他人の人生を生きていませんか?
人生は夢のように儚い
あなたが余命1年となったら、何をやりますか?
現在やっていることを続けますか?
それとも、他にやりたい事というか、やっておくべきことがありますか?
では、余命一週間となったらどうします?
もう何かをする時間的余裕はありません。
その時、自分の人生を振り返ってどう思いたいですか?
「嗚呼面白かった!」
「自分のやるべき事はやった!」
「充実した満足の人生だった!」
といった感じですか?
反対に、どう思いたくないですか?
「辛い苦しいだけの人生だったな」
「つまらない人生だった」
「あの時ああすれば良かったな」
といった感じですか?
一つ言えるのは、その時になって後悔しても遅いという事です。
なので、そうならないように、出来れば早い段階で「どう生きるか」「何を目指すか」について自分なりの答えを持っておきたいところ。
これに関連して、邯鄲という能の演目を紹介したい。
簡潔なあらすじは
蜀の青年 盧生 は人生に迷い、教えを求めて旅に出ます。途中、邯鄲の里の宿に泊まり、女主人から「邯鄲の枕」という、不思議な夢を見る枕を借りて眠ります。
眠りに落ちた盧生の前に 勅使 が現れ、「帝位を譲る」と告げて宮殿へ連れていきます。盧生は皇帝となり、五十年にわたる栄華と歓楽を極めます。しかし祝宴の最中、景色は急に崩れ去り、すべてが消え失せます。
目を覚ますと、宿の女主人が「粟飯が炊けましたよ」と声をかけています。五十年の栄華も一睡の夢であり、粟ご飯が炊ける間の一炊の夢でした。盧生はそこで「人が追い求める地位や名声は、結局“夢のように儚い”ものだ」という悟りを得て帰路につくという物語です。
又、豊臣秀吉も、「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」という辞世の句を残しています。
しかし、天下を取った秀吉ですら人生は儚いというなら、一般庶民はどうなるのか?
人は大抵成功を目指して生きているので、それが無意味だというなら、いったい何を求めて生きていけばいいというのか?
もちろん、それは人それぞれなので、何か特定のものを提示することは出来ませんが、何をやったとしても結局のところは、満足の人生だったと自分自身が思えるかどうかではないだろうか。
当然、名聞名利で満足する人がいてもいいでしょう。
秀吉が、それで満足出来なかったのは、元々天下を望んでいたのではなく、天下が転がり込んできただけだったからではないだろうか?
つまり、心の奥で求めていたものは栄華栄達ではなかったのではないか。
だからこそ、最後は五大老を枕元に呼んで、秀頼のことを頼むしかなかった。
もしかしたら、奥さんと子供がいてそれなりに打ち込める仕事があれば他に何もいらなかったのかもしれません。その打ち込める仕事が、たまたま信長の下で天下の覇を競う戦国武将だっただけのことであったと。
逆に、劉備玄徳は死に臨み、駆けつけた諸葛孔明に、「(我が子)劉禅が君主に相応しい器なら補佐してやって欲しい。もしそうでなければ君(孔明)が彼に取って代わって皇帝となり、蜀を治めてくれ」と言えた。
本心は「そうは言っても孔明のことだから劉禅をないがしろにはしないだろう」と思って言ったのかもしれませんが、それを差し引いても、領民を想い天下を望んで戦ってきた劉備だからこそ、蜀にとっての最善を考えることができたのではないでしょうか。
つまり、自分の心の底の想いを汲み取った選択をしないと満足の人生にはならないということです。
他でもない自分の人生を生きる
とはいえ、富や名声を求めるのは凡夫の常、栄華栄達が夢幻だというのなら、何だったら実存するというのか?
今まさに人生を終えようとする時、何が最後に残るのか?
恐らく、自分が何をやって何を得たかというのは霧散して、自分が生きたことで誰が喜んでくれて、他者からどのような想いを受けたかではないでしょうか。
だとしたら、相手の脳裏に残るのも自分が傾けた想いに他ならない。
そして、その想いの受け渡しの最も強い絆といえば、親・兄弟・伴侶・子供即ち家族ということになりますし、場合によっては、友人・知人・同僚・クライアントも入ってくるでしょう。
最後に残る実存が、物質ではなく自分と他者が傾け合った想いだとしたら、どう生きたらいいかの答えは、自分の心の奥底では分かっているのではないでしょうか。
しかし、人は表層的な欲や見栄に囚われ、他者と比べ、他者の評価を気にして、往々にして自分の人生を生きれていなかったりします。
もしかして、自分の人生なのに誰かの人生を生きていませんか?
多くの人が良いと言っている人生を生きていませんか?
みんなが進学するからしていませんか?
みんなが就職するからしていませんか?
みんなが入りたいと思う、人気のある会社を選んでいませんか?
みんなが結婚するからしていませんか?
それって誰の人生?
それを自分の人生って言える?
最後に
「自分の人生を生きる」という至極あたりまえのことが、なぜこんなに難しいのでしょうか?
一つ言えるのは、世間の目を気にした時点でもうそれは自分の人生ではないということです。
世間体という見えない監視網は、世間は何も言っていなくて別に自分のことなんか気にもかけていないのに、勝手に気にしてその選択に影響を及ぼしてきます。
恥の文化というのはDNAレベルで浸透しているので、個人の意志では抗えない効力を有しています。
「外からどう見られるか」というのを重視し過ぎると「自分がどうしたいか」が後回しになってしまうので、結果として「自分の人生」を生きる妨げになってきます。
その中で自分の人生を生ききるには、自分の中に軸となる判断基準を持っておきたいところです。
うっかり、何となく生きてしまってその時を迎えた時、後悔の無い満足の人生だったと思える確率はそんなに高くないのですから。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
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