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1960年から続く博多中洲の老舗ジャズスポット「リバーサイド 物語」その2

(事実に基づくノンフィクションです、一部実名です)

もう一度、時計を過去に戻す事にしよう。
私とリバーサイド との関わりは、1969年まで、遡る。私は、行橋市にある、県立京都高校
(みやこ)から、九州大学を受験し、経済学部に
入学した。そして、いまの今川橋の近くに二人同部屋で、下宿生活が始まった。
そこから、六本松の教養学部(いま、TSUTAYAや裁判所になっている)まで、歩いて通った。
憧れの大学生活が始まったのだ。長い受験勉強生活からの開放感に気分が高揚していた。
しかし、入学後、すぐ、6月に大変な事件が起きたのである。1968年6月2日の夜10時過ぎ、
板付の米軍基地があり、そこから、離陸したアメリカ空軍のRF-4Cファントム偵察機が箱崎の九州大学箱崎地区内で建設中の九州大学大型計算機センターに、墜落したのである。私は、下宿にいる時ニュースで、知った。すぐ、市内電車に乗り箱崎へ、正門前からすでに、もうもうと黒煙が上がり、隙間に炎が見えた。現場近くは騒然としていた。大変な事が起きた。

ベトナム戦争中であり、反戦運動を一層煽る事故となった。
六本松の教養学部まで、影響が波及し、授業が、ないのである。教室では、全学連の闘士が、アジ演説を繰り返し、近くのアメリカ領事館へのデモ参加を促した。
実は私は、、4月の入学から、部活として、写真部を選んだ、、親父がカメラが趣味であり
一眼レフを何台か貰っていたからである。
その意味から、写真撮影もしながらのデモ参加であった。しかし、機動隊から、後ろ蹴りされ、ケツが腫れ上がった記憶がある。ひ弱な自分には、がっしりした機動隊員は、まさに戦車にネズミ、勝負になりません。それから、デモには参加せず、外からの写真に専念した。情けないノンポリでした。

そんな訳で、授業は、朝から全くなく、時間が限りなくあり、何をしようか?考える日々。
麻雀を覚えたのも、その頃、雀荘、パチンコ屋にも入り浸りの日々。そして、ラジオから流れるフォークソング🎵に夢中になった。世界ではジョーンバエズ、ポールアンドマリー、ボブディランなど反戦の歌が流行っていた、また、地元でも、大濠公園や須崎公園あたりで、ギターで、歌うバンドが見られたのもこの頃、天神では、「照和」というフォークライブハウスが賑わっていたのもこの時代。アンドレカンドレ(後の井上陽水)、チューリップ、海援隊などが出演していたのだ。

ロックも盛んでした。後にわかったのですが、あのシーナ&ロケッツの鮎川誠が九大の同級生だったのです。彼は農学部、私は経済学部
会うことはまずなかった、というより、かれは全く授業など、受けてなかったとリバーサイド に来てくれた時、証言していた。学園祭で、多くのロックバンドが出演、ギンギンと演奏するカッコいいギタリストを観たのを記憶している、それが彼だった、バンドは、恐らく伝統の明太ロックバンド「サンハウス」だったのだろう。

鮎川誠

その頃の自分は、フォークとロックに夢中だったのです。

ジャズとの出会いは、教養学部から、箱崎の専門の経済学部に移り、網谷町に引越ししてからのことでした。
ジャズと出会いは偶然だつたのです。

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