【追悼 岸田秀】「日本人離れしてる」ってほめ言葉ですよね
今年5月に亡くなった岸田秀の著書を、このところ何冊か読んでいる。人も組織も社会も同じ構造で読み解く岸田の心理学は、むしろ今の時代にこそ光を当てられるのではないかと思う。
岸田は早稲田大学で心理学を学び、フランスに留学して精神分析の理論を修めながらも、そこから独自の「唯幻論」を打ち立てた思想家だ。「人間は本能の壊れた動物である」という考えが、その理論の出発点にある。人は必ず特定の「信念」というフィルターを通して世界を見るために、永遠に「真実」そのものを見ることができない――これは現象学や実存主義でもよく使われる論法だ。現象学の言う「現象世界」や、実存主義の言う「指向性(物事への意味づけ)」が一種の共同幻想であるという感覚は、多くの人が共有しているだろう。通常、分析などを経て、そこに意味づけがなされる前の、むき出しの「存在」そのものを見出した時、私たちは「真実」に一歩近づいたと考える。ところが岸田の理論は、そこにも留保をつける。分析によってたどり着いた「存在」も、結局は別の幻想に置き換わっただけであり、真実に近づいたわけでも遠ざかったわけでもない、というのだ。理由は単純で、人間の本能はもともと壊れているのだから、そもそも「真実そのもの」が見えるようには設計されていない、というのが岸田の立場なのだ。
この「信念」というフレームを説明するのに、岸田は「杖」の例えを使う。杖はケガや病気で体を支えるために使うものだが、私たちは、健康になったら杖は要らなくなると思っている。あるいは逆に、杖を手放すことで本来の健康な姿に戻れる、と思い込みがちだ。しかし岸田によれば、どちらの発想も誤りである。人間は常に何らかの「杖」――つまり信念やフレーム――に頼らなければ立っていられない生き物であり、杖が要らなくなる日は来ない。だとすれば、自己実現と称して私たちが日々取り組んでいること、あるいは高い費用を払って様々な学びに投資している努力も、結局は今使っている杖を別の新しい杖に取り替え続けているだけの行為だということになる。「本質看取」といってもその本質と受け取ったものこそが「杖」になるということだ。
人はどこまで行っても修復不可能なほどに壊れている。だからこそ、常に二律背反した欲求や信念を同時に抱え込んでしまう。いわば、生まれながらにして神経症を抱えた存在なのだ。
そう言われてみると、「女性活躍」と言われ続けてもう10年、15年になるが、ずっと同じテーマを繰り返しているような気がする。目標数値そのものは徐々に改善しているのかもしれないが、研修の仕事をしていて、組織が抱える課題感に進歩を感じることはほとんどない。
例えば、女性活躍の推進者が目標数値の達成を掲げて旗を振る。その一方で、その本人は恋人同士が食事に行けば男性が支払うものだと思っている。夫婦が共働きであっても、家計費は基本的に男性が出すものだと思っている。あるいはそういう信念に囲まれて育ってきた――本人は男女平等を掲げているつもりでも、無意識は別のところにあるのだ。
岸田はこの構造こそが、人に一種の神経症をもたらしているという。男女平等を標榜する自己を「外的自己」と呼ぶのに対し、「いや、それはそもそもおかしい」と内心で感じている部分を「内的自己」と呼ぶ。冒頭で述べたように、岸田の心理学は人も組織も社会も同じ構造で見ている。つまり、こうした自己分裂を抱えた個があつまる社会の下では、女性活躍が進まないのも当然のことなのだ。
だから僕が言いたいことはですね、結局すべては幻想なんだから、そうその、むきになるなト。だから戦争だってね、幻想と幻想が戦っているんだけど、みなそれを幻想だと知らないもんだから、何か守るべき価値があるかのごとく錯覚して、命を捨てて戦っているんだけど、それは幻想のために過ぎないんだから、阿呆らしいからやめろ、ということなんですね
真面目に真剣に戦うことは立派なことだと一般には思われているが、その姿勢自体が悪なのだ、というのが岸田の主張である。暴力の行使と同じことだという。
原水爆を製造している連中だって真面目に真剣に国のため、国の安全のために頑張っているんですよ。そういう連中に対抗するために、こちらも真面目に真剣に戦うというのはね、暴力に対抗するためにこちらも暴力を使うのと同じことでね、暴力を使う連中対して、こちらは暴力を使わないとすれば、確かにこちらは弱いし、負けるでしょうがね。真面目に真剣にやっている連中に対して、こちらが真面目にやらないとすれば、確かにこちらは負ける。しかしね、だからといって、真面目で真剣な連中に対抗して、こちらも真面目に真剣に戦うというのでは、これまで通りの愚かな歴史の繰り返しでね。日本兵は真面目に真剣に戦ったんです。アメリカ兵だって、ドイツ兵だって真面目に真剣に戦ったんです。イギリスだって、「未開の」地に「文明」を伝えるという使命感に燃えて、真面目に真剣に植民地経営をやったんです。理想や価値や正義のために、使命感に燃えて真面目に真剣に戦うという愚劣極まりない行為それ自体を、根絶しなければならないということです
この本には、日本人のアイデンティティについて面白い見方が書かれていた。近年のゲノム解析の進展によって、現代日本人には縄文系、弥生時代以降に渡来した東アジア系、古墳時代の渡来系など複数の系統が混在していることが分かってきている。厳密な比率は研究によって異なるものの、私たちの祖先の相当な部分が中国大陸や朝鮮半島にルーツを持つことは、いまや広く知られた事実だ。日本人はそれほどアイデンティティに不安を抱えやすい民族だということだ。そうした環境下では、フロイトの言う「ファミリー・ロマンス(家族幻想)」が育ちやすいというのが岸田の見立てだ。つまり「神国」といった共同幻想によって自らを貴種とみなし、その不安を打ち消そうとする心理的な作用が働く、ということである。
そう言われて、思い当たることがある。例えば大谷選手が海の向こうの大リーグで活躍しているのを見て、「彼はすべてにおいて日本人離れしている」と賛辞を贈る。しかし、それがほめ言葉として通用するのは、世界でも日本人くらいだそうだ。他の国の人に「あなたは○○人らしくないですね」と言えば、それは所属や忠誠を疑う侮辱として受け取られ、怒りを買う。
それも無理はない。外的自己は「神国」を掲げ、単一民族の美しい国を演じてみせるが、内的自己は、その基盤がそもそも脆弱であることにどこか気づいている。特に近代以降の日本の歴史は、中国大陸や朝鮮半島にルーツのある人たち、アジアの人たちへの侮蔑と攻撃の歴史といってよく、そして、その観念はいまだに多くの日本人の中に潜んでいる。
繰り返しになるが、大陸の端に位置し、高度の混血民族である日本人は守るべき安定したアイデンティティの土台をそもそも持てないでいる。一部の人に限られるかもしれないが、日ユ同祖論という怪しい論説も有り難く受け入れてしまう土壌があるのだ。「日本人らしくない」というのが誉め言葉になるのは、アイデンティティを作り上げざるを得ないところから来る緊張感やそういった息苦しい役割演技から解放される安堵から来るのかもしれない。
岸田秀『歴史を精神分析する』(2007年・中央公論新社)
岸田秀・伊丹十三『哺育器の中の大人: 精神分析講義』(1978年・朝日出版社)
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最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。