言葉の外側で、私たちは考えている
じいじです。
小学4年生の孫の家来をしています。
「言葉があるから人は考えることができる」
そんな一文を
どこかで読んだことがあります。
なるほどと思いました。
けれど同時に
少しだけ引っかかる感じも残りました。
本当に
「言葉があるから」
なのか。
それとも
「言葉にしてしまうから」
人は考えたつもりになるのか。
そんなことを
ぼんやりと考えるようになりました。
スッタニパータを読んでいると
そこには派手な理屈よりも
静かな視点があります。
世界を説明し尽くそうとするのではなく
むしろ
「つかまないこと」
を大事にしているように感じます。
言葉で何かを固定してしまう前のところ
意味づけをしてしまう前のところ
そこに
ひとつの静けさがあります。
仏陀は多くを語らなかった
と言われます。
語らなかったというより
語ることで生まれる
“増幅”
を慎重に見ていたのかもしれません。
私たちは何かを感じると
すぐに言葉を当てはめます。
嬉しい
悲しい
不安
安心
退屈
満足
言葉にした瞬間
それは理解されたように思えます。
しかし同時に、
それは
「それ以外ではないもの」
にもなります。
本当はもっと曖昧で
もっと流れていて
一言ではとても収まりきらない
ものかもしれません。
スッタニパータの世界観では
この
「名づける働き」
そのものが
苦しみの入口になると見られます。
名づけることで
世界は分かれます。
分かれることで
比較が生まれます。
比較が生まれることで
執着が生まれます。
冒頭の言葉に戻ると
「言葉があるから、人は考えることができる」
これは確かに正しい面があります。
けれどスッタニパータ的に見ると
少し違う風にも見えてきます。
「言葉があるから、人は迷うこともある」
言葉は思考を生みます。
同時に
思考の迷路も作ります。
まだ起きていない未来を言葉で作り
すでに過ぎた過去を言葉で繰り返し
“今ここ”
の感覚から少しずつ離れていく。
気がつけば
人は言葉の中に住んでしまうこともあります。
スッタニパータには
「沈黙」
に近い質感があります。
それは単なる無言ではなく
説明を必要としない理解のようなものです。
風が吹くことを
風と呼ばなくても分かるような感覚。
雨が降ることを
概念にしなくても受け取っている感覚。
そこでは
「考える」
という行為は少し後ろに下がっています。
代わりに
「そのままに在る」
ということが前に出てきます。
朝の光を見るとき
湯気の立つお茶を眺めるとき
孫の寝顔を見ているとき
そこにはまだ
言葉が入り込む前の時間があります。
「きれいだ」
と言った瞬間に
少しだけ遠ざかるものがあります。
「愛おしい」
と言った瞬間に
少しだけ区切られるものがあります。
スッタニパータ的な視点では
その
“言葉になる直前”
のところに
静かな真実があるのかもしれません。
では
言葉はいらないのかというと
そうではありません。
言葉がなければ
生活は成り立ちません。
誰かに思いを伝えることもできません。
大切なのは
「言葉を使いながら、
言葉に飲み込まれないこと」
なのだと思います。
言葉は道具であって
住処ではない。
そういう距離感です。
「言葉があるから、人は考えることができる」
その通りでもあり
その奥にはもう一つの
静かな視点もあるように思います。
言葉は思考を生みますが
同時に
思考に縛られる入口にもなります。
だからといって
言葉を否定するのではなく
ただ少しだけ軽く扱う。
スッタニパータのように
つかまず
固めず
流れるままに見る。
そんな姿勢の中に
「飄飄と生きる」
という感覚も
少しずつ育っていくのかもしれません。
「孤独」と「自由」について
まとめてみました。
よかったら 読んでみて下さい。
有料マガジンに
人間関係・不安・執着との付き合い方を
やさしく整えています。
よかったら 読んでみてください。
そんなとこです
飄飄と
いきましょう
