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【怪談】たたら谷の家

第一章 相続

祖母が死んだという知らせを受けたのは、九月の終わりの、蒸し暑い夜だった。

電話をかけてきたのは、会ったこともない親戚の男だった。名乗りは「本家の者です」とだけ。声は低く、どこか事務的で、感情のようなものが一切感じられなかった。祖母――正確には、父の実家の遠縁にあたる人物らしい――が住んでいた家と土地を、血縁の中で唯一名前が挙がった私が相続することになった、という話だった。

私は正直、困惑した。父はすでに他界しており、母方の実家とも疎遠だ。父方の親戚については、幼い頃に一度か二度、法事で顔を合わせた程度の記憶しかない。そんな遠い親戚の家を、なぜ自分が継ぐことになるのか。電話の男は「本家の血筋がもうあなたしか残っていないので」と繰り返すだけで、詳しい事情は語らなかった。

当時の私は、都内の小さな出版社で校閲の仕事をしていた。ちょうど契約が切れたばかりで、次の仕事も決まっていなかった。恋人とは半年前に別れ、住んでいたアパートの更新時期も近づいていた。要するに、人生の身軽な――あるいは、あまりにも身軽すぎて不安定な――時期だった。

だから、「その家に住んでもいい」という申し出を、私は深く考えずに受け入れてしまった。今にして思えば、あの時にもっと慎重になっていればと、何度も悔やんでいる。

家があるのは、県境に近い山間の集落だった。地図で調べても、地名の読み方すらすぐには出てこないような、小さな谷あいの土地だ。かつては「たたら」――砂鉄から鉄を作る製鉄――が盛んだった地域らしく、集落の名前にも「たたら谷」という古い呼び名が残っていた。今はもう鉄を作る者などおらず、住んでいるのは片手で数えられるほどの高齢者だけだと、後で知ることになる。

車で向かった日のことは、今でも鮮明に覚えている。高速を降りてから山道に入ると、カーナビの画面から道路そのものが消えた。舗装はされているものの、地図データに存在しない「圏外」の道を、私は不安を抱えながら二時間近く走り続けた。対向車には一台も出会わなかった。

日が傾きかけた頃、ようやく谷間に集落の屋根が見えてきた。十数軒の家が、谷底の細い川沿いに寄り添うように建っている。多くは空き家らしく、窓が板で塞がれていたり、庭が完全に藪に飲み込まれていたりした。

祖母の家は、集落のいちばん奥、山にいちばん近い位置にあった。平屋建てだが、敷地は驚くほど広く、母屋のほかに蔵と、離れのような小さな建物がひとつあった。茅葺きではないが、瓦屋根の下に太い梁が組まれた、明らかに何十年――いや、もしかしたら百年以上――は経っていそうな古民家だった。

鍵は、電話をかけてきた「本家の男」から事前に郵送で届いていた。錆びた大きな鉄の鍵で、まるで蔵の扉にでも使うような代物だった。玄関の引き戸は重く、力を入れて開けると、埃と、それから――かすかに、線香とも違う、甘いような、饐えたような匂いがした。

家の中は、意外なほど片付いていた。誰かが定期的に手入れをしていたのだろう。畳は古いが清潔で、仏壇には新しい花が供えられていた。祖母が亡くなったのはひと月ほど前のはずなのに、花はまるで昨日供えられたばかりのように瑞々しかった。

私はその晩、荷物を最低限だけ運び込み、居間に布団を敷いて眠ることにした。長距離運転の疲れもあって、すぐに眠りに落ちた――はずだった。

深夜、ふと目が覚めた。時計を見ると、午前二時を少し過ぎたところだった。

家の中が、やけに静かだった。都会の生活に慣れた耳には、その静けさそのものが異様に感じられた。虫の声も、風の音もしない。まるで家全体が、息を止めているかのようだった。

そのとき、廊下の奥――家の間取り図で言えば、居間から見て北側にあたる部屋の方向から、かすかな物音が聞こえた。

コツ、コツ、コツ。

何かを規則正しく叩くような音。最初は雨漏りか、木材が軋む音だろうと思った。古い家にはよくあることだ。だが、その音はあまりにも規則的すぎた。まるで、誰かが何かの木の棒で、床を、あるいは柱を、一定のリズムで叩いているような音だった。

私は布団の中で息をひそめ、しばらくその音に耳を澄ませた。音は五分ほど続いた後、ぴたりと止んだ。

翌朝、明るくなってから、私は音がした方向の部屋を確認しに行った。廊下の突き当たりに、一枚の襖で仕切られた六畳ほどの部屋があった。中には古い箪笥と、使われなくなった鏡台があるだけで、特に変わったところはなかった。床にも、何かを叩いたような跡は見当たらない。

ただ、その部屋の襖の裏側――廊下側から見て、襖を開けたときに隠れる部分に、墨のようなもので小さく何か文字が書かれていることに気づいた。

かすれていてほとんど読めなかったが、目を凝らすと、かろうじて「開けるな」という四文字が読み取れた。

私はそのときはまだ、それを古い家によくある、意味のわからない落書きのようなものだと思っていた。この家が本当の意味で「何か」を隠していると気づくのは、もう少し後のことになる。

その日の午後、私は水と食料を買い出すために、集落の唯一の商店――というより、雑貨と日用品を扱う小さな家――を訪ねた。店主は八十歳は超えていそうな老婆で、私が「奥の家を継いだ者です」と名乗ると、一瞬、明らかに顔色を変えた。

「ああ……あんたが、あすこの……」

老婆はそれ以上何も言わず、私の買った品物を無言で袋に詰めた。会計を終えて店を出ようとする私に、老婆はぽつりとこう言った。

「夜、裏の座敷には、行かんほうがええよ」

私が振り返って理由を尋ねようとすると、老婆はすでに店の奥に引っ込んでしまっていた。

その夜も、私は同じ時刻に目を覚ました。

コツ、コツ、コツ。

昨夜と同じ音。同じ方向。しかし、今夜はそれだけではなかった。

音が止んだ直後、廊下を、何かが――おそらくは人が――歩くような足音が聞こえた。すり足のような、畳を擦るような音。それは居間の襖のすぐ外まで近づいてきて、ぴたりと止まった。

私は布団の中で、心臓が喉から飛び出しそうなほどの緊張の中、じっと息を殺していた。襖の向こうに、何かがいる。その気配は、いっそ生々しいほどにはっきりと感じられた。

しばらくの静寂の後、その気配は、ふっと消えた。まるで最初から何もなかったかのように。

私は朝まで一睡もできなかった。

この家には、何かがある。理屈ではなく、本能がそう告げていた。だが同時に、都会での生活に行き詰まっていた私にとって、この家と、この土地の「何か」は、奇妙な引力を持って私を引き止めてもいた。

今にして思えば、この時逃げるべきだったのだ。

だが私は、逃げなかった。逃げる代わりに、この家と、この集落の「秘密」を、調べ始めることを選んでしまった。

それが、すべての始まりだった。

(画像挿入位置①:山間の古い日本家屋の外観・夜のイメージ)

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第二章 村の記憶

翌日、私は集落の中を歩いて回ることにした。

昼間の谷は、夜とはまったく違う顔を見せる。谷底を流れる細い川は澄んでいて、木漏れ日が水面に反射してきらめいていた。畑には、高齢の住人たちが数人、腰を曲げて野菜の世話をしている姿が見えた。誰もが私を一瞥すると、すぐに視線を逸らした。

集落には、小さな神社があった。鳥居はかなり古く、朱色はほとんど剥げ落ち、灰色の木肌が剥き出しになっている。参道には雑草が茂り、長い間、人が訪れていないことがうかがえた。社殿の奥には、注連縄で結界を張られた、ひときわ大きな杉の木があった。御神木というより、何かを「封じている」ような、そんな雰囲気を私は感じ取った。

神社の由緒を記した案内板は、文字がほとんど消えかけていたが、かろうじて「タタラ神」という文字と、「鎮魂」という単語が読み取れた。

私は思い切って、集落の中でいちばん大きな家――区長を務めているという老人の家を訪ねてみることにした。名前は聞いていなかったが、老婆の店で聞いた話では「宮司さんの家系」だという。

応対してくれたのは、七十代半ばと見える、痩せた男性だった。名を田伏(たぶせ)といった。突然の訪問にもかかわらず、田伏さんは私を家に上げてくれ、お茶を出してくれた。

「奥の家を継がれた方ですか」

田伏さんは、私が名乗る前からそう言った。集落の中では、私のことはすでに知れ渡っているようだった。

私は、夜に聞こえる物音のことを話した。すると田伏さんの表情が、目に見えて曇った。

「ああ……やっぱり、始まっとるか」

「始まっている、とは?」

田伏さんはしばらく黙り込み、それから、ゆっくりと語り始めた。

「この谷は、昔――そうさな、江戸の頃から明治の初めにかけて、たたら製鉄で栄えとった。鉄を作るには、大量の炭と、大量の砂鉄がいる。炭を作るために、山の木を根こそぎ切り倒し、砂鉄を集めるために、山の土を崩す。それを何十年も続ければ、山は死ぬ。谷は死ぬ」

田伏さんは湯呑みを両手で包むように持ちながら、続けた。

「山が死ねば、獣もおらんようになる。作物も獲れんようになる。この谷は、たたらで栄えた分だけ、たたらが終わったあとに、ひどい飢饉に見舞われたんじゃ。江戸の終わり頃の話じゃがな」

「飢饉……」

「うん。その頃のこの谷には、口減らしの風習があった、と伝わっとる」

私はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。田伏さんは、私の顔を見て、静かに言葉を継いだ。

「食い扶持を減らすために、家族の口を、減らす、いうことじゃ。年寄りを山に置いてくる、いうような話は、あんたも聞いたことがあるじゃろう。この谷には、それとは違う……もっと、悪い形のものが、あった」

「悪い形、というのは」

田伏さんは一度立ち上がり、部屋の隅にある古い木箱から、一冊の古びた帳面を取り出してきた。表紙には墨で「記」とだけ書かれていた。

「これは、うちの――宮司の家に伝わる、当時の記録じゃ。詳しいことは、わしにもようわからん部分が多い。ただな……」

田伏さんはページをめくり、ある一節を指さした。私はその文字を覗き込んだ。古い変体仮名混じりの文章で、すらすらとは読めなかったが、田伏さんが要点を教えてくれた。

「この谷では飢饉の際、『客座敷』と呼ばれる部屋にひとりを住まわせ、村じゅうの『不幸』を、その者に集める、という祭りごとがあった、と書かれとる。集めた不幸ごと、その者を山に還す――つまりは、山に捧げる、いうことじゃ」

私は背筋が冷たくなるのを感じた。「山に還す」という言葉の生々しさに。

「その『客座敷』というのは……」

「あんたの家じゃよ」

田伏さんは、あっさりとそう言った。

「あの家は元々、たたらの棟梁――村でいちばんの分限者の家じゃった。飢饉の際、村の寄合はあの家の座敷を『客座敷』に定めた。以来、あの家系は、代々、その座敷の……番人、いうか、管理をする役目を負っとる」

「番人……」

「そうじゃ。じゃが、あんたの家系は、もうずいぶん前に、この谷を出とる。あんたの曽祖父の代くらいまでは、盆と正月には戻ってきとったようじゃが、それも途絶えて久しい。あんたのおばあさんが、たったひとりで、あの家を、あの座敷を、守っとった」

私は、祖母の顔をほとんど覚えていない。会ったのは、記憶にある限り一度きりだ。それなのに、その祖母が、こんな重い役目をひとりで背負っていたということに、言いようのない衝撃を受けた。

「守るというのは、具体的には、何をすればいいんですか」

田伏さんは、少し言いにくそうに、視線を落とした。

「座敷を、開けんことじゃ。何があっても、な」

「それだけ、ですか」

「それだけじゃ。じゃが……それが、いちばん難しい」

田伏さんはそう言うと、それ以上は語ろうとしなかった。私は帳面をもっと見せてほしいと頼んだが、「これは家の外に出せんもんじゃ」と断られてしまった。

家に帰る道すがら、私は先ほどの老婆の店に再び立ち寄った。田伏さんから聞いた話を伝えると、老婆は驚いた様子もなく、静かにこう言った。

「あの家のおばあさんはな、それは律儀な人じゃったよ。毎晩、あの座敷の前に、ちゃぁんと膳を置いて。誰とも話さず、誰とも遊ばず、ただただ、あの座敷を守っとった。気の毒なことよ」

「毎晩、膳を置く、というのは……座敷の中に、何かがいる、ということですか」

老婆は答えなかった。ただ、私の目をじっと見て、こう繰り返した。

「開けたら、あかんよ。何があっても、な」

その日の夜、私は再び、居間の布団に横になった。だが、もはやただの物音を怖がる夜ではなかった。あの座敷――昨日、私が確認しに行った、あの奥の部屋には、本当に「何か」がいるのかもしれない。祖母は、それを何十年も、たったひとりで守り続けてきた。

コツ、コツ、コツ。

いつもの時刻、いつもの音が聞こえてきた。私は今夜、その音の正体を確かめる勇気はまだなかった。ただ布団の中で、体を丸め、朝が来るのをひたすら待ち続けた。

音は今夜も五分ほど続き、そして、いつものように、ぴたりと止んだ。

だが、止んだ直後――今までとは違う、新しい音が聞こえた。

かすかに、ひとの、すすり泣くような声。

女の声だった。老いてもおらず、若くもない、どこか歳のわからない女の声。それは、まるで座敷の中から漏れ聞こえてくるように、しかし同時に、すぐ耳元で囁かれているようにも感じられた。

私は布団を頭からかぶり、ただただ、夜が明けるのを待った。

(画像挿入位置②:霧に包まれた山道の夜のイメージ)

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第三章 客座敷

それから数日、私は日中は集落の記録を調べ、夜は例の物音と泣き声に怯えながら過ごす、という奇妙な生活を続けた。

集落の図書室代わりになっている公民館には、郷土資料が少しだけ保管されていた。その中に、田伏さんの家の帳面ほど詳しくはないが、「たたら谷の飢饉」に触れた資料を見つけた。そこには、こう書かれていた。

――天保の飢饉の折、当村にて餓死者数十名を数う。村寄合の議により、客座敷の儀を再興す。以後、豊作の年もこれを絶やさず、村の安寧を保つ。

「豊作の年もこれを絶やさず」という一文が、私の心に重くのしかかった。飢饉が終わった後も、この谷は、その「儀式」をやめなかったということだ。

なぜやめなかったのか。答えは、資料の別のページに書かれていた。

――客座敷の儀を絶やせし年、疫病流行り、村人の三分の一を失う。これに懲り、爾来、儀を絶やすことなし。

つまり、一度儀式をやめたことがあり、その年に疫病が流行った。村人たちはそれを「儀式をやめた祟り」だと考え、以来、決して絶やさなくなった――ということらしい。

儀式の具体的な内容までは、資料には書かれていなかった。ただ、「客座敷に、家の者ひとりを、あてがう」という表現が、繰り返し出てきた。

「あてがう」という言葉の不気味さに、私は何度も読み返した。

その夜、私はついに、あの座敷を開けてみる決意をした。今にして思えば、これは愚かな決断だった。だが当時の私は、恐怖以上に、真実を知りたいという好奇心――あるいは、この不可解な状況から逃げるのではなく、正面から立ち向かいたいという、妙な意地に突き動かされていた。

深夜二時。いつもの物音が始まる少し前、私は懐中電灯を持って、廊下の奥へと向かった。

襖の前に立つと、あらためて「開けるな」という墨の文字が目に入った。手が震えた。だが私は、その文字を無視して、襖に手をかけた。

襖はひどく重かった。まるで内側から、何かが押さえつけているかのように。私は両手で力を込め、少しずつ、少しずつ、開けていった。

隙間から見えたのは、六畳の座敷だった。畳は古びているが、そこには何もない――はずだった。

だが、懐中電灯の光を部屋の奥に向けたとき、私は見た。

部屋の奥の壁際に、小さな膳が置かれていた。老婆が言っていた「毎晩置く膳」だ。祖母が死んでから一ヶ月以上経っているはずなのに、その膳の上のご飯は、まるでたった今炊きあがったばかりのように、白く湯気を立てていた。

そして、膳の脇に――誰かが、座っていた。

正座をした、女の後ろ姿だった。長い黒髪が、背中を覆うように垂れ下がっている。着物のようなものを纏っているが、その色や柄は、暗くてよく見えなかった。

私は声を出すこともできず、その場に凍りついた。

女は、微動だにしなかった。呼吸をしている様子すらない。まるで、そこに「置かれている」だけの、人形のようだった。

私がどれくらいそうしていたか、わからない。おそらく数秒だったのだろうが、体感では数分にも感じられた。

やがて、女の頭が、ゆっくりと――本当にゆっくりと――こちらを振り向き始めた。

私は、それ以上見ていることができず、襖を勢いよく閉め、居間まで駆け戻った。心臓が痛いほど脈打っていた。

その夜は、朝までまんじりともせず過ごした。だが、あの日以来、状況は明らかに変わった。

いつもの「コツ、コツ、コツ」という物音は、その夜を境に聞こえなくなった。その代わりに、家の中の「気配」が、それまでとは比べものにならないほど濃くなった。

廊下を歩くと、背後に誰かがついてくるような感覚がした。台所で水を使っていると、すぐ後ろに立たれているような視線を感じた。夜、布団に入ると、部屋の隅に、じっとこちらを見ている「何か」の存在を感じ続けた。

私は翌日、田伏さんの家に駆け込み、座敷を開けてしまったことを打ち明けた。田伏さんは、私の話を聞くなり、顔面蒼白になった。

「なんちゅうことを……!」

「すみません……でも、もう聞こえなくなったんです。音は。だから、もしかしたら……」

「違う」

田伏さんは、私の言葉を遮った。

「音が止んだんは、収まったんやない。あれは……こっちへ、動き出したいうことじゃ」

「動き出した……?」

「客座敷に留まっとる分には、まだよかった。あすこにおる限り、あれは、まだ『座敷』の中の話じゃった。じゃが、あんたが襖を開けて、あれを『見て』しもうた。見られた、いうことは、あれにとっては、外に呼ばれた、いうことと同じなんじゃ」

田伏さんの顔には、はっきりとした恐怖の色が浮かんでいた。

「今すぐ、あの家を出るんじゃ。荷物なんぞ、どうでもええ。とにかく、出ろ」

私はそのとき、田伏さんの言葉に従うべきだった。だが、私は完全に判断力を失っていた。あの女の後ろ姿が、頭を振り向けようとしていたあの瞬間の映像が、頭から離れなかった。もしあのとき最後まで見ていたら、何が見えたのか――その恐怖と、抗いがたい好奇心が、私を凍りつかせていた。

その日は結局、田伏さんの家に泊めてもらうことになった。田伏さんの奥さんが、お守りだと言って、古い紙のお札を私に持たせてくれた。「これを肌身離さず持っとれ」と念を押された。

しかし、その夜――田伏さんの家の客間で眠っていた私は、真夜中、誰かに体を揺すられる感覚で目を覚ました。

目を開けると、部屋の中に、あの女が立っていた。

長い黒髪。俯いた顔。着物のような衣。それは、間違いなく、あの座敷で見た「客」だった。

女は、田伏さんの家の、鍵のかかった襖の内側に、すでに立っていた。

(画像挿入位置③:霧に包まれた古い鳥居の夜のイメージ)

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第四章 訪れるもの

悲鳴を上げようとしたが、喉から声が出なかった。まるで喉そのものが、見えない手で押さえつけられているようだった。

女は、ゆっくりと、私の枕元に近づいてきた。俯いた顔は、依然としてよく見えない。だが、私は、その女の輪郭が――どこか、見覚えのあるものに思えて仕方なかった。

女の足が畳を擦る、あの「すり足」の音。かつて夜な夜な聞いていた、あの足音の正体は、これだったのだ。

女は私のすぐ枕元まで来ると、ふいに、その動きを止めた。そして――お札を握りしめていた私の手のあたりで、その動きがぴたりと止まった。

田伏さんの奥さんがくれたお札が、かすかに温かくなっているのを感じた。女はしばらくそこに佇んでいたが、やがて、すうっと後ずさるようにして、襖の向こうへと消えていった。

私はその夜、一睡もできなかった。

翌朝、青ざめた顔で田伏さんに事の次第を話すと、田伏さんは深いため息をついた。

「思うたより、早い」

「早い、というのは」

「あれは、あんたを追ってきとる。座敷を見られたことで、あれの中で、あんたが『新しい客』として認識されたんじゃろう」

「新しい客……つまり、私が、あの座敷に、住まわせられる……ということですか」

田伏さんは答えなかった。その沈黙が、何よりの答えだった。

私は逃げることを本気で考え始めた。荷物をまとめ、車に乗って、この谷から出て行けばいい。単純な話だ。だが、田伏さんは、それを止めた。

「逃げても、無駄じゃ」

「なぜですか」

「あれは、もう、あんたに『目を付けとる』。この谷を出ても、あれは、あんたについてくる。前例が、ある」

田伏さんは、また例の帳面を取り出してきた。今度は、私にも読める部分を、指でなぞりながら教えてくれた。

そこには、明治の初め頃、当時の家の当主の息子――つまり、私と同じような立場にあった若者――が、客座敷を開けてしまい、恐れをなして谷を出た、という記録があった。その若者は、都に出た後、原因不明の病で衰弱し、一年ともたずに亡くなったという。「客座敷の障りなるべし」とだけ、記されていた。

「じゃあ、私はどうすればいいんですか。逃げることもできず、このまま留まることもできないなら……」

田伏さんは、しばらく黙り込んだ後、意を決したように口を開いた。

「儀式を、やり直すしかない」

「儀式……?」

「客座敷の儀は、本来、村総出でやるもんじゃった。ひとりの人間を『客』として座敷に据え、村じゅうの不幸を集め、それを、山に還す。じゃが、それは、実際に人を犠牲にする、いう意味やない。もっと、古い、別の形の儀式が、本来はあったはずなんじゃ」

田伏さんによれば、帳面のさらに古い部分――ほとんど判読不能なほど劣化した最初期のページには、「形代(かたしろ)を用いる」という記述がかろうじて読み取れるという。つまり、本来の儀式は、生きた人間ではなく、人間を模した「形代」――藁人形のようなもの――を座敷に据え、それに「不幸」を移して山に還す、というものだったらしい。

「じゃが、あるとき、これが変質した。飢饉のあまりのひどさに、村人らは、形代では足らんと思い込んでしもうた。人柱――生きた人間を、座敷に据えるようになった。それが、本当の『客座敷の儀』の、恐ろしいところじゃ」

「今の……あれは、その、犠牲になった人たちの……」

「わからん。ひとりの霊なんか、それとも、積み重なった、たくさんの無念の集合体なんか。わしにも、正直、わからん。ただ、はっきりしとるのは、あれは、今も『客』を求めとる、いうことじゃ」

私は、頭を抱えた。逃げることもできず、ただ待つこともできない。残された道は、田伏さんが言う「儀式のやり直し」しかないように思えた。

「私に、何をすればいいんですか」

田伏さんは、私の目をまっすぐに見つめて、こう言った。

「本来の形――形代を使う儀式を、あんたが、あの座敷でやり直すんじゃ。うまくいけば、あれは、形代を『新しい客』として受け入れる。うまくいかんかったら……」

田伏さんは、それ以上言わなかった。

その日の午後、私と田伏さん、そして集落に残るわずかな高齢者たちが、久しぶりに寄合を開いた。誰もが、この儀式の話を、子供の頃に一度は聞かされたことがあると言った。だが、実際にやったことがある者は、誰もいなかった。

儀式に必要なものは、藁で作った人形で等身大に近い人の形を模した形代。そして、清め塩、酒、そして「不幸を移すための言葉」を記した、古い呪文のようなものだった。

その夜、老婆と、もうひとりの高齢の女性が、藁を編んで形代を作ってくれた。私は、その隣で、ただ震えながら見ていることしかできなかった。

深夜零時を回った頃、私たちは、あの家へと向かった。

家に近づくにつれ、空気そのものが変わっていくのを感じた。生暖かく、湿った、饐えたような空気。夜の虫の声すら、その家の周囲だけは、ぴたりと止んでいた。

家の中に入ると、廊下の奥――あの座敷の方向から、はっきりと、女のすすり泣きが聞こえてきた。

田伏さんたちは、玄関先で足を止めた。

「ここから先は……あんたひとりで、行かねばならん」

「え……」

「客座敷の儀は、本来、家の者――つまり、当主にしか、行えん。わしらは、外で祈るしかできんのじゃ」

私は、震える手で形代を抱え、ひとりで、廊下の奥へと歩を進めた。

(画像挿入位置④:暗い和室の廊下・不気味なシルエットのイメージ)

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第五章 客座敷の儀

廊下は、これまでとは比較にならないほど長く感じられた。懐中電灯の光の輪の中に、自分の足元だけが浮かび上がる。周囲の闇は、まるで生き物のように、じわじわと私を包み込んでくるようだった。

座敷の襖の前に立つと、すすり泣きは、ぴたりと止んだ。まるで、私が来るのを、ずっと待っていたかのように。

私は、田伏さんに教わった通り、震える手で塩を撒き、襖に向かって深く一礼した。それから、ゆっくりと、襖を開けた。

座敷の中は、真っ暗だった。懐中電灯を向けると、いつもの膳が、部屋の奥に置かれていた。そして、その脇に――あの女が、正座をしていた。

今度は、後ろ姿ではなかった。女は、こちらに顔を向けていた。

その顔を見た瞬間、私は、体中の血の気が引くのを感じた。

女の顔は、ひどく若かった。おそらく、十代の後半か、二十歳になるかならないかというくらいの年齢に見えた。だが、その表情には、この世のものとは思えないほどの、深い、深い絶望が刻まれていた。目は落ち窪み、頬はこけ、まるで長い間、何も食べていないかのような、飢えた顔だった。

そして、私はもうひとつ、恐ろしいことに気づいた。

その顔立ちが――家の仏壇に飾られていた、若い頃の祖母の写真に、驚くほどよく似ていたのだ。

「あなたは……」

声が震えた。女は答えなかった。ただ、飢えたような目で、じっと私を見つめ続けていた。

私は、田伏さんに言われた通り、抱えてきた形代を、膳の前に、女と向き合うように置いた。そして、教わった通りの言葉を、震える声で唱え始めた。

「不幸をこの形代に移し、山へと還したてまつる。この家の、この座敷の、務めを、ここに終わらせたてまつる――」

言葉を唱えるあいだ、女は、身じろぎひとつしなかった。だが、私が最後の一節――「今より後、この座敷に、生ける者を招くことなし」と口にした瞬間、女の体が、初めて動いた。

女は、ゆっくりと、形代に向かって、その手を伸ばした。長く、痩せ細った指が、藁で編まれた形代の顔に、そっと触れる。

その瞬間、形代が、ぼう、と燃え上がった。

火のない炎だった。熱を持たない、青白い炎が、形代を包み込んでいく。私は驚いて後ずさりしたが、その炎は、周囲には燃え移らなかった。ただ、形代だけを、静かに、静かに、燃やし尽くしていった。

女は、燃える形代を見つめながら、ゆっくりと、涙を流し始めた。それは、これまでの恐ろしい姿とはまったく違う、ただの、悲しみに暮れる、ひとりの人間の姿だった。

「ありがとう」

女の口から、初めて、言葉らしきものが漏れた。掠れた、しかし、はっきりとした声だった。

「ずっと……ずっと、待っていた……誰かが、来てくれるのを……」

形代が燃え尽きるのと同時に、女の姿も、少しずつ、少しずつ、輪郭が薄れていった。まるで、朝霧が日の光に溶けていくように。

「あなたは……誰だったんですか」

私は、消えゆく女に、思わず尋ねた。女は、最後にもう一度、私の方を振り向いた。その顔には、もう絶望の色はなく、代わりに、静かな、安堵にも似た微笑みが浮かんでいた。

「わたしは……最初に、客座敷に、あてがわれた者……」

その言葉を最後に、女の姿は、完全に消え去った。

座敷の中に残ったのは、燃え尽きて灰になった形代と、私だけだった。膳の上のご飯は、いつの間にか、ただの冷たい、古い茶碗の中の残骸へと変わっていた。

私はしばらくの間、その場に座り込んだまま、動くことができなかった。ようやく立ち上がり、震える足で玄関まで戻ると、田伏さんたちが、心配そうな顔で待っていてくれた。

「終わったんか……?」

私は、力なく頷いた。それだけで、田伏さんの目に涙が浮かんだ。

「よう、やった……よう、やってくれた……」

それから数日後、私は田伏さんの家の帳面――あの古い「記」の最初期のページを、もう一度見せてもらった。判読の難しい文字の中に、田伏さんが新たに見つけた一節があった。

――客座敷の初めの客は、村の娘なり。名は伝わらず。飢饉の折、真っ先に、山に捧げられたり。

名前すら残されなかった、その娘。何百年もの間、たったひとりで、あの座敷に「客」として留め置かれ、次々と送り込まれる犠牲者たちを、あるいは看取り、あるいは自らも一緒になって、あの空間に閉じ込められ続けていたのかもしれない。

その後、私はあの家をどうするか、長く悩んだ。田伏さんは「もう、あの座敷には何も残っとらん、安心してええ」と言ってくれたが、私はそれでも、あの家に住み続ける気にはなれなかった。

結局、家は集落に寄付する形で処分することにした。田伏さんたちが中心になって、あの座敷を含む母屋を解体し、跡地には小さな祠を建てて、名もなき娘を弔うことになったと聞いている。

私は今、都会に戻り、以前と変わらない日々を送っている。だが、時折、夜、ふと目を覚ますことがある。真夜中、辺りが静まり返った瞬間、遠く、遠くから、かすかに、

コツ、コツ、コツ

という音が聞こえるような気がして、私は今でも、布団の中で、息を殺してしまうのだ。

あの谷の家は、もうこの世に存在しない。それでも私は、確信が持てずにいる。

――本当に、あの「客座敷」の役目は、終わったのだろうか、と。

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