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批判的思考のエリート教育

 世の中というか、ネット上では、
論理的思考を鍛えようと謳えど、「批判的思考を鍛えよう」とはあまり聞かない。

 批判的思考のネーミングが悪いのか、イメージは、人の揚げ足取りや批判、悪口というネガティブが跋扈しているように思う。
 
 なんだろうな、私ね、
「自分は絶対正しい」と思う人を半分だけ、羨ましいと感じてしまう。
単純に自分に自信があるんだなぁって。

 それに思考のコストがかからない。
「アイツが悪い」と責めてしまえば、自他双方を検証しなくても感情に任せればいい。
 ラクだよね、頭を使わないんだからと、昔の私は思っていた。

  
 私の育ちは批判的思考のエリート教育。
机の上に置いていたはずのものがないとして
「ねぇ、あそこに置いてたアレ、知らない?」など、家族に聞いてはいけない育ちだった。

 怒られはしないけど、祖母から
「七度探して人を疑いなさい」嗜められた。
まずは自分を疑え、と。
 
「石橋は叩いて壊して瓦礫の上を跳んで渡れ」
耳にタコができるほど聞いてきた。
 
 だからトラブルがあった折に友達へ
「私が悪かったのかなぁ」って愚痴ったら
「そんなことないよ」と返ってきて苛立ちがあった。

 私が聞きたいのは、
「私が見落としたヒントを出してくれ」
とことん自分を責めて深掘りしていく。
 
 精神科の主治医やカウンセラー、私の母は
それを異常だと言った。
「普通はそこまで考えない」と。
でも、育ちなんだから。
身についてるんだからどうしたらいいのよ。

 また悩んで。自分を追い詰めて。
 
 歳を重ねて、ほんの少しは視野が広がり、昔ほど自分を責めなくなった。
視野が広がるとは、それだけ仮説が立てられる。

「これは相手の過失割合が高い」と判断しても、
相手を変えられないし、背景を想像しても、推測の域を越えられないじゃん。
諦観しちゃうというか。


 私、いわゆる『手首切るブス』だった時期があったのよ。
半袖が着れないんだ。
手首も腕もカミソリで切ったケロイドだらけ。

 自傷って、「死にたい」だけじゃなく、脳にかかる負荷を止めたいという方向へ行くのかな。

 今は前より全部まともに受けないを覚えてきた感じあるけど、当時は真正面で全部受け止めてたんだろうな。

 それに自分が壊れた時、周囲にも現実的な影響が出るって見えている。

「私が消えれば終わり」じゃなくて、法的問題が絡んでくる。
 家族は相手に対して損害賠償請求をするんだろうなぁと考えたら、相手側にも現実的な問題が発生する。
簡単に自分を使い潰せない。

 自分が正しいと思えたら、今でも半袖が着れたのかな。どうなのかな。分からない。
 
 批判的思考は万能じゃないね。
必ずしもメリットだけがあるんじゃないから。
使い方を間違えれば、自分を壊す刃にもなる。

 今の私は、ようやく少しずつ、使わないコツを覚えてきた。