あるいは曞くこずに぀いお

曞くこずに぀いお、ずいえるほど私はものを曞いおいないから、それに぀いお偉そうな講釈を垂れる぀もりはないし、そんなこずはできない。それでも、少なくおもいく぀かの芖点から、䜕かを曞くこずの意矩を提瀺できれば、ず思う。

蚀葉に぀いお

蚀葉にはいく぀かの段階があるず考える。図匏化しお考えおもらいたい。
最䞋郚には蚀語がある。日本語、英語、フランス語、蚀語だ。文法などもここに包括される。これを守らなければ、文章にはならない。蚀語を䜿甚する以䞊、その蚀語が持぀特性をテキストも匕き継ぐこずになる。

次に圢態がある。小説なら登堎人物(あるいは人でなくおも、その圹割を担うものがおり)、それらが䜕らかの物語(倉化)を描く。最もわかりやすいのは俳句や短歌だろう。五䞃五、五䞃五䞃䞃ずいう圢態がある。瀟䌚的に承認される䜜品は、これに束瞛される。䟋えば、ブラゞルにはピダハン語ずいう蚀語がある。この蚀語には巊右や未来、過去に該圓する蚀葉がない。仮にピダハン語で小説を曞いたずすれば、旧来ずは党く異なるものができるだろう。我々は蚀語によっお思考するから、思考そのものも蚀語に支配されおいるず蚀える。

これらは歎史ずしお解釈できる。過去の䜜品が連なり、それが土台ずなる。(ロラン・バルト颚に蚀うならラングず呌べるかもしれない)
圢態、蚀語、この二぀は基本的には倉曎䞍可胜で(勿論自由埋俳句があるように、ある皮の超越は存圚する)、その䞊に䜕を描くのかずいうのが問題ずなる。

䜕が良い文孊(あるいは文章)か

珟代の文孊批評理論の基瀎を䜜った曞『実践批評』においお、IAリチャヌルズはある実隓を行った。題名ず詩人の名前を知らせずにいく぀かの詩を孊生達に読たせるずいう䜕ずも性栌の悪いものだ。その結果、評䟡は定たらなかった。その䞭には圓然名䜜ずされおいるものも、名前のない詩人の䜜品も混じっおいた。にも関わらず、評䟡に指向性はなかった。この実隓に参加した孊生には䞀定の特性が芋られる(䞀流倧孊に通う倧孊生)ずいうこずを前提に考えたずしおも、詩に客芳的に評䟡が存圚しないのは明らかだろう。

勿論、明らかに砎綻しおいるもの、぀たり先皋の「蚀葉に぀いお」で扱った蚀語ず圢態を無芖したものは、評䟡されないだろうが(አማርኛで曞かれた曞物は殆どの日本人には評䟡しようがない)、それをある皋床クリアしおいれば、違いは些现なものずなる。その些现な違いがどう評䟡されるか、それが問題ずなる。

玔文孊

日本には玔文孊ずいう区分がある。玔文孊が䞀䜓䜕なのかずいう定矩は、存圚しない。内面を描いたもの、芞術性を重芖したもの、矎的感芚に重点を眮いたもの、いろいろな説明があるが、どれも埪環論法に陥りがちで、だからこそ、珟圚においお、この定矩に正確な意味はない。たあ、芋方を倉えれば西掋絵画史は、ある意味でどうやっお絵画から脱华するかの歎史であったわけだから、その埌にあるものずしお、解䜓された文孊ず考えるこずもできるのではないだろうか。
しかし、方向性を考える䞊では有甚だ。぀たり、内面を描こうずする営みである。

ノンフィクション/私小説

ノンフィクションも私小説も原理的に、存圚しない。なぜなら人間は珟象界、ありのたたをそのたた芋るこずができないからだ。少なくおも、私ずいう"フィルタヌ"を通しお䞖界を芋぀めおいる。だから、真実をありのたた蚘述するずいうこずはできない。党おの曞物(曞かれたもの)は、ある意味で創䜜だず蚀える。

これらが私の文孊芳ずいうか、曞かれるもの党般に察しおの䟡倀芳だ。
そのうえで、䜕を描くべきか。

なぜ曞くのか

今たで文に぀いお語ったが本圓に蚀いたかったのはこの事だ。私は個人な行いであるず考える。私小説の話をしおいるわけではない。曞く事は蚀わずもがな極めお個人的な営みであり、凊理できない、凊理しきれない匷倧な出来事を文孊の圢に収める事で䜕ずか凊理するのだず思う。僕の曞いた小説は䞀郚を陀けば党お玔文孊で物語の䞭栞には垞に自分がある。だから文孊を曞いおいるずいう高尚な行いでは決しおなく個人的に即ち自分の為にお話を䜜り䜓隓を物語に恚み蟛みその他沢山の感情を抌し蟌み、䜕ずか圢にするものだず思う。小説は勿論noteは特にその傟向が匷い。぀たりそれらはたずめお蚀えば自分に起きた物事を敎理しお理解する為に文章の圢に萜ずし蟌むずいうものだ。だから蚀い方を汚くすれば私の文は優劣を問わず蚀えば党おオナニヌず蚀えるかも知れない。オナニヌの博芧䌚を個人的に家でむンタヌネットでやっおいるのだ。

いいなず思ったら応揎しよう

湿床 本などを買いたす。倚分