより多く、かなり失望した。
そのせいだろうか、うまく映像の奥まで目を凝らせない。
風は電線を揺らしているのだろうか、外の空模様はうかがえない。
片隅に仕舞われた台風の不安は、背後の映写機にあぶり出されてしまった。
物語の流れは既に体で覚えている。だが今、映画は別の顔をしていた。
同じ画面が再三、繰り返されるというのに。
スクリーンの中の情景もまた深い夕暮れに沈んでいた。
田舎の村の、細くうねるあぜ道にたたずむ男女の影。
湧き上がるカエルの鳴き声と、夏の終わりを悼むようなヒグラシの音が、茜色に染まった空を満たしている。
張り詰めた緊張のなか、彼女は親友の夫となってしまった男と対峙していた。憂いを帯びた、ひどく翳りのある瞳。
彼女は逃れようのない現実に打ちひしがれ、身をよじるような哀切を込めて、絞り出すように告白した。
「わたしも前から好きだったのよ、呪われてなんかいないの」
その声は湿った夕気に吸い込まれた。
男は悲痛な面持ちで、決定的な拒絶をもって彼女の想いを振り切ったのだ。
その瞬間、スクリーンから放たれた感情の波は、座席に沈む肉体へと直射していた。
彼女のやり場のない情念が、銀幕という光と影の境界を越え、暗闇で息を潜め、きつく閉じた両膝の間に溢れ出してくる。
館内の座席はいつも尻が痛くなるが、忘れていた。
行き場を失った哀しい想いを、どうか、どうか、こちらに向けてはくれないだろうか。
女優の最後の姿を一秒たりとも逃すまいと、食い入るように画面を見つめた。
どんなに焦がれても決して手が届くことのない憧憬。
そして映画という作り物に対する冷めた狂熱は、床に膝をつき懇願したい衝動に駆られていた。
一輪の野草のように佇む姿に、浅ましくもやるせないまなざしに、どこまでも吸い寄せられている。
やがて館内に明かりがつき、目の前の白い布が露わになった。
劇場の重い扉を押し開けて外へ出ると、どこか景色の匂いが違っている。
危惧していた台風は小康状態を保ったまま、静かで凡庸な夜がまた来た。
生ぬるい夜風が、濡れたアスファルトの匂いを孕んで吹き抜ける。
周囲に点在する小さな飲み屋の赤提灯や、その先へと続く商店街のネオンが、夜の訪れをひときわ鮮明に告げるように浮かび上がっていた。
スクリーンの中に置き去りにしてきた息遣いは、ゆっくりと現実の時間へ引き戻された。
二時間に満たない、けれども水底のように永く感じられた暗闇での逢瀬。
瞳をとじる。
女優の横顔は、昏い路地へ吹き抜けていた。































