エッセイ「夏と本棚について」全文無料

 梅雨が明けて、夏が来た。真白に灼ける陽をいっぱいにうける、庭先の木々の葉が眩しい。小さな葉が、そのみなぎる生命力を訴えかけるように光る様をみると、外に走り出たくなる。といっても、身体が弱いというのもあって、うだるような炎天下には到底出ていけそうもなく、部屋にこもって本を読み耽る毎日である。

 ところで私の部屋にはまだ読んでいない本が床に散乱していて、見るに堪えない悲惨な有様だったのだが、先日重い腰をあげてそれらをきれいさっぱり整頓しようと決意し、さきほどようやく整理し終えた。幾分心もからっとしたように思う。
 普段本の整理などしようとすら思わないから、久しぶりに整理をしていていくつか感じたことがあるのだが、しかしとりわけ強く感じたのは、存外、自分がどんな本を買ったか、ということを自分でも覚えていないということだった。
 私は飽き性だから、書店や通信販売で面白そうな本を見つけては買い、届いた時には興味をなくして放り投げておく、なんてことばかりで、自分が何の本を買ったかをすっかり忘れてしまっているのである。
 そういうわけで、本を整理をしているときに、研究に役立ちそうな学術書が本の山の底から出てきたときは思わず嬉しくなったし、漱石の『門』が二冊あるのに気付いたときは、笑ってしまった。なかなか愉快な大掃除である。
 しかし一つ困ったことがあって、それは、本をよく買う者なら誰しもが抱えるであろう、本を置くスペースが足りないという悩みである。整理したはいいものの、どうやっても本棚に収まりきらない量があるわけで、棚からあぶれた本は今でも床に積まれたままなのだ。
 現時点での上手い方策は見当たらない。結局、本棚を新しく買う必要があるのだが、そうなれば、その本棚を置くスペースをどうやって作るのか、という問題も浮き上がってきて、考えるのをやめたくなってしまう。何分、六畳半のアパートだから、本棚をいくつも置けるほど広くないのである。
 一応、もう読まないであろう本を少しずつ売りに出して処分しているのだけれど、古本なんて大した値段にもならないから、なかなか作業の手が進まない。そんななかでも、資格試験の参考書なんかは多少の値段がつくようで、二冊セットで二千五百円ほどで売れた。その金でなにか美味いものでも食べようかと思ったが、今後のことを考えると、経済的に困窮している今の状況はしばらく続きそうであるから、学資貯金に入れておいた。
 そう、本棚を買うにも、今の私にそんな経済的余裕など無いというのが正直なところなのだ。であるから、当然本を買う余裕もないはずなのだが、しかしこれが不思議なもので、本だけはどんどん増えていくのである。
 心優しい親切な人がプレゼントしてくれるわけでもなし、言うまでもなく自費で購入しているわけだが、普段はペシミスティックな私も、本を買うときだけはどうも楽天的になってしまって、いつか役に立つだろうとか、なんとなく面白そうだ、という曖昧な理由で、目下不要な本までつい買ってしまうのだ。
 これは、経済的に、あるいは短期的に見れば筋の良くないことだけれども、長期的に見れば、非常に人生にとって重要なことのように思われる。というのは、その時その時に必要な、つまり実用的なものだけを買っていくとして、そこには必ず、踏み入れることのない領域ができてしまうだろうと思うのである。
 言い換えれば、ほとんど無思慮な衝動に近い感情でもって飛び出さなければ、けして到達することのできない領域があるということだ。そうでなければ、自分にとって心地よい本だけを選んでしまうだろうし、それでは本を読んでいても世界は広がらないだろう。
 また同時に、本だけを読んでいても世界が広がらないのは言うまでもない。つまり、本の世界から飛び出し、外の世界から得た経験をもってして初めて理解できる本というのも存在するだろうし、外の世界の経験が、一度読んだ本をまったく新しくしてしまうかもしれない。
 本の内外でくり広げられる出会いや衝突。その摩擦の体験を通してこそ、自身の価値観は絶えず破壊され、再生されていく。そうした繰り返しの果てに、人間的な視野の広さというものが培われていくのだろうと思う。

 さて、どこかで見たような薄っぺらい読書論はこれくらいにしておこう。
 とにかく今年の夏は暑いようで、ほとんど命の危険を感じるほどであるから、夏を乗り切れるのか不安である。精神的にも肉体的にもずいぶん弱っているから、とくに気をつけてこの夏を過ごしていこうと思っている。美味しい冷やし中華や素麺でも食べて精をつけたい気分だ。
 みなさんも、気をつけて過ごしていただければ、と思う。
 それでは、また。

 

 
 
 
 
 

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?