類友
似てるひとが、ここには集まっている。
そう思うことが多い。
たとえば仕事先、たとえば学校、
趣味のコミュニティ、どこでも。
何のジャンルか、属性すら無関係に。
同じ場所にいるというだけで、
なぜか似た空気を放つ集団がいる。
人は、場に呼び寄せられるのか。
たまたまいる場で、周囲に染まるのか。
類は友を呼ぶ、というが、
仲間とか、友とか、そういうことではない。
共通項なんてなさそうな人でも、
似た空気に溶け込んでいる人がいる。
ときどき、
この人と出会う人生でありたかった、
と思うことがある。
過去、自分は出会えてない、
未来、この先も出会えないだろう。
そんな、自分にはまぶしい人と出会える、
幸運な人がいることを不思議に思う。
出会えてない自分と、出会えた人と、
いったい何が違うのか。
チャンスをつかむ能力とか、
努力の結果は、さておき。
そこにいられる自分ではない、
自分とは別世界の人と思い込み、
近づきもせず、遠ざけてしまう。
類は友を呼ぶどころか、
共通点なし、と自分で境界線を引き、
そちらに行かないようにしてしまう。
類は友を呼ぶと素直にいえるのは、
健全な心や、知的レベル、
会話の温度感が合うなど、
人のポテンシャルが似てる人のようだ。
確かに、出会うべくして出会い、
高めあっている存在は、
類は友を呼ぶといえるだろう。
それとは正反対に、
ネガティブな思考レベルで、
同じ穴のむじな、と言いたくなる
出会いもある。
出会って、仮に多くの時間を過ごしても、
けっして、よい同類とは言えない、
言いたくないような場がある。
そこにいる自分も、外部からだと、
似たもの同士に見えているかもしれない。
ネガティブ思考を伴う集まりは、
そこにいる自分を認めたくなくて、
似てると思われるのが不本意になる。
慢性化したよどみに浸かり、
自分がその一部なことに、後ろ暗さを伴う。
ためいきがちな集合体だと、なおさら。
類は友を呼ぶどころか、
同じ穴のむじな、と、
集合体を表す言葉も異なるほどだ。
心のありようは、出会いの質に影響する。
類友と呼べるコミュニティより、
後者の場に属しがちなのは、
むじなになりがちな思考のせいか。
思考パターンによって、
良質な類友に出会えてないのならば。
自分は、どこにどんな形で存在したいのか、
いま一度、考え直さないといけないのかも。
類友と呼べる存在を見つけて、
類友と、見つけてもらえる日が来るまで。
