見出し画像

自我・苦悩・二元論から空性へ

自我は悩みを生み出す土台であり、自我があるからこそ「私の悩み」や「私の苦しみ」が成立します。悟ると楽になるのは、苦悩や執着に「私の」という言葉(接頭語)をつけられなくなるからです。

悟りを開いた人でも、物事を「自分のこと」として受け取れば、また悩みや苦しみが生んでしまいます。高名な覚者が思考(マインド)を問題にするのは、その為です。

ここで大事なのは、「私の」という感覚そのものが、必ずしも悪というわけではないという事です。むしろ自我は、自分という存在を守るために、とても大切な働きをしている事も知る必要があります。


例えるなら、自我は刃物か劇薬のようなもので、上手く使えば大いに役に立ちますが、扱い方を誤れば自分や他人を傷つけます。つまり、自我のトリセツを知らなければ、無駄な衝突ばかり生んでしまうということです。

人間社会では、自己抑制や我慢が美徳のように語られることもありますが、必ずしもそうとは限りません。むしろ無理な抑圧は、歪んだ形で別の問題を生み出すのが常です。

「抑圧は良くないから、自分に正直に生きるべきだ」と言う人もいます。でも、それがそのまま全部正しいとは限りません。何故なら、自分らしく生きる事と、欲望のままに生きるのは違うからです。


自我を抑圧しても歪みが生じますし、ただ出すだけだと言い訳他責の悪癖が身についてしまいます。だからこそ問題は、抑えることでも解放することでもなく、どう扱うかにあるのです。

人間社会において、自我の強さは生きる強さでもあります。しかし、それが度を超えると、認知の歪みが生じたり、過剰な防衛に走ったり、比較による分断を強めてしまうことがあります。

自我は世界を単純に理解しようとしますし、善悪のような二元的な見方は、物事に意味や価値を与えます。その結果として、世界は対立や競争の場として認識されるようになります。


ワンネスやノンデュアリティという言葉は、そうした「分かれているように見える世界の捉え方」そのものを見直す視点だとも言えます。

自我の働きがなければ、無我一如絶対無といった真理が認識される事もありません。それは言葉や概念が消えるというより、分けて理解する必要がなくなるということです。

苦悩があるから「悟り」という概念が成立するのですが、苦悩そのものが無ければ、苦悩の消滅という現象を「悟り」として認識することもありません。つまり、悟りにも実体は無く、空(くう)だという事です。


空(この場合は無自性空)とは「何も無い」という意味ではなく、あらゆる物事に本質的な固定の実体は無い(無我)という意味です。しかし人は、物事に本質と呼べるような実体がある(有我)と捉えてしまいがちです。

例えば、禅宗には犬に仏性が有るか無いかと問う公案(狗子仏性・無字公案)があるのですが、これは二元論的思考では絶対に透れません。でも、有我と見做す邪見を滅すれば、仏性の有無は問いとして成立しなくなります。

有も無も無いのが絶対無であり、私達は公案に参じることで、絶対無の真理を会得しようと奮闘します。でも、迷いと悟りの両方が成立しなくなった悟り無き悟りに至ると、絶対無という真理すら認識されなくなります。


この「本当は何も無い」という境地は、全く自由な境地です。悟った人は苦悩が生じる前の自由な世界に遊んでいますが、だからこそ自我のトリセツが上手く作れず困っている人を見過ごせなくなります。

それを禅では円相(えんそう)として描きます。円相は完成した悟りの姿ではなく、有と無、迷いと悟り、自我と無我といった分離が、最初から円環として成立していたことの象徴です。

いわゆる「悟り臭さ」とは、自らの「お悟り」に執着したり、自らを超越者と考えて自惚れている時に表れます。これは円相が完成しておらず、未熟だという事です。


悟りの道は「自我の悪性との戦い」に始まり、やがて「自我とは和解するしかない」と考えるに至り、最終的には「闘争と和解のプロセスなど成り立たない」という所に着地します。

畢竟、円相はループではなく、スパイラルだという事です。


いいなと思ったら応援しよう!

清濁 思龍 よろしければサポートお願いします。いただいたサポート料金は大切に使わせていただきます。