線香花火
仕事のお客さんから差し入れで線香花火をもらった。関東の線香花火と関西の線香花火の二種類をもらった。一般的な東の線香花火は紙縒り部分を手に持って垂らして遊ぶが、西の線香花火は火先を上向きにして遊ぶらしい。そして関西の線香花火がもともとの線香花火の原形だ、とパッケージに書いてあった。
西の線香花火というものを知らなかった僕はさっそく遊んでみたい気持になったけれど、夜の十時くらいに近所の公園でひとり線香花火をしているところをだれかに見られてしまったら心配されるかもしれないと思った。逆の立場なら、あの人なにかつらいことあったのかな、と思ってしまうだろう。一度そう考えてしまうとひとり線香花火をなかなかできないままでいる。
僕はなんでもひとりで楽しめると思っていたので、この事実に突き当たると少なからずショックを受けた。ひとの目をあまり気にしない性分ではあるけれど、それなら遊ばなくてもいいかなと思ってしまったことにショックを受けた。ひとりで楽しめないこともあったのだ。
それからいくつかの似たような出来ごとが僕の身におきた。
たとえば上等な生チョコをお土産でもらったとき。吃驚するほどおいしくて毎日一粒ずつ大事に食べていた。コーヒーを飲みながら生チョコを一粒頬張ると、口にした瞬間にチョコが蕩けて上品な甘さがひろがった。いつもより濃いめのコーヒーを淹れて朝の光を浴びる時間は幸せに満ちていた。でも、と僕はそんな幸せな朝に思った。こんなにおいしいものをひとりで食べるのは勿体ない、と。これほどおいしい生チョコをだれかにも食べてもらいたいと思った。ね?おいしいでしょ?、と素晴らしさを共有したかった。
たとえば東京湾沿いを散歩しているとき。葛西臨海公園を歩いていると湾のむこう側にディズニー・ランドが見えた。ディズニー・ランドのシンデレラ城とディズニー・シーのプロメテウス火山の先っぽがここからも見えることになんだか嬉しい気持になった。しかし、同時に家族や恋人と行ったディズニー・ランドを思いだしていた。記憶のなかでアトラクションやパレードを楽しむ自分の姿は作り話のように思えた。あんな時間が僕にもあったのだと思うと、海のむこうに見えるディズニー・ランドが遥か彼方に感じられた。いまの僕がディズニー・ランドに行きたいと思っているわけではないけれど、ディズニー・ランドにいたむかしの自分には戻れない事実を突きつけられたようで、すこし切なくなった。
たとえば夏祭りに行ったとき。花火や屋台を楽しむ家族や恋人らを見ると、すこしだけ淋しくなる。僕に恋人がいたとき、祭りの写真を撮りたいからと言って祭りにひとり遊びに行っていた。となりにだれかがいると写真が撮れないと言って。ひどいことをしていたな、と夏祭りに行くとあの子のことを思いだす。夏祭り会場の恋人らを目にすると、それが今では叶わなかった夢であり陽炎のように僕の前に揺らめくのだった。
去年の夏にひとりの女の子と出会った。有紀というその女の子は僕のことが好きだったし、僕も有紀のことが好きだった。有紀とは夜の街で待ち合わせて、隅田川の河川敷や東京湾の浜辺で線香花火をした。線香花火の仄かな明かりに照らされる彼女を美しいと思った。浜辺を裸足で駆ける彼女を自分のものにしたいと思った。そして彼女と何度か抱き合った。
でも当時の僕は奈々と同棲していた。もう関係はとっくにだめになっていて関係を解消することは決まっていたけれど、奈々のあたらしい家が決まるまで一緒に暮らしていた。そして秋も過ぎ冬が始まったころ、奈々のあたらしい家が決まって家を出ていく日取りが決まると、僕も奈々も憑きものが落ちたようにおだやかに話をできるようになった。
すると、僕は終りが見えてようやくなぜ奈々のことをもっと大事にしてあげなかったのだろうという気になってしまい、夏に出会った有紀のことを考えられなくなってしまった。しかし僕は奈々とやり直したいわけではなかった。ただ、五年近く関係を持っていたひとりの女の子のあたらしい人生の船出を家を出るまでは応援したいと思った。奈々がどんな気持でいたのかはわからないが、僕が女の子とデートしているのを知って好い気はしないと思った。そして僕は有紀のことを蔑ろにしてしまった。電話が鳴るたびに憂鬱さを感じ、有紀と顔を合わせるたびに二人に罪悪感を抱いた。有紀は僕が彼女とまだ暮らしていることを知っていたし、いずれ離れることも期待していた。ようやく僕がひとりになることに安堵したはずだ。でも僕は有紀を用済みになった散り紙のように捨ててしまった。
冬が終り春が始まった。奈々は家を出て関係を断ち、有紀とは連絡を取っていない。今更僕になにが言えるだろう?僕は都合の良いときだけひとと繋がっていたくて、嫌になれば蔑ろにしてしまう人間なのだ。
引き出しのなかには去年の線香花火が残っている。僕はそこに先日もらった線香花火を仕舞った。思い出はたくさん詰まっていてかけがえのない時間は僕のなかにたしかに刻まれているけれど、同じ時間を繰り返したりやり直すことはできない。だれかの時間と僕の時間を交わらせることは、いまの僕にはできそうにない。僕はだれにも傷ついてほしくないし、だれにも傷つけられたくないのだ。
そうして、今年もあたらしい夏がはじまろうとしている。
となりにはだれもいない。すこし淋しくて、すこし自由な夏がはじまろうとしている。季節はめぐって、また繰り返されようとしている。あたらしく増えた関西の線香花火を、今年の夏は静かに瞬かせたい。
