【飛鳥・藤原の宮都】世界文化遺産への正式登録が決定! 飛鳥と平城京をつなぐ大道とは|『飛鳥・藤原に隠された古代宮都の謎』
韓国・釜山で開催された委員会で世界文化遺産に正式決定した「飛鳥あすか・藤原ふじわらの宮都きゅうと」。その飛鳥と平城京をつなぐ大道とは。新刊『飛鳥・藤原に隠された古代宮都の謎』(瀧音能之編/古川順弘著)より「はじめに」を先行公開します。

飛鳥時代、奈良盆地には直線状の幹線道路がつくられていた。なかでもよく知られているのは飛鳥から北に延びる大和三道で、上ツ道、中ツ道、下ツ道からなり、道幅が20メートルを超えるところもあった。
上ツ道は奈良盆地東部の山麓地帯を縦走し、南方の桜井市谷(仁王堂)で河内方面に通じる横大路と交わり、その先は阿倍山田道となって飛鳥に続いている。
中ツ道は上ツ道の西を走り、横大路との交差点を南端とする。
さらにその西側を走るのが下ツ道で、橿原市の五条野丸山古墳を南端とし、北上して横大路と交差し、奈良盆地中央を貫く。
この三道の特徴は、広くて直線状ということだけではない。それぞれが約2120メートルの間隔で並んでいるのだ。この間隔は飛鳥時代に用いられた高麗尺(1尺=約35・4センチ)に換算すると6000尺。高麗尺は6尺を1歩としたので、1000歩ということにもなり、非常にキリのよい数字である。こうした数値は、大和三道が、ある時期、国家的な計画に則って一体のものとしてつくられた官道であることを示している。
しかし、誰がいつつくったのかということになると、史料に明確な記録がなく、はっきりしない。文献上の大和三道の初出は『日本書紀』の天武天皇元年(672)7月条で、「壬申の乱」において「(天武側の)軍が(大和の)上中下の道に分けて配置された」とある。したがって、7世紀なかばにはすでに大和三道が整備されていたことになる。
考古学的にみると、道跡から出土した土器片のうち、最古のものはおよそ7世紀初頭と推測されている。
こうしたことからすれば、大和三道の成立を7世紀初頭に絞り込むことができよう。7世紀初頭といえば、推古天皇の時代である。そのため、古代道研究者の近江俊秀氏は、大和三道敷設事業を主導したのは、推古朝の実力者である聖徳太子と蘇我馬子ではないかと論じている(『道が語る日本古代史』)。

下ツ道の南端である五条野丸山古墳の被葬者については、近年、欽明天皇とする説が有力になりつつある。欽明は推古の父親であり、飛鳥王朝の父祖ともいえる大王である。したがって、もし五条野丸山古墳が本当に欽明陵であれば、そこは、飛鳥王朝の肝煎りでつくられた大道のスタート地点にはぴったりのポイントであろう。
大和三道のうち、中ツ道と下ツ道は藤原京では条坊街路として利用されている。下ツ道は、平城京造営時に中心軸の基準にもなった。平城京の中央を通る朱雀大路は下ツ道とぴったり重なっていて、平城京内裏と飛鳥を一直線でつないでいるのである。

編=瀧音能之
著=古川順弘
──注目が集まる飛鳥・藤原の宮都の魅力とは何なのか。新刊書籍『飛鳥・藤原に隠された古代宮都の謎』をぜひご一読ください!
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【本書の目次】
序 論 日本のふるさと、飛鳥
第一章 飛鳥の宮都と古墳をめぐる
飛鳥の基礎知識
飛鳥の宮都をたどる
天皇陵と古墳を訪ねる
コラム 斑鳩宮
第二章 飛鳥の社寺と謎の遺跡を知る
飛鳥の古社を詣でる
飛鳥の古寺を詣でる
謎の遺跡と石造物
コラム 難波宮
第三章 藤原京へ
藤原京の誕生
藤原京と内裏と大極殿
藤原京の巨大寺院
大和三山の秘密
コラム 大和三道
【収録している謎や場所の例】
・宮都が飛鳥に繰り返し営まれた謎
飛鳥宮跡(豊浦宮、小墾田宮、岡本宮、板蓋宮、後岡本宮、浄御原宮)
・天皇陵・古墳のミステリー
欽明天皇陵/推古・舒明天皇陵/斉明天皇陵/天武・持統天皇陵/文武天皇陵
・古墳壁画の謎
高松塚古墳/キトラ古墳/都塚古墳/石舞台古墳
・飛鳥の古社寺の謎
甘樫坐神社/飛鳥坐神社/飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社/於美阿志神社
飛鳥寺/橘寺/川原寺/山田寺
・遺跡の謎
島庄遺跡/甘樫丘東麓遺跡/酒船石遺跡
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