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 味噌汁を作ってくれないか。

 希代のジャズ・プレーヤー、ジョン・コルトレーンは、そういったきり、すぐに演奏を再開しました。死んだはずのジョン・コルトレーンが、なぜ僕の前にいるのだろうと不思議に思いながら、僕は返事をしました。

 トレーン、とても言いにくいことなんだけれど、僕は味噌汁を作ったことがないんだ。それでも、良いのかい?

 トレーンは答えません。構わず、サックスを吹き続けています。そうだ、トレーンは、そういうやつでした。けれど、そんなところも彼の良いところなのです。仕方ないから、早速スーパーに材料を買いに行きました。最寄りのスーパーまでの道は、何度も通った道です。今日は、底冷えする夜です。知っているはずなのに、乾燥わかめの売り場にたどり着くのに、ずいぶん時間がかかったような気がしました。

 材料を買い揃えたあと、足早に帰宅しました。まだ、トレーンは吹き続けています。汗が額を伝い、目尻を伝い、頬の高いところを、そして首筋に落ちていきます。トレーンをみてると、いつもたまらなくなります。さて、急いで調理に取り掛かります。一番大きな鍋を台所下の棚から取り出して、水をじゃぶじゃぶ入れて、火をつけます。煮立ち始めるまえに、本だしを入れます。

 トレーン、これであってると思うかい。

 トレーンに聞いてみても、彼は何も答えません。

 トレーン、次は、いつものアレが聴きたいな。

 僕は、具材を切りました。豆腐と、油揚げと、キャベツ。そういえば、母の味噌汁は、いつも具材がたくさんでした。腎臓が悪くて、お汁を飲めない僕のために、具材をたっぷり入れてくれました。湯が煮立ったら、切った具材と、乾燥わかめを入れて、少し待って、具材に火が通ったら、味噌を溶かしました。その間、トレーンはずっと吹き続けています。

 トレーン、最高だよ。いつも、いつでも君は、最高だ。いままでも、そしてこれからも、きっと君はそうなんだろうね。

 トレーンは何も言いません。彼の足元には、汗で小さな水たまりができています。トレーンは、最高のプレーヤーです。僕は、泣きそうになりました。

 トレーン、何も答えなくていい。答えなくていいから、少しだけ話をきいてくれないか。

 トレーンは答えません。

 僕は、これまでいろんなことから逃げてきた。勉強や、仕事や、恋愛や、友人や、家族から逃げてきた。踏ん張るべき時に、踏ん張れず、立ち向かうべき時に、立ち向かえず、転ぶべき時に、転べず、起き上がるべき時に、起き上がれず、愛すべき時に、愛せなかったんだ。こんなことではダメだと、何度も思ったさ。僕だって、それくらいは分かるんだ。けれど、なぜだろう、僕はそのたびに逃げてしまったんだ。きっと、怖かったんだと思う。失敗するって、怖いじゃないか。失敗すれば、悲しむし、傷つくし、失ってしまう。僕は、それがたまらなく怖かった。この間だって、沢山の人が僕を応援してくれていたのに、最後の最後で逃げてしまった。なんて最低な奴だと思ったよ。僕は、どうしていつもこうなんだろうと思ったよ。僕は、いつまでおびえているんだろう。トレーン、僕はいつも、ネコに追いかけられるネズミみたいな気分なんだ。走っても走っても、怖いんだ。そう、僕は、これでも、走ってるんだ。怠けているつもりではないんだよ。息を切らしながら、何かから逃げてるんだ。逃げるために、走ってるんだ。そんな僕は、周りからみたらとても可笑しいだろうさ。もしかして、君からみても、そうかい?そうだとしても、君は、決して口には出さないだろうね。君は、そういうやつだから。トレーン、僕は、この間、旅行に行ったんだ。最期の旅行のつもりでね。海を見たんだ。海って、すごいよ。なんて広いんだろうと思った。水平線が、どこまでも延びているんだ。ああ、波が、僕をあの水平線まで攫ってくれたらいいのに。僕は、山に囲まれた土地に育ったから、海はいつでも、少し特別なんだ。そうだ、今度、一緒にいこう。きっと楽しいよ。海を眺めながら、時間を忘れて話をしよう。君の故郷の話、君の思い出のプレーの話、君の好きな子の話、うん、きっと、楽しい。君は、僕の何が聞きたい?なんでも、正直に答えるつもりさ。海の前で、嘘はつけないからね。本当さ。なんでも、聞いてくれ。

 トレーンは、力強く吹き続けます。

 トレーン、僕は、どこに向かってるんだろう。僕は、どこに行きつくんだろう。僕は、トレーン、僕は思うんだ。僕の向かう先は、ああ、トレーン、もうできたよ。完成だ。うまくできたか、自信はないけれど、母さんが良く作ってくれた、具がたっぷり入った味噌汁だよ。冷めないうちに、召し上がれ。

 トレーンは、吹き続けています。やめていなければ、きっと今でも。

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