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同じ人間であるはずなのに、何が違うのだろうか

この世界には様々な人が住んでいる。
私と同じ言語を話す人もいれば、英語や中国語を日常的に使う人もいる。
宗教でいえば、キリスト教徒やイスラム教徒なども世界中に多く存在し、文化や儀式もそれぞれ異なる。

価値観もまた違う。
その違いを受け入れられずに、ヘイトクライムや対立・虐殺といった悲劇が起きれば取り返しがつかない。
そこで私はふと疑問に思う。

同じ人間であるはずなのに、何が違うのだろうか」と。

 例えば、日本では移民・難民に関するニュースが取り上げられるが、一部のマスコミやSNSでは在日外国人の犯罪を大きく報道し、「外国人が治安を悪化させている」「生活が脅かされる」といった偏見やデマが一気に広がる。コメント欄には「〇〇は出ていけ」「難民申請を厳しくするべき」「日本に来るな」といった排外的な言葉が並ぶ。

正直、長年留学生や在日外国人と触れ合ってきた私からすれば、許しがたい内容だ。

 私自身、日本の伝統文化や習慣に根差した生活を送ってきた。
大晦日、お参り、お盆といった恒例行事は自然と参加するものだった。その環境の中で育ってきたからこそ、「日本人コミュニティ」を前提とした価値観に浸っていることに気づく。

 一方で、異なる風習で生きる人もいる。例えば在日ムスリムはメッカの方向へ祈り、モスクで礼拝をする。クリスチャンなら日曜日に礼拝する。食事も違えば、ジェスチャーの認識や価値観も異なる。そうした場面で私は無意識に「区別」をしてしまう。

 人間には「区別する」という本能的な行為が備わっているのだと思う。
あの人はこの国の出身、肌の色が違う、外国人だ――そんな風に。多民族国家で育っていれば、区別を強く意識することは少なかったかもしれない。日本の学校でもクラスに一人か二人外国人がいた程度で、大多数は日本人だったのは言うまでもない。

しかし、一番質の悪いことに、日本人とは異なる人を区別をすることで自分たちの優位性を保ち、一方的に他のグループを悪者だと決めつけ、対立をあおるような参政党のような手法が広がってしまうのは本当に警戒しなければならない。

しかし、私にとって「区別する」という行為を完全になくすのは難しい。
なぜなら、その行動自体、人間の本質的な行動だからだ。研究やデータとして分け、論理的にかつ学術的なデータとして公表するといった目的のある行動なら理解できるが、日常生活で分け隔てなく接するには、慣れや意識の積み重ねが必要だと思う。

 ただし、誤解してほしくないのは、私は差別や偏見を正当化したいわけでは決してないということ。相手が自分と違うからといって排除するのは、相手の権利を奪うことと同じであり、言語道断だ。

 だからこそ私は、「区別する」という無意識のバイアスを少しでも減らしながら生きていきたい。

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