小皿を一枚だけ持ち帰った朝
小皿を一枚だけ持ち帰った翌朝、私はいつもより少し早く目が覚めた。
カーテンの隙間から入る光が、テーブルの上に置いた水色の小皿を照らしていた。
昨日まで彼の部屋にあったものが、今は私の部屋にある。
それだけなのに、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
別れた恋人の部屋から、何かを持ち帰る。
文字にすると、ずいぶん未練がましい。
でも実際は、もっと曖昧だった。
好きだから持ち帰ったのか。
忘れるために持ち帰ったのか。
それとも、自分の嘘をちゃんと見える場所に置いておきたかったのか。
私にはまだ、うまく説明できなかった。
小皿の上にトーストを一枚のせてみた。
二人で暮らしていた頃なら、彼はきっとこう言ったと思う。
「皿が小さいんじゃなくて、パンが大きいんだろ」
そういう、どうでもいい返しが好きだった。
大事な話は苦手なのに、くだらない会話だけは妙に上手な人だった。
私はトーストを半分だけ食べて、スマホを見た。
彼からの連絡は来ていなかった。
当然だ。
昨日、ちゃんと話した。
謝った。
小皿を一枚持ち帰った。
それで何かが劇的に戻るわけではない。
恋愛は、映画みたいに一晩で答えが出るものじゃない。
むしろ朝になってからの方が、現実は静かに重くなる。
私はスマホを置いて、サブスクの管理画面を開いた。
解約ボタンは、すぐに見つかった。
今度こそ押すべきだと思った。
あの箱は、私の弱さで彼の部屋に届いてしまったものだった。
戻れる場所が残っていてほしい。
そんな勝手な願いを、段ボール箱に託してしまった。
誰かに聞かれたら、きっと引かれると思う。
でも、恋が終わるとき、人は案外きれいではいられない。
ちゃんと終わらせたいと言いながら、少しだけ見つけてほしいと思ってしまう。
忘れてほしいと言いながら、完全には忘れられたくないと思ってしまう。
私はその矛盾を、自分でもずるいと思っていた。
解約ボタンに指を置いたまま、しばらく動けなかった。
昨日の彼の声を思い出した。
「来るなら、荷物だけじゃなくて話もして」
あの一言が、ずっと胸に残っている。
責めるのではなく、逃げ道をふさぐのでもなく、ただ話を求めてくれた。
私はそれが、少し怖かった。
話すということは、もう一度向き合うということだから。
向き合えば、自分の弱さも見える。
相手の優しさに甘えていたことも見える。
別れたあとまで、彼の生活の中に自分の気配を残そうとしていたことも見える。
私は結局、彼に忘れてほしくなかったのだ。
それを認めた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
好きだった。
まだ少し、好きなのかもしれない。
でも、それと戻ることは同じではない。
私はようやく、その違いがわかり始めていた。
テーブルの上の小皿を見つめる。
水色の縁が、朝の光を受けてぼんやり光っていた。
彼の部屋に残ったもう一枚も、きっと今ごろ食器棚の中にある。
同じサブスクで届いた、同じ形の小皿。
でも、もう二人分ではない。
それぞれが、それぞれの部屋で持つ一枚。
その距離が、今の私たちにはちょうどいいのかもしれない。
私は解約ボタンを押した。
画面に「解約が完了しました」と表示された。
思ったよりあっけなかった。
こんなに簡単なことを、私はずっと先延ばしにしていたのだ。
でも、サブスクを解約したからといって、思い出まで消えるわけではない。
彼と笑った夜も。
言えなかった本音も。
最後に強がってしまった自分も。
全部、ちゃんと残っている。
消えないなら、消さなくてもいい。
ただ、もう彼の部屋に勝手に届けるのはやめようと思った。
これからは、自分の部屋で、自分の分だけ受け取ればいい。
昼前、彼に短いメッセージを送った。
「サブスク、解約したよ」
すぐに返事は来なかった。
でも、それでよかった。
もう、返事を待つためのメッセージではなかった。
私が私の手で終わらせたことを、ただ伝えたかった。
しばらくして、スマホが震えた。
「そっか。こっちの小皿は残しておく」
それだけだった。
でも、その短さが彼らしくて、私は少し笑った。
たぶん私たちは、すぐには戻らない。
もしかしたら、もう戻らない。
それでも昨日よりは、ちゃんと前を向けている気がした。
別れた恋は、捨てるだけが整理じゃない。
持ち帰るものを選ぶこと。
置いていくものを決めること。
もう相手に届けないと決めること。
それも、ひとつの整理なのだと思う。
私は空になった小皿を洗って、食器棚のいちばん見える場所に置いた。
見るたびに少し胸が痛むかもしれない。
でも、そのたびに少し胸が痛むかもしれない。
でも、その痛みまで含めて、私が選んだ一枚だった。
彼があの箱を開けた夜、何を見つけて、何を思ったのか。
その本編はこちらに書いています。
同じ出来事でも、箱を開けた人と、箱を届けてしまった人では、見えている景色が少し違います。
よかったら、本編もあわせて読んでいただけると嬉しいです。
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