京都・大徳寺の路地裏で。野村耕が刻んだ「日々の地層」と、私を拒んだアートの扉|IRIE ART LOG
【 1,200文字・写真9枚 | 読了3分 + 読後エッセイ 】
コレクション展 2026
「野村 耕 -SCREAMING LOTS OF DIFFERENT SONGS-」
KURA MONZEN|2026.02.28 - 06.01
大徳寺の門前、凛とした空気が漂う紫野。その一角にある「KURA MONZEN Gallery」の自動ドアが開くと、柔らかな暖気に包まれる。
戦後の日本画界を、にこりともせず、それでいてどこか涼しい顔で揺さぶり続けた芸術家、野村耕(1927–1991)。古い「お決まり」を内側から蹴破るようにして、独自の表現を切り拓いた人です。
無料の展示と聞いて、軽い気持ちで足を踏み入れたのですが、そこには思いがけず濃密な、それでいてひどく個人的な時間が流れていました。

1:新聞の切れ端に、私たちは「今日」を閉じ込める
一歩入って、最初の作品の前で動けない。「……これ、何?」
目を凝らしてみても、すぐには答えをくれません。けれど、タイトルの助けを借りて眺め直すと、ふっと像が結ばれます。

それは、新聞の将棋欄のコラージュ作品でした。
さらには、読み飛ばしてしまうような時事コラムの群れ。

京都新聞のコラム「梵語」のコラージュ。かつて印刷工程で使用された紙の型が使われている。
これらはすべて、かつての「今日」の断片です。
紙は軽い。情報はもっと軽い。

それなのに、目の前の作品からは重みを感じます。野村は、逃げようのない「毎日」を、几帳面に、あるいは半ば意地のように、積み上げたのでしょうか。
日々というのは、こんな顔をしていたのかと、少し考え込んでしまいます。
2:傷跡のざわめきと、池を泳ぐ静寂
同じコラージュでも、まるで別人のような作品も現れます。
1958年のコラージュ、こちらは静かに積もる時間というより、いきなり胸ぐらをつかまれる感じ。古傷のかさぶたを無理やり剥がすような、生々しさ。若い頃の野村の、やり場のない衝動そのもののように見えます。

「ステキね」なんて言葉で片付けさせてくれない、剥き出しの衝動。
セメントや廃材を日本画の世界に持ち込んだという彼の、静かな、でも粘り強い反骨精神が透けて見えます。
常設の陶芸作品とも、静かに向かい合っている。焼き物の質感と、紙のざらつき。空間そのものも、大きな器のよう。

ふと視線を移せば、その先には端正なお庭。

緑がやわらかく光り、池では鯉がいつまでも同じ姿で泳いでいます。

尖ったアートに触れた後の、この静寂。京都という土地は、激しいものも静かなものも、すべてを飲み込んで平気な顔をしている。
インフォメーション
コレクション展 2026
「野村 耕 -SCREAMING LOTS OF DIFFERENT SONGS-」
会期:2026年2月28日(土)~6月1日(月)
会場:KURA MONZEN Gallery(京都市北区紫野門前町23)
料金:無料
開館時間: 10:00〜17:00(火曜、水曜休館)
所要時間:約20分
混み具合:貸切状態
写真撮影:可能
※内容は予告なく変更となる場合があります

【おまけ小文】拒絶される贅沢 ――あるいは、ママチャリは二度、空を漕ぐ
さて、ここからはおまけの話である。
ギャラリーから自転車を数分も走らせれば、「OSCAAR MOULIGNE」という場所へ着くはずだった。
そこでは著名な現代美術家、ガブリエル・オロスコの展覧会が開催されている。あの『美術手帖』編纂の現代アーティスト事典にも燦然と名を連ねる、いわばアート界の重鎮である。
…と書きながら、つい親しみを込めて「オロスコっち」と呼びたくなる。
ところが、である。私はそのオロスコっちに、二度も、完膚なきまでに拒絶されてしまったのだ。
一度目の訪問。しんと静まり返った建物の前で、私は呆然と立ち尽くした。
「お留守」である。
そこにあるのは、窓ひとつない巨大なコンクリートの塊。重厚な鉄扉が、まるで壁の一部であるかのように同化していた。

案内板すら見当たらないその建物は、鉄壁の拒絶を決め込んで、ただ沈黙を貫いている。
扉に触れてみると、冷たさが掌にじわりと残る。私はといえば、その頑ななコンクリートの塊の前で一時間ほど粘ってみたのだが、風の音しか返ってこなかった。
そして二度目。リベンジを誓ったその日は日曜日であった。
「今日こそはオロスコっちに会える。待ってろよ、オロスコっち」
そう信じて疑わなかった私を待っていたのは、無情にも「定休日」の三文字である。

呆然と建物を見つめながら、私は考えた。
聞けば、このオロスコっちという御仁は、「不在」や「痕跡」をテーマに扱う作家なのだという。
だとしたら、どうだ。この「入れなかった」という空虚な体験こそが、実は私に与えられた究極のオロスコ作品なのではないか。

片道三十分の道のりを、二往復。合計二時間。
私が冷たい風に吹かれながらペダルを漕いで辿り着いた先には、がっちりと閉ざされた無機質な鉄の扉と、コンクリートの要塞。その傍らに悠然とそびえ立つ立派な石碑があるのみ。
この奇妙な対比を前に、私は心の中で叫んだ。
「これこそがアートなのだ。私は今、空虚という名の贅沢を享受しているのだ。なあ、そうだろうオロスコっちぃぃい!」
そう自分に言い聞かせてみるのだが、どうにも腹の虫がおさまらない。私の脳細胞は、この無駄足をどうにかして「高尚な体験」へと昇華させようと、勝手にフル回転を始めてしまうのである。
考えに考え、寒風に吹かれながら、閉ざされた扉が私に突きつけた真理。二時間を費やして導き出した、そのあまりにも重厚な教訓は、以下のようなものであった。
「次はちゃんと、開いてるかどうか確認してから来よう」
ごく当たり前、かつ、ぐうの音も出ないほど情けない結論である。
三月の京都。吹き抜ける風は、私の悟りをあざ笑うかのように、どこまでも冷たいのであった。
皆さんの「心を揺さぶられた瞬間」も、ぜひコメント欄で教えてくださいね。
【次回の予告】
次回は、「2026年、関西のアートが動き出す。見逃したくない展覧会5選」を予定しています(毎週水曜更新)。
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取材・文・写真:入江玄(IRIE ART LOG)
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