娘を支えようとしていた私が見落としていたこと
中学生になって、
学習面や人間関係において、いわゆる定型発達の子たちは、めきめき成長をしていきます。
だけど、
このときの娘の発達検査の結果は
7歳9か月でした。
入学して
授業、人間関係(先生との関係も含めて)、すべてがうまくいきませんでした。
全体指示が通らない、追視もできないので板書に時間がかかり、授業についていけません。
おい!こら!おまえ!
小学校ではあまり耳にしなかった強い言葉や厳しい指導に、 娘は少しずつ追い詰められていきました。
夜遅くまで、たくさん話をしました。
何が辛いのか。
どんなことが辛いのか。
どんな気持ちなのか。
どうしたら、もっと心を軽くして過ごすことができるのか。
そんなことをたくさん話しました。
一つずつゆっくり聞き取りをし、
否定や強制はせず、
娘ができそうなことだけを提案しました。
娘に伝えたのは、二つでした。
① 勉強はできなくていい。
そもそも小学生の間は支援学級で、時計の見方、お金の計算の仕方など、生活に直結するものを最優先に勉強していたから。
② 全員と友達になろうとしない。
気の合う子もいれば、苦手な子もいる。無理してみんなにいい顔をする必要はない。
だけど無視したり、露骨に嫌な顔をするのとは違う。クラスメイト=友達ではない。
クラスメイト=クラスメイト。それ以下でもそれ以上でもない。
特性上、何度も何度も同じことを聞いてきたり、なかなか理解ができないので
何度も言葉を変え、伝えました。
ときには学校を休んで二人でランチして買い物に行ったりもしました。
この日のことは今でも「あの日のランチ楽しかったね」と娘が話してくれます。
さらにこの時ちょうど相談所のモニタリングがありましたので、相談員さんに現状をお伝えしました。
すぐに、学校に再度配慮をお願いしなさい、と。
翌日、支援学級の先生に娘の状態を伝えました。
先生の指示が通らないこと。
説明が理解できないこと。
追視ができないこと。
板書ができないこと。
連絡帳が意味をなしていないこと。
具体的に説明すると
連絡帳に宿題を書くとき
全体への指示が入らないので、何をしていいかわからない。
板書することがわかっても、書いているうちにどこを書いているのかわからなくなる。
無事に書けても帰宅して読み返すと何のことか思い出せない。
必要な教材を学校に忘れる。もしくは、必要な教材がわからない。
このことは、入学前に双方確認していました。
支援学級在籍の子でも、みんなと同じようにできなくてもやっている、頑張ってる、
と言われ、私も中学校はこんなものなんだろうと思ってしまいました。
私自身、就労支援員として働いていながら、「中学生になれば少しずつ慣れていくはず」とどこかで思っていました。
この時娘はみんなと同じ宿題の内容と量をやっていました。
なので、それはおかしいとはっきり言ってくれた相談員さんには感謝しかありません。
日が経つにつれ、娘と先生の関係が構築されていくと、徐々に家で宿題ができたり、持っていくものを管理できたりするようになりました。
また、小さなノートを持たせて、あとで先生にわからないということを伝える手段にしました。
娘は自分で工夫をして、オリジナルの連絡帳をつくっていました。
終礼後、先生にわからないところを、再度説明してもらい、自分の言葉で、読み返してもわかるように、書いていました。
娘の頑張りが目に見えてわかり、嬉しかったのを覚えています。
中学生になり、少しずつ成長していってるのが嬉しくて、
「できたね」
「やったね」
と前向きな言葉をかけることに意識を向けていました。
ゆっくり、自分のペースでやっていけばいい。
そう思っていました。
だから私は、
娘に限界が近づいていることに気づくことができませんでした。
学業。
部活。
人間関係(先生との関係も含めて)。
娘の負担はどんどん大きくなり、不眠が激しくなったとき
今まで通っていた児童発達専門の病院から別の心療内科へ通うことに決めました。
気持ちを落ち着ける薬を処方してもらい、様子を見ると同時にSSTのレッスンを受けることになりました。これは小学生のころに放デイで学習していたのですが、今は状況が違うので、受けることにしました。
すぐに友達ができ、楽しそうに参加していて、ほっとしました。
学業。
部活。
人間関係。
少しずつ積み重なっていた負担は、私が思っていた以上に大きなものでした。
そして三学期期末試験を迎えようとするころ、
娘は限界を迎えました。
そのことに、私はまだ気づいていませんでした。
