第1話 「本屋」 小さな手 #シロクマ文芸部 ショート小説 3部作
小さな手で顔を覆い、彼女は肩を震わせて泣いていた。都会の本屋の片隅で。
最近、子供が産まれたばかりで、彼女に会えていなかった。
「よかったら、出勤前に会わない?本屋さんで」
なるほど、そういう手があったか。手放すには惜しい女だ。しつこく追ってこないし、LINEもくどくない。俗にいう都合のいい女だが、誘いを断ってばかりいれば、流石に関係が終わるのは目に見えている。
「じゃあ、来月の9日に、本屋のカフェで会いましょう」
彼女は嬉しそうに、「絶対来てね」と言って、少し躊躇しながら僕の手の指を握った。中途半端な指切りげんまんみたいだった。彼女は「約束ね、今度こそ」と言って、何度も振り返りながら去って行った。
産まれたばかりの子供の、毎日違う表情を見るのが、楽しみで仕方ない。育児も率先してやっている。仕事が終われば、急いで帰り、朝はなるべく一緒にいたい。10年目でやっと授かった我が子と過す時間の1分、1秒が愛おしい。
1ヶ月間が過ぎた。しまった。今日は彼女と会う日だったのに寝坊した。昨日は珍しく夜泣きが激しく、妻も自分も寝不足だった。
妻は「仕事には間に合うでしょ?ごめん、もう少し寝せて」と言いながらベッドに戻った。ベビーベッドを覗くと、行かないでと言わんばかりに、小さい手が、僕の指を握りしめた。
地下鉄で、慌ててLINEを打つ。
【ごめん、寝坊した。あと10分で着くけど、30分もいれないから、今日は会うのが難しい】
既読はついたが、返事はなかった。いつもは大丈夫だよ、とか泣いた顔のスタンプとか何らかのリアクションがあるのに。心配になった。
ここから仕事場までは10分。カフェでお茶する時間はないが、顔をみて安心させよう。俺達はまだ終わってないが、時間が圧倒的に足りない。それだけだ。
カフェにはいなかった。
本屋の隅々まで探した。彼女をやっと見つけた。本屋の隅の、そのまた奥にいた。肩を震わせながら、泣く彼女の姿を見て、罪悪感でいっぱいになった。
シェークスピアも、ブロンテも、村上春樹も、僕らの茶番劇を嗤っている。僕は走って本屋を後にした。
第2話に続く
