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他人のうんこを出すという生きがい【介護職のプライド】

「うんこを出すのが一番大事だよ」

指導役の看護師から、射抜くような真剣な眼差しでそう告げられたとき、私は一瞬面食らった。三十一の女が、初対面に等しい職場の先輩から、これほど真っ直ぐに「うんこ」という単語をぶつけられるとは思っていなかったからだ。

当時、私が働いていたのは、認知症や介護度が重度の方が多いデイサービスだった。あまりの真剣さに気圧されはしたものの、よくよく考えてみれば合点のいく話であった。

何を隠そう私自身も万年便秘気味の人間であり、たまに首尾よく収穫があった日の、あの天にも昇るようなスッキリとした開放感は身に染みてよく知っている。

人間、生きる上で何を入れるかはさることながら、適切に出すことほど重要な営みはない。

このデイサービスでは、何よりも排便に重きを置いていた。
毎朝、利用者が到着すると同時に連絡帳を血眼でチェックする。最後に便が出たのはいつか、間隔はどのくらいか、量は適切か。

それらのデータを分析し、今日は坐薬を入れるべきか、何時にトイレへ促すか、さながら軍事作戦のように周到な計画が立てられるのだ。

世間一般の人々が「介護施設のパンフレット」を開くとき、大抵はホテルのように綺麗なロビーや、最新のリハビリマシンに目を奪われるものである。ボロい施設を見れば「丁寧に見てもらえないのでは」と不安になり、ジャグジーがあれば「ここにしよう!」と心が躍る。

しかし、元プロの視点から言わせてもらえば、そんなものはただの飾りである。 むしろ、表向きがきらびやかで美しい施設ほど、スタッフが優雅なレクリエーションに追われ、肝心の「ケツの穴」まで気が回っていないことが多いのだ。

結果、利用者の腹のなかには何日分もの便がガッチリと滞留し、お年寄りたちは声にならない悲鳴を上げている。

「あんなに苦しそうなのに、さっさと坐薬を入れて出してあげたらいいのにね!」

他施設の裏側の犠牲者たちを思っては、私と看護師はそんな愚痴を言い合っていた。我々の目指す平和は、きらびやかな空間ではなく、利用者の快便の先にしかなかった。

いざ、作戦決行となると現場は一転して緊迫した空気に包まれる。

ターゲットは、車椅子だが身動きはでき、体重も重く、なおかつ重度の認知症を患っているお年寄りだ。言葉でのコミュニケーションは難しい。

まずは大人二人がかりで、なんとかトイレの便座へと腰掛けてもらう。ここからが職人たちのコンビネーションの見せ所である。 看護師が鋭い指先で摘便を試みるのと同時に、私は相手のお腹へと手を当てる。

指導された箇所に手を沈め、腸の形を透視せんばかりの真剣さでマッサージを施す。

「そこ、もう少し右押して!」
「はい!」

築四十年近いデイサービスは、昭和のビジネスホテルを改修したために、トイレはお世辞にも広いとは言えない。
身動きの取りにくいトイレのなかで、無言の熱いラリーが続く。マッサージによる腹圧、そして看護師の絶妙な指さばき。すべての因果関係が一つに結ばれた、その瞬間。

堰を切ったように、濁流となってうんちが外界へと押し寄せてくる。

「出た……!」

その光景を目撃したとき、私たちの脳内にはエクスタシーならぬ、凄まじい歓喜の物質が駆け巡る。それはサッカーで言えばアディショナルタイムの逆転ゴールであり、あるいは難解なパズルの最後のピースがバチコンと嵌まった瞬間の快感に酷似している。

さっきまで認知症特有の不穏さで般若のような顔をしていたお年寄りが、出た途端、まるで後光が差した仏のような穏やかな表情に変わる。

人間、腹に数日分の泥を溜め込んでいては、どんな聖人君子であっても機嫌など良くできるわけがないのだ。私たちまで快便を味わったかのように「よっしゃー」と、世界平和の一端を担ったプロとしての誇りに胸を震わせる。

もしもこれから、親の介護施設を見学に行こうと計画している方がいるならば、私は元プロとしてこれだけは忠告しておきたい。

見るべきは、レクリエーションの豊富さでも、最新のマシンでもない。案内するスタッフの目を真っ直ぐに見つめ、こう玄人の質問を投げかけることである。

「で、こちらの施設では、排便コントロールはどうやっていますか?」

その問いに目がギラリと光る施設にこそ、本物の平穏が眠っているのだから。

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茨木彩菜|作家・文章コンサルタント サポートしてくださるんですか?ありがとうございます😍💖息子の大好物のバナナを買ってきます🍌