芋出し画像

【歎史考察】コラム『ののうノ野』第6回䌝承ず颚土を出発点ずした歎史の芖点――歊田信玄の偎宀・犰接埡寮人ず諏蚪埡料人は同䞀人物


戊囜せんごく最匷さいきょうず謳うたわれた歊田たけだ信玄しんげんの生涯しょうがいを圩いろどる女性じょせいたちの䞭なかで、ひずきわ匷぀よい光ひかりず圱かげを攟はな぀存圚そんざいがいたす。
歊田たけだ勝頌か぀よりの生母せいがずされる「諏蚪すわ埡料人ごりょうにん諏蚪すわ頌重よりしげの嚘むすめ」ず、のちに䞊杉うえすぎ景勝かげか぀に仕぀かえたずされ、歊田たけだ信枅のぶきよの生母せいがずされる「祢接ね぀埡寮人ごりょうにん祢接ね぀元盎もずなおの嚘むすめ」です。

珟代げんだいの歎史れきしの䞀般的いっぱんおきな戊囜せんごく解説かいせ぀においお、この二人ふたりは「党たったくの別人べ぀じん」ずいうのが定説おいせ぀です。

歊田たけだ家けの軍孊曞ぐんがくしょであり、か぀お明治めいじから昭和しょうわにかけお「誀謬ごびゅうの倚おおい停曞ぎしょ」ず切きり捚すおられながらも、近幎きんねんの研究けんきゅうによっお「圓時ずうじの実態じったいを䌝぀たえる䞀玚いっきゅう史料しりょう」ずしお劇的げきおきな名誉めいよ回埩かいふくを果はたした『甲陜軍鑑こうようぐんかん』においおも、諏蚪すわ埡料人ごりょうにんは「かくれなき矎人びじん」、勝頌か぀よりを産うんだ女性じょせいず蚘しるされ、祢接ね぀埡寮人ごりょうにんは「根接ねづ殿どの」ずしお別べ぀の項目こうもくに名なを連぀らねおいたす。

しかし筆者ひっしゃは、『ののうノ野の』を曞かこうずした時、この「別人説べ぀じんせ぀」ずいう教科曞的きょうかしょおきな結論け぀ろんに、人間にんげんの情愛じょうあいず戊囜せんごくの珟実げんじ぀ずいう芳点かんおんから、玠朎そがくな疑問ぎもんを抱いだいおしたいたした。

ずいうのは、信濃しなのの珟地げんち───ずりわけ東信濃ひがししなの・祢接ね぀珟げん・長野県ながのけん東埡垂ずうみしの颚土ふうどず䌝承でんしょうに足あしを螏ふみ入いれ、史料しりょうに残のこされた断片だんぺんを䞹念たんねんに぀なぎ合あわせおいくず、定説ずは違う別べ぀の歎史れきしの茪郭りんかくが芋えおきたからです。

コラム『ののうノ野』第6回は、筆者ひっしゃが目めにした信濃しなのの倧地だいちに刻きざたれた䌝承でんしょうず颚土ふうどを出発点しゅっぱ぀おんずしお、叀文曞こもんじょが蚘号きごうのように分断ぶんだんしおしたった「二人の埡料ごりょう寮りょう人にん」の真実を探り、歎史れきしのミッシングリンクを解ずき明あかしおいきたいず思おもいたす。


1. 戊囜史の通説ぞの玠朎な疑問

① 筆者が抱いた玠朎な疑問
玙かみに残のこされた史料しりょうだけを远おっおいれば、確たしかに「諏蚪すわの嚘むすめ」ず「祢接ね぀の嚘むすめ」は二人の女性じょせいに芋みえたすが、たずは流れを远っおみたしょう。

倩文おんぶん11幎1542幎、連幎れんねんのように戊堎せんじょうを駆かけ巡めぐっおいた若わかき日ひの歊田たけだ信玄しんげんは、諏蚪すわを攻せめ滅ほろがし、翌よく12幎1543幎には䜐久さく・小県ちいさがたぞ䟵攻しんこうしお東信濃ひがししなのの祢接ね぀氏しを傘䞋さんかに収おさめたした。

その間、わずか䞀幎か二幎───。

この短い間あいだに信玄は、異こずなる信濃しなのの二倧名家だいみょうけの姫ひめを、ほが同時期どうじきに偎宀そくし぀ずしお迎むかえ入れた事になりたす。

女奜おんなずきで有名な豊臣秀吉ならただしも笑、それほど信濃には信玄奜みの矎人が倚いずいうこずでしょうか笑

戊囜時代の信玄玚の歊将の感芚はわかりたせんが、偎宀に迎えるなら同じ地域の嚘を二人もらうより、もっず離れた別の地域の嚘をもらった方が有効じゃね───ず、玠朎そがくな疑問ぎもんが湧いおきたした。

歎史れきしを振ふり返かえる時ずき、私わたしたちはどうしおも文献ぶんけんに残のこされた事を絶察芖ぜったいししがちです。
それは圓然ですが、そこには垞぀ねに歊家ぶけ瀟䌚しゃかいの家栌かかくや政治的せいじおき郜合぀ごう、あるいは線纂者ぞんさんしゃの私情しじょうずいう䜜為さくいが玛たぎれ蟌こんでいるのを忘れおはいけないず思いたす。

䞀方いっぜう、文字もじで残っおいない人の口䌝えや生掻習慣、あるいはその土地の地名ちめいや地圢の䞭なかにある「颚土ふうどの蚘憶きおくず䌝承でんしょう」は、非垞にあいたいではあるものの、それは暩力者けんりょくしゃの䜜為さくいや改竄かいざんを受うけ入れない生いきた歎史れきしのアヌカむブではないかず思っおいたす。

② 「祢接ね぀元盎もずなおの通やかたに預あずけられた」ずいう蚘録きろくの存圚そんざい
たず泚目ちゅうもくすべきは、倩文おんぶん11幎7月に諏蚪すわ頌重よりしげが甲府こうふの東光寺ずうこうじで自害じがいさせられ、諏蚪すわ惣領家そうりょうけが滅亡め぀がうした盎埌ちょくごの出来事できごずです。

残のこされた頌重よりしげの偎宀そくし぀麻瞟おみ氏しお倪方おおかた様さたず幌おさない嚘むすめ諏蚪すわ埡料人ごりょうにんの身柄みがらは、同おなじ諏蚪すわ䞀族いちぞくの血ちを匕ひき、歊田たけだ信虎のぶずらの嚘婿むすめむこでもあった「祢接ね぀元盎もずなお」の通やかた信州しんしゅう祢接ね぀に預あずけられ、手厚おあ぀く保護ほごされおいたずいう所䌝しょでん・蚘録きろくがありたす。

そしお歊田たけだ家けの公匏こうしき蚘録きろくである䞀玚いっきゅう史料しりょう『高癜斎蚘こうはくさいき』の倩文おんぶん12幎12月15日の条じょうには、「祢接ね぀より埡前ごぜん様さたが晎信はるのぶ信玄しんげんに入嫁じゅかした」ず蚘しるされおいたす。

この「祢接ね぀から嫁ず぀いだ埡前ごぜん様さた」が諏蚪すわ埡料人ごりょうにんなのか祢接ね぀埡寮人ごりょうにんなのかは長幎ながねん論争ろんそうが続぀づいおいるずころですが、そもそも諏蚪すわ埡料人ごりょうにんが母ははず共ずもに祢接ね぀の通やかたで暮くらしおいたずいう事実じじ぀を螏ふたえれば、圌女かのじょが「祢接ね぀の通やかたから信玄しんげんのもずぞ嫁ず぀いだ」ずいうのは極きわめお自然しぜんな流ながれです。

③ 祢接氏ず諏蚪氏を結ぶ「埡射山信仰ず鷹匠」
信濃しなのの歎史れきしを知しる人ひずなら、祢接ね぀氏しず諏蚪すわ氏しを「赀あかの他人たにんの別家べっけ」ずしお切きり離はなすこずはできたせん。
東信濃ひがししなのの名門めいもん・滋野しげの䞀族いちぞくである祢接ね぀氏しは、平安ぞいあん・鎌倉期かたくらき以来いらい、諏蚪すわ倧瀟たいしゃ䞊瀟かみしゃの倧祝家おおほうりけず深ふかい関係にあり、諏蚪すわの最倧さいだいの神事しんじである「埡射山みさやた祭瀌さいれい」においお神聖しんせいな神事しんじず鷹匠たかじょうの圹目やくめを叞぀かさどっおきた、「諏蚪すわ神党しんずう諏蚪すわ倧明神だいみょうじんを祀た぀る神族しんぞく集団しゅうだん」の筆頭栌ひっずうかくです。

甲斐かいの䞭倮ちゅうおうから芋みれば「諏蚪すわの領䞻りょうしゅ」ず「小県ちいさがたの囜人衆こくにんしゅう」ずいう二぀の歊家ぶけに分わかれお芋みえたずしおも、信濃しなのの信仰しんこうず血脈け぀みゃくの土壌どじょうにおいおは、䞡家りょうけは諏蚪すわ倧明神だいみょうじんの神性しんせいを共有きょうゆうする䞍可分ふかぶんの関係でした。

④ 吟劻衆が「歊田家」ず「真田家」に尜くし続けた深い忠誠心
曎さらに、筆者が出発点しゅっぱ぀おんずしお考かんがえたいのは、この埌のちの歊田たけだ家けから真田さなだ氏しぞず移う぀り倉わる時の真田ず吟劻衆あが぀たしゅうの動きなのです。
あれほどの倧きな戊囜せんごく史しの移り倉わりの䞭で、圌らはぶれるこずなく歊田に぀きたす。
ここが倧きな謎なぞずいうかポむントです。

倩正おんしょう10幎1582幎、歊田勝頌か぀よりが織田おだず埳川ずくがわの連合軍れんごうぐんに敗やぶれ、歊田たけだ家けが厩壊ほうかいしおいく䞭なか、穎山あなやた梅雪ばいせ぀や小山田おやただ信茂のぶしげずいった甲斐かい譜代ふだいの重臣じゅうしんたちは、次々぀ぎ぀ぎず勝頌か぀よりを裏切うらぎっおいきたした。

しかし真田家の圓䞻だった真田信綱のぶ぀なを倱った真田さなだ昌幞たさゆきをはじめ、東信濃ひがししなのの囜人衆こくにんしゅう、たた吟劻あが぀たの忍しのび衆しゅう祢接ね぀神平しんぺい、唐沢からさわ玄蕃げんば、割田わりた重勝しげか぀らたちは、最埌さいごの倩目山おんもくざんに至いたるたで、滅ほろびゆく歊田たけだ勝頌か぀よりを䞻君しゅくんずしお支ささえ続぀づけたした。

なぜでしょう

圌かれらが呜いのちを捧ささげたのは、単たんなる「甲斐かいの歊田たけだ家け」ずいう組織そしきに察たいしおだったのか。

それずも───

「勝頌か぀よりずいう䞀人の男おずこ」が、自分たちの郷土きょうどである信濃しなの・祢接ね぀滋野しげの䞉家の血ちを匕ひいおいたずするならば、理屈りく぀を超こえたずころの忠誠ちゅうせいがあったず考えるこずができたす。

筆者ひっしゃは小説を曞き進めるうちに、そう思おもうようになりたした。


2. 『高癜斎蚘』に刻たれた決定的な史料の矛盟

「諏蚪すわ埡料人ごりょうにんず祢接ね぀埡寮人ごりょうにんは別人べ぀じんである」ずする最倧さいだいの根拠こんきょは、埌䞖こうせいにたずめられた系図類けいずるい『歊田たけだ系図けいず』などや『甲陜軍鑑こうようぐんかん』においお、二人の女性じょせいが別々べ぀べ぀の項目こうもくずしお蚘しるされおいるからです。

しかし、歊田たけだ家けの同時代どうじだいを最もっずもリアルタむムに蚘録きろくした第䞀玚だいいっきゅう史料しりょう───歊田たけだ信虎のぶずら・信玄しんげんの二代に仕぀かえた偎近そっきん・駒井こたい高癜斎こうはくさいの日蚘にっき『高癜斎蚘こうはくさいき』を芋みるず、歎史れきし孊者がくしゃたちを今いたなお悩なやたせ続぀づけおいる決定的けっおいおきな矛盟むじゅんず謎なぞが芋えたす。

倩文おんぶん12幎1543幎12月15日の条じょうに、こう蚘しるされおいるのです。

「十五日 甲寅 犰接より埡前様入嫁」

この「祢接ね぀から信玄しんげん晎信はるのぶのもずぞ茿入こしいれした埡前ごぜん様さた」ずは、䞀䜓いったい誰だれなのか

近代きんだい以降いこうにおいお、この䞀行をめぐっお「諏蚪すわ埡料人ごりょうにんの茿入こしいれを指さす」ずする説せ぀ず、「祢接ね぀埡寮人ごりょうにんの茿入こしいれを指さす」ずする説せ぀ずが真たっ向こうから察立たいり぀しお決着けっちゃくが぀きたせん。

なぜ、このような論争ろんそうが起おこるのかず蚀いえば、それは、諏蚪すわ氏しの滅亡め぀がうから信玄しんげんの偎宀そくし぀入いりに至いたる「生々なたなたしいタむムラむン」ず「身柄みがら預あずかりの史実しじ぀」を突぀き合あわせおいくず、䞡者りょうしゃが完党かんぜんに重かさなり合あっおしたうからです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【倩文11幎〜12幎のタむムラむン】
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◆ 倩文11幎1542幎7月22日【諏蚪氏滅亡】
 信玄しんげんの䟵攻しんこうにより、父ちち・諏蚪すわ頌重よりしげが甲府こうふで自害じがい。堎所ばしょ甲府こうふ・諏蚪すわ

◆ 倩文11幎1542幎秋〜冬【母嚘が祢接ぞ】
 残のこされた偎宀そくし぀麻瞟おみ氏しず嚘むすめ諏蚪すわ埡料人ごりょうにんが、同族どうぞくである「信州しんしゅう祢接ね぀の通やかた」に預あずけられ、匿かくたわれお暮くらし始はじめる。堎所ばしょ信州しんしゅう祢接ね぀

◆ 倩文12幎1543幎5〜9月【祢接氏の臣埓】
 信玄しんげんが小県ちいさがたぞ䟵攻しんこうし、祢接ね぀元盎もずなおが歊田たけだに臣埓しんじゅう。堎所ばしょ信州しんしゅう小県ちいさがた

◆ 倩文12幎1543幎12月15日【『高癜斎蚘』の䞀行】
 歊田たけだ家けの公匏こうしき蚘録きろくに「犰接より埡前様入嫁」ず蚘録きろくされる。堎所ばしょ祢接ね぀ ➡ 甲府こうふ

◆ 倩文14幎1545幎日付䞍明【通説ずなっおいる 『甲陜軍鑑』の蚘述】諏蚪埡料人14歳の時に信玄の偎宀ずなり、甲府の躑躅ケ厎通぀぀じがさきやかたに迎えられ、翌倩文15幎1546幎に歊田勝頌四郎誕生。堎所ばしょ甲府こうふ

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

① 諏蚪頌重の自害ず、その母嚘の「祢接滞圚」ずいう史実
䞊のタむムラむンは、倩文おんぶん11幎1542幎7月、信玄しんげんの奇襲きしゅうによっお諏蚪すわ頌重よりしげは甲府こうふで切腹せっぷくに远おい蟌こたれ、諏蚪すわ惣領家そうりょうけは滅亡め぀がうし、このずき残のこされた頌重よりしげの偎宀そくし぀である麻瞟おみ氏し小芋おみ氏し・のちにお倪方おおかた様さたず呌よばれる女性じょせいず、その嚘むすめのちの諏蚪すわ埡料人ごりょうにんの経緯を远っおいたす。

圌女かのじょたち母嚘おやこの身柄みがらは、歊田たけだず諏蚪すわの双方そうほうに深ふかい芪戚しんせき関係かんけいを持もち、同おなじ諏蚪すわ神党しんずうの䞀族いちぞくでもあった東信濃ひがししなのの「祢接ね぀元盎もずなお」の通やかたに預あずけられ、保護ほごされたした。
父ちちを蚎うたれた姫ひめは、甲府こうふではなく、信州しんしゅう祢接ね぀東埡垂ずうみしの山やたあいの通やかたで母ははず共ずもに息いきを朜ひそめ、日々ひびを過すごしたのです。

぀たり、圌女かのじょは「実際じっさいに祢接ね぀の通やかたで暮くらし、祢接ね぀の保護䞋ほごかにあった姫ひめ」だったこずがうかがえたす。

② 「敵将の嚘」をそのたた嚶れない歊田家䞭の空気
歊田たけだ家けにずっお、諏蚪すわ頌重よりしげは滅ほろがしたばかりの敵おきです。

『甲陜軍鑑こうようぐんかん』にも、頌重よりしげの嚘むすめを信玄しんげんの偎宀そくし぀に迎むかえるこずに぀いお、歊田たけだ家䞭かちゅうで匷぀よい反察論はんたいろんが巻たき起おこったこずが曞かれおいたすが、このずき山本やたもず勘助かんすけが、
「諏蚪すわの血ちを匕ひく男子だんしを産うたせお諏蚪すわの名跡みょうせきを継぀がせれば、信濃しなの平定ぞいおいの芁かなめずなる」
ず説埗せっずくしおようやく玍埗なっずくさせた、ずいう逞話い぀わが残のこりたす。

家臣団かしんだんの手前おたえ、いくら信玄しんげんがその矎貌びがうに心こころを奪うばわれたずしおも、「蚎うち滅ほろがした敵将おきしょうの嚘むすめ」を諏蚪すわから盎接ちょくせ぀甲府こうふの通やかたぞ匕ひき入いれるこずは、政治的せいじおきにも心情的しんじょうおきにも極きわめお䜓裁おいさいが悪わるかったはずです。

そこで取ずられた最もっずも自然しぜんで合理的ごうりおきな手続お぀づきこそが、「歊田たけだに垰属きぞくした信濃しなのの有力ゆうりょく囜人衆こくにんしゅう・祢接ね぀元盎もずなおの庇護䞋ひごかに眮おき、祢接ね぀の家いえから茿入こしいれさせる」ずいう圢かたちでした。

たた『甲陜軍鑑』では、諏蚪埡料人が信玄の偎宀になったのは圌女が14歳の時、倩文14幎1545幎ずされおいたすが、日付が䞍明なこずから考えるに、蚘されたのがこの事実があった時から30幎埌ですから、極めお蚘憶が曖昧あいたいだったこずは蚀うたでもありたせん。
たた、「14」ずいう数字を芋るに、勝頌が生たれたのが倩文15幎ですから、結婚はその前幎の14幎だったろうずいう単玔な思い蟌みから「14」ずいう数字が出お来たずも考えられるし、圓時の歊家瀟䌚では、幌い姫はたず同盟どうめい・庇護ひごの圢で仮入嫁かりじゅかずいう圢で匕き取っおから、初朮しょちょうを迎えお成人した段階で正匏に倫婊の契ちぎりを結んだ奥入おくいりずいう二段階の手続きが䞀般的だったこずなど考えれば、説明などいくらでも぀いおしたいたす。

③ 『高癜斎蚘』が氷解させる謎
こうしお歎史れきしの力孊りきがくを蟿たどり盎なおしおみるず、『高癜斎蚘こうはくさいき』の「倩文おんぶん十二幎十二月十五日、祢接ね぀より埡前ごぜん様さた入嫁じゅか」ずいう蚘述きじゅ぀の謎なぞは、鮮あざやかに䞀本の線せんで繋぀ながりたす。

血筋ちすじにおいお「諏蚪すわ頌重よりしげの嚘むすめ」でありながら、父ちちの死埌しごに身みを寄よせた祢接ね぀の通やかたから、祢接ね぀の庇護ひごを受うける姫ひめずしお信玄しんげんに嫁ず぀いだ。
だからこそ、同時代どうじだいを蚘録きろくした高癜斎こうはくさいは「諏蚪すわより」ではなく「祢接ね぀より埡前ごぜん様さた入嫁じゅか」ず、実際じっさいに姫ひめが出立しゅった぀した堎所ばしょをありのたたに曞かき留ずめたのだず思いたす。

぀たり甲斐かいの䞭倮ちゅうおうの歊士ぶしたちにずっおは「諏蚪すわの姫ひめ」に違いなく、逆に送おくり出だした信濃しなのの圚地ざいちにずっおは「祢接ね぀の姫ひめ」に違いないずいう論理です。

䞀人の女性じょせいが眮おかれたこの境遇きょうぐうが、のちに玙かみの系図けいずの䞊うえで「諏蚪すわ埡料人ごりょうにん」ず「祢接ね぀埡寮人ごりょうにん」ずいう二぀の名なに分断ぶんだんされおしたった。
たずえるなら、最初さいしょのボタンの掛かけ違ちがいから生じた間違いず筆者は考かんがえたす。


3. 東信濃の歊家「家栌」を超えた諏蚪神党

䞀人の女性じょせいが二人の別の女性じょせいにされおしたった背景はいけいには、「甲斐かいの䞭倮ちゅうおう政暩せいけん歊家ぶけ瀟䌚しゃかいが求موずめた家栌かかくの論理ろんり」ず、「信濃しなの圚地ざいちに息いきづいおいた神統しんずう・信仰しんこうの論理ろんり」ずいう、二぀の異こずなる芖点しおんがあったからではないでしょうか。
たいがいの孊者は、宗教ずいう芳点を抜かしお物事を考える傟向があるず思っおいるのは筆者だけでしょうか。

① 甲斐䞭倮の論理───「歊家の家栌」による蚘号化
『甲陜軍鑑こうようぐんかん』を語かたり継぀いだ歊田たけだの歊士ぶしたちや、江戞えど時代じだいに系図けいずを線纂ぞんさんした軍孊者ぐんがくしゃたちの頭あたたの䞭なかには、培底おっおいした「歊家ぶけ瀟䌚しゃかいの家栌かかく苗字みょうじず血統けっずう」がありたした。

「諏蚪の血」を匷調する政治的芁請
歊田たけだ家けにずっお、勝頌か぀よりに名跡みょうせきを継぀がせるべき察象たいしょうは、信濃しなのの䌝統的でんずうおき暩嚁けんいである「諏蚪すわ惣領家そうりょうけ」でした。したがっお、勝頌か぀よりの母ははは政治的せいじおきな箔付はくづけずしお「諏蚪すわ頌重よりしげの息女そくじょ諏蚪すわ殿どの」ずしお蚘録きろくしなければならなかった。

「祢接の血」を別蚘する東信濃家臣団管理の芁請
䞀方いっぜうで、歊田たけだ家けが東信濃ひがししなのの囜人衆こくにんしゅうを傘䞋さんかに治おさめた蚌あかしずしお、「祢接ね぀氏しの嚘むすめ根接ねづ殿どの」ずいう偎宀そくし぀の存圚そんざいもたた、別べ぀の政治的せいじおきカヌド囜人衆こくにんしゅう懐柔かいじゅうの蚘録きろくずしお残のこしおおく必芁ひ぀ようがあった。

぀たり、甲斐かいの歊士ぶしたちは、䞀人の女性じょせいの存圚そんざいをありのたたに捉ずらえるのではなく、「歊田たけだ家けの領囜りょうごく統治ずうちに郜合぀ごうのよい二぀の家栌かかく諏蚪すわず祢接ね぀」ずいうフィルタヌを通ずおしお、別々べ぀べ぀の偎宀そくし぀ずしお蚘号化きごうかしおしたった。

② 史料の察比『甲陜軍鑑』ず『加沢蚘』
ここで興味深きょうみぶかいのは、甲斐かい歊田たけだの芖点しおんで蚘しるされた『甲陜軍鑑こうようぐんかん』に察たいし、信濃しなの・䞊野こうずけの圚地ざいち瀟䌚しゃかいの動向どうこうを克明こくめいに蚘録きろくした軍蚘ぐんき・地誌ちしである『加沢蚘かざわき』の蚘茉です。

『加沢蚘かざわき』を玐解ひもずくず、祢接ね぀氏しや真田さなだ氏し、そしお吟劻衆あが぀たしゅうずいった北信濃きたしなの・䞊野こうずけの囜人衆こくにんしゅうたちが、単たんなる「歊田たけだの埓属じゅうぞく勢力せいりょく」ではなく、諏蚪すわ信仰しんこうや滋野しげの䞀族いちぞくの誇ほこりを共有きょうゆうする独自どくじの匷固きょうこな連垯れんたいを持もっおいたこずが分かりたす。

甲府こうふの歊士ぶしたち『甲陜軍鑑こうようぐんかん』が「家栌かかくの論理ろんり」で諏蚪すわ殿どのず根接ねづ殿どのを別個べっこに蚘録きろくしたのに察たいし、珟地げんちの土豪どごうたちの息遣いきづかいを䌝぀たえる『加沢蚘かざわき』の䞖界芳せかいかんは、祢接ね぀氏しが諏蚪すわ倧明神だいみょうじんの神事しんじを支ささえる「諏蚪すわ神党しんずう」ずしお厇あがめられ、その血統けっずうが信濃しなの歊士ぶしたちの粟神的せいしんおき支柱しちゅうであったこずを䌝えおいたす。

③ 信濃珟地の事実───「諏蚪神党」ずしおの䞍可分の䞀䜓性
そしお、文献から離れ、芖点しおんを信濃しなのの珟地げんちぞ戻もどしおみれば、たた党たったく違ちがった事情じじょうが芋えおきたす。
信濃しなのの圚地ざいち瀟䌚しゃかいにおいおは、諏蚪すわ氏しず祢接ね぀氏しは決けっしお氎みずず油あぶらのような赀あかの他人たにんではありたせん。

東信濃ひがししなのの名門めいもん・滋野しげの氏しの支族しぞくである祢接ね぀氏しが諏蚪すわ倧瀟たいしゃの倧祝家おおほうりけず深ふかく結むすび぀いおいたこずは前述したしたが、祭神さいじんである建埡名方神たけみなかたのかみを共通きょう぀うの守護神しゅごしんずし、䜕癟幎なんびゃくねんにもわたっお神事しんじず血瞁け぀えんを分わかち合あっおきた信濃しなのの信仰しんこう共同䜓きょうどうたいにおいおは、諏蚪すわず祢接ね぀ずは信仰的しんこうおき・粟神的せいしんおきにおいお完党かんぜんにひず぀の根ねで繋぀ながっおいたす。

④ 「信濃の神の䟝代」ずしおの姫
この東信濃ひがししなのの宗教的しゅうきょうおき・颚土的ふうどおきな背景はいけいを螏ふたえれば、父ちち・諏蚪すわ頌重よりしげを倱うしない、祢接ね぀の通やかたに身みを寄よせた若わかき姫ひめの姿すがたがより鮮明せんめいになりたす。

圌女かのじょは、諏蚪すわ倧祝家おおほうりけの神聖しんせいな血ちをその身みに宿やどし、同時どうじに諏蚪すわ神党しんずうの筆頭栌ひっずうかくである祢接ね぀の地ちで倧切たいせ぀に保護ほごされた───、぀たり圌女は「諏蚪倧瀟すわたいしゃの神性しんせいを䞀身いっしんに垯おびた聖せいなる女性じょせい」ず蚀いっおも過蚀でありたせん。

信玄しんげんが求もずめたのは、単たんなる「歊家ぶけの嚘むすめ」ずいう家柄いえがらではなく、信濃しなのを真たこずに我わがものずし、倩䞋おんかぞず号什ごうれいするために䞍可欠ふかけ぀だった「軍神ぐんしん・諏蚪すわ倧明神だいみょうじんの神性しんせいず、東信濃ひがししなのを統すべる諏蚪氏すわしや祢接氏ね぀しの血統けっずう」そのものだったずも考かんがえられるのです。

この蟺あたりはたた別べ぀のコラムでも曞かこうず思おもいたすが、甲斐かいの蚘録者きろくしゃが「諏蚪すわ」ず「祢接ね぀」ずいう二぀の苗字みょうじで扱あ぀かった女性じょせいの正䜓しょうたいは、信濃しなのの倧地だいちにおいお最初さいしょから䞍可分ふかぶんに結むすび぀いおいた、諏蚪すわの神統しんずうを宿やどし、祢接ね぀の郷さずに生いきた䞀人の姫ひめであったず筆者は考かんがえたす。


4. 土地の蚘憶───歎史の衚舞台に立぀「求女川の里矎姫」

ここたで「諏蚪すわ埡料人ごりょうにん」ず「祢接ね぀埡寮人ごりょうにん」は同䞀どうい぀人物じんぶ぀であるこずを綎぀づっおきたしたが、『ののうノ野の』では「祢接ね぀埡寮人ごりょうにん」を「里矎さずみ姫ひめ」の名なで登堎ずうじょうさせ、曎に「祢接ね぀元盎もずなお」の嚘むすめずしお曞かきたした。

「里矎さずみ姫ひめ」ずいうのは、新田にった次郎じろうの『歊田たけだ信玄しんげん』の䞭なかで氏しが圌女かのじょに぀けた名前なたえですが、同曞どうしょにおいお諏蚪すわ埡料人ごりょうにんは「湖衣姫こいひめ」ずいい、井䞊いのうえ靖やすしの『颚林火山ふうりんかざん』においお諏蚪すわ埡料人ごりょうにんは「由垃姫ゆふひめ」ず名付なづけおいたす。

か぀おの䜜家さっかたちは、信濃しなのの過酷かこくな山河さんがで歊田たけだ信玄しんげんず結むすばれた歎史れきしに埋うもれた圌女かのじょたちにそのような名なを䞎あたえお光ひかりを圓あおおきたしたが、筆者ひっしゃもそれにあやかり、「祢接ね぀埡寮人ごりょうにん」に「里矎さずみ」の名なを圓おお䜿぀かわせおいただきたした。

曎さらに告癜こくはくいたしたすず、「祢接ね぀元盎もずなお」の嫡子ちゃくしが「垞安じょうあん」ずいうのは史実どおりでもあり問題ないのですが、ストヌリヌを劇的に盛り䞊げるために、信玄しんげんから甲陜流こうようりゅう頭領ずうりょうを任たかされたず䌝぀たわる「祢接ね぀神平じんぺい」を「垞安じょうあん」の双子ふたごの匟おずうずずし、二人を「里矎さずみ」の兄あにずいう蚭定せっおいにしたした。
そうするこずで、吟劻衆あが぀たしゅうずの関りがより深たり、より鮮明に浮かび䞊がるず考えたからで、史実しじ぀よりも物語ものがたりを優先ゆうせんし、そちらの説埗性せっずくせいを深ふかめるためにずった圢かたちです。

ちなみに「神平じんぺい」ずいうのは祢接ね぀氏しの名跡みょうせきの継承けいしょうに甚もちいられた名なのようですが・・・。

ずたれ、ここで改あらためお問ずいたいのは、通説぀うせ぀が絶察ぜったいの拠より所どころずする『甲陜軍鑑こうようぐんかん』ずいう史料しりょうの本質ほんし぀です。

珟圚げんざいでこそ歊田たけだ家けの実態じったいを䌝぀たえる貎重きちょうな蚘録きろくずしお再評䟡さいひょうかされおいたすが、明治めいじから昭和しょうわにかけお、長ながらく䞀玚いっきゅう史料しりょうから远攟぀いほうされおいたした。

その最倧さいだいの理由りゆうは、「客芳的きゃっかんおきな事実じじ぀の䞭なかに、語かたり手お高坂こうさか匟正だんじょう昌信たさのぶ〈春日かすが虎綱ずら぀な〉の匷぀よい私情しじょうず䞻芳しゅかん、あるいは埌䞖こうせいぞの教蚓きょうくんずしお残したい思いが色濃いろこく混圚こんざいしおいる」ずいう点おんにありたす。

海接城代かいづじょうだいずしお北信濃きたしなのの最前線さいぜんせんにいた匟正だんじょうにずっお、歊田たけだ家けが滅亡め぀がうぞず突぀き進すすむ勝頌か぀よりの政治せいじは痛恚぀うこんの極きわみであり、その筆臎ひっちには勝頌か぀より偎近そっきん長坂ながさか・跡郚あずべらぞの憀いきどおりや、「勝頌か぀より滅ほろびゆく諏蚪すわの血ち」ずいう宿呜論的しゅくめいろんおきな私情しじょうずドラマ仕立じたおの匂においが玛たぎれ蟌こんでいたす。

぀たり、『甲陜軍鑑こうようぐんかん』に蚘しるされた「諏蚪すわ殿どの」ず「根接ねづ殿どの」ずいう別個べっこの蚘述きじゅ぀も、甲斐かいの歊士ぶしたちの政治的せいじおき思惑おもわくや私情しじょうによっお切きり分わけられた「䜜぀くられた蚘録きろく」の䞀面いちめんを孕はらんでいるず蚀いわれおも仕方しかたなく、近幎芋盎されおいるずいっおも、史実ず私情が混圚しおいる点は拭えたせん。

① 玙の蚘録は残らずも、人ず倧地の蚘憶は残る
玙かみに墚すみで曞かかれた蚘録きろくは、戊火せんかで燃もえ、時ずきの暩力者けんりょくしゃの郜合぀ごうによっお曞かき換かえられおしたう儚はかなさを持もっおいたす。

察しお、倧地だいちの圢状けいじょうに刻きざたれ、そこで暮くらす人々ひずびずの口くちから口くちぞず䜕癟幎なんびゃくねんも呌よばれ続぀づけおきた「地名ちめい」や「川かわの名な」は、いかなる暩力者けんりょくしゃであっおも改竄かいざんするこずはできたせん。

浅間山あさたやたや湯ゆの䞞たる連峰れんぜうの険けわしい山䞊やたなみ、その裟野すそのから湧わき出でる豊ゆたかな枅流せいりゅう、叀代こだいからの牧たきや山岳さんがく修隓しゅげんの道みちが亀差こうさする東信濃ひがししなの・祢接ね぀の颚土ふうど───この厳きびしい自然しぜん環境かんきょうがあったからこそ、神仏しんぶ぀の蚀葉こずばを降おろす「ののう巫女みこ」の集萜しゅうらくが圢成けいせいされ、自然しぜんを畏怖いふする諏蚪すわの神事しんじも深ふかく根ねづいおいったず考えたす。

殊、東埡垂ずうみし祢接ね぀の集萜しゅうらくを歩あるけば、「求女川もずめがわ」「姫子沢ひめこざわ」「姫ひめの倧岩おおいわ」「童女おうなの郷さず」、峠を越えれば「嬬恋぀たごい」やら「愛劻の䞘」やら、そも「吟劻あが぀た」もそうですが、こうした女性じょせいにた぀わる特異ずくいな地名ちめいが驚おどろくほど倚く残のこされおいるのです。

この颚土ふうどそのものが、信濃しなのの神かみの䟝代よりしろずなる聖せいなる女性じょせいたちを育はぐくんできた揺ゆるぎない蚌拠しょうこではないでしょうか。

② 䌝承が語り継ぐ「求女川」の真実
䞭なかでも、祢接氏ね぀しの通跡やかたあずの東偎ひがしがわを流ながれる「求女川もずめがわ」は、単たんなる民話みんわの川かわではなく、珟圚げんざいも千曲川ちくたがわぞず泚そそぐ実圚じ぀ざいの䞀玚いっきゅう河川かせんです。

そしお同地どうちには、信濃しなの䟵攻しんこうの途䞊ずじょうで祢接ね぀の通やかたを蚪おずずれた信玄しんげんが、川かわを挟はさんで響ひびく錓぀づみの音おずに心を奪うばわれ、冷぀めたい川かわの氎みずを蹎けっお「里矎さずみ姫ひめ元盎もずなおの嚘むすめ」を抱だきしめたずいう情熱的じょうね぀おきな恋こいの䌝承でんしょうが川かわの名なずずもに䌝぀たえられおいたす。

甲斐かいの歊士ぶしたちが『甲陜軍鑑こうようぐんかん』の䞭なかで、家栌かかくの論理ろんりや私情しじょうによっお「諏蚪すわ頌重よりしげの嚘むすめ」ず「祢接ね぀元盎もずなおの嚘むすめ」を切きり分わけお蚘録きろくした二぀の蚘号きごうの奥おくには、実は諏蚪すわの神聖しんせいな血ちを宿やどしながら祢接ね぀の通やかたで育そだち身を寄せ、求女川もずめがわのほずりで信玄しんげんの心こころを奪うばった「里矎さずみ姫ひめ」が息づいおいるのです。

拙著せっちょ『ののうノ野の』においお、信玄しんげんず心こころを通かよわせる女性じょせいを「里矎さずみ姫ひめ」ず呌よび、求女川もずめがわの逢瀬おうせを描えがいたのは、新田にった次郎じろうをはじめずする先人せんじんたちの文孊的ぶんがくおき探求たんきゅうを受うけ継぀ぎ぀぀、この信州しんしゅう祢接ね぀の地ちに400幎刻きざたれ続぀づけおきた「求女川もずめがわの颚土ふうどの蚘憶きおく」を、歎史れきしの衚舞台おもおぶたいぞず呌よび戻もどすためだず蚀いえば、ちょっずカッコよすぎるでしょうか笑


5. 二人の『埡料寮人』を䞀぀に結ぶ「求女川の里矎姫」

これたで述のべおきた歎史れきしの断片だんぺんをひず぀の線せんで結むすび盎なおした時ずき、導みちびき出だされる結論け぀ろんは極きわめおシンプルです。

圌女かのじょは、「血統けっずうにおいおは諏蚪すわ倧明神だいみょうじんの神聖しんせいな血ちを宿やどし、身分みぶんず生掻せいか぀においおは祢接ね぀の通やかたに身を眮き、信玄しんげんに愛あいされた女性じょせい───求女川もずめがわの里矎さずみ姫ひめがその人ひずであった」ずいうこずです。

二人の『埡料ごりょう寮りょう人にん』が「求女川もずめがわの里矎さずみ姫ひめ」ずいう䞀人の女性じょせいずしお統合ずうごうされたずき、戊囜せんごく史しに暪たわっおいた幟倚いくたのミッシングリンクは鮮あざやかに氷解ひょうかいしおいきたす。

① 勝頌の深い孀独ず母の面圱
歊田たけだ宗家そうけの通字ずおりじである「信」の字じを䞎あたえられず、諏蚪すわの「頌より」を名乗なのらされた歊田たけだ勝頌か぀よりずいう歊将ぶしょうは、甲斐かい譜代ふだいの宿老しゅくろうたちから垞぀ねに「他家たけ諏蚪すわの人間にんげん」「信勝のぶか぀が成人せいじんするたでの䞭継なか぀ぎ陣代じんだい」ずしお冷ひややかな芖線しせんを济あびせられ、その生涯しょうがいは垞぀ねに「家栌かかくのしがらみ」ずの戊たたかいでした。

偉倧いだいすぎる父ちち・信玄しんげんの圱かげ、そしお自分じぶんを正統せいずうな圓䞻ずうしゅずしお認みずめようずしない甲斐かいの歊士ぶしたちに囲かこたれ、圌がどれほど深ふかい孀独こどくず劣等感れっずうかんに苛さいなたれおいたかは想像そうぞうに難かたくありたせん。

しかし、その冷酷れいこくな甲斐かいの政治せいじ空間くうかんの䞭なかで、勝頌か぀よりを根底こんおいで支ささえ続぀づけおいたものずは䜕か───
それこそその時ずきには既に死別しべ぀しおいた母はは・里矎さずみ姫ひめの蚘憶きおくであり、母ははの故郷こきょうである信濃しなの高遠城たかずおじょう、諏蚪湖すわこ、そしお東信濃ひがししなの・祢接ね぀の颚土ふうどぞの思慕しがだったに違ちがいありたせん。

② 信濃の圱祢接・真田・吟劻衆が身呜を尜くした理由
そしお、この「求女川もずめがわからの繋぀ながり」こそが、歊田たけだ滅亡期め぀がうきにおける信濃しなの歊士ぶしたちの忠誠心ちゅうせいしんの謎なぞを解ずく鍵かぎだず思おもっおいたす。

倩正おんしょう10幎1582幎、織田おだ信忠のぶただの倧軍たいぐんが怒涛どずうの勢いきおいで抌おし寄よせ、歊田たけだ家けが厩壊ほうかいの淵ふちに立たたされたずき、芪族しんぞく筆頭ひっずうの穎山あなやた梅雪ばいせ぀は埳川ずくがわぞず寝返ねがえり、郡内ぐんない領䞻りょうしゅの小山田おやただ信茂のぶしげは勝頌か぀よりの行ゆく手おを笹子峠ささごずうげで遮さえぎっお裏切うらぎりたした。

甲斐かいの譜代ふだいや䞀門いちもんが我われ先さきにず䞻君しゅくんを芋捚みすおおいく䞭なかで、高遠城たかずおじょうの戊たたかい倩正おんしょう10幎3月2日で最埌さいごたで勝頌か぀よりのために戊たたかっお玉砕ぎょくさいした仁科にしな五郎ごろう盛信もりのぶや諏蚪すわ勝右衛門か぀えもん頌蟰よりた぀ずその劻぀た・はな、飯島いいじた小倪郎こたろうずいった信濃しなの歊士ぶし。勝頌か぀よりが自決じけ぀した倩目山おんもくざんの戊たたかい倩正おんしょう10幎3月11日では、最埌さいごに残のこった40数名すうめいのうちの倚おおくが信濃の䌊那いなや䜐久さくの囜人衆こくにんしゅうだったのです。

曎には真田さなだ昌幞たさゆきをはじめずしお祢接氏ね぀し神平じんぺいや、吟劻あが぀たの忍しのび衆しゅうたちは、滅ほろびゆく歊田たけだ勝頌か぀よりを救すくおうず奔走ほんそうしたした。
特ずくに昌幞たさゆきは、勝頌か぀よりを迎むかえ入いれるためにわずか䞉日で岩櫃山麓いわび぀さんろくに「叀谷ふるや埡殿ごおん朜韍院せんりゅういん」を突貫ずっかん工事こうじで築きずき䞊あげ、最埌さいごたで諊あきらめなかった事実は『甲陜軍鑑』でも觊れられおいる通りです。

圌かれらが守たもろうずしたのは、もはや圢骞化けいがいかした「甲斐かい歊田たけだ家け」ずいう暩力けんりょく組織そしきではありたせん。
自分たちの郷土きょうど・信州しんしゅう祢接ね぀の枅流せいりゅうのほずりで信玄しんげんず結むすばれ、信玄しんげんの信奉しんぜうした諏蚪すわの神かみを宿やどした「滋野しげの䞉家さんけが生うんだ姫ひめ里矎さずみが遺のこした、たった䞀人の継承者けいしょうしゃ」なのでした。

甲斐かいの歊士ぶしたちが利害りがいず家栌かかくで勝頌か぀よりを芋限みかぎる䞭なか、信濃しなのの圱かげの衆しゅうたちを突぀き動うごかしたのは、理屈りく぀や損埗そんずくを遥はるかに超こえた、母はは・里矎さずみ姫ひめの面圱おもかげを宿やどす勝頌か぀より個人こじんぞの玔粋じゅんすいな血瞁け぀えんず信仰しんこうの絆きずなだったずしたら、里矎さずみ姫ひめが祢接ね぀氏しの出でであったずしおも、あながち嘘うそずは蚀いえないでしょう。

③ 土地に刻たれた「愛ず生呜の蚘憶」
歎史れきしの真実しんじ぀は、残された公的こうおきな文曞ぶんしょの䞭なかだけに眠ねむっおいるわけではないずいうのが筆者ひっしゃの考かんがえです。

玙かみの蚘録きろくが䞀人の女性じょせいを二぀に切きり分わけようず、400幎以䞊いじょうもの間あいだ、土地ずちの人々ひずびずの口䌝くでんや地名ちめいずしお信濃しなのの倧地だいちに刻きざたれおきた「求女川もずめがわのせせらぎ」の䞭なかにこそ、戊乱せんらんの䞖よを生いき抜ぬいた人々ひずびずの真実しんじ぀の蚘憶きおくが、色濃いろこく息いきづいおいる堎合ばあいもあるず筆者は思うのです。

※ noteにおいお「ののうノ野」は、1,500円のマガゞンを賌入するず、1話あたり10円皋床で党お読み攟題になりたす第1話・第116話、無料公開

いいなず思ったら応揎しよう

磐城たんぢう よろしければ応揎お願いしたす いただいたチップはクリ゚むタヌずしおの掻動費に䜿わせおいただきたす