相手が不機嫌になると、私はすぐ謝ってしまう。家族や職場の空気を背負う女性が、動く前に確認する3つのこと
※登場人物や会話は、今回のテーマを伝えるために構成したものです。
第1章
夫が黙っただけで、夕食が止まった
玄関のドアが閉まる音が、いつもより強かった。
森川千尋は、味噌汁の鍋をかき混ぜながら廊下へ顔を向けた。
夫の拓也は「ただいま」とも言わず、脱いだ靴をそろえないままリビングへ入ってきた。
仕事用のバッグを床へ置き、ソファに座る。
ため息が一つ。
換気扇の低い音だけが、台所に残った。
「おかえり。今日、遅かったね」
拓也はテレビを見たまま、「うん」とだけ答えた。
その一言で、千尋の手が止まった。
何かあった?
私、朝なんか言ったっけ。
昼に送ったLINE、そっけなかった?
味噌汁、また薄いとか?
頭の中で、今日一日の出来事が巻き戻されていく。
朝は、ゴミを出してくれなかった拓也に「もう時間ないよ」と言った。
怒った言い方ではなかったと思う。
でも、急かされたと感じたかもしれない。
昼には、今夜は焼き魚だと送った。
拓也は魚より肉がよかったのかもしれない。
いや、そんなことで?
でも、分からん。
分からんけん、怖い。
中学二年の娘、凛が部屋から出てきた。
「今日、ご飯なに?」
「魚」
「えー」
凛は分かりやすく顔をしかめ、冷蔵庫を開けた。
今度は娘まで機嫌が悪い。
千尋の胸の真ん中が、きゅっと縮んだ。
「魚だけじゃ足りん? 冷凍の唐揚げも出そうか」
「別にいい」
「本当に? すぐできるよ」
「いいって」
凛が少し強い声を出した。
拓也は黙ったまま。
凛は冷蔵庫のドアを閉め、椅子に乱暴に座った。
なんで二人とも、そんな感じなん。
こっちは仕事から帰って、洗濯物を入れて、ご飯作って。
私も疲れとるんやけど。
そこまで思ったところで、千尋は慌てて気持ちを打ち消した。
家族にそんなことを思ったらいけない。
拓也は仕事で何かあったのかもしれない。
凛も学校で嫌なことがあったのかもしれない。
疲れている二人に、自分まで不機嫌になったら、家の空気がもっと悪くなる。
千尋は冷凍庫から唐揚げの袋を取り出した。
誰にも頼まれていないのに、油を温め始めた。
「拓也、何かあった?」
「別に」
「仕事?」
「いや」
「私、何かした?」
そこで初めて、拓也が千尋を見た。
「なんでそうなるん」
責めるような口調ではなかった。
けれど千尋には、責められたように聞こえた。
「いや、なんか機嫌悪そうやったけん」
「疲れとるだけ」
「そっか。ごめん」
何に対して謝ったのか、自分でも分からなかった。
聞きすぎたことか。
勝手に不機嫌だと決めたことか。
それとも、拓也を疲れさせている何かが、自分にある気がしたからか。
唐揚げを油に入れた瞬間、激しく跳ねた。
熱い油が手首に飛んだ。
「あつっ」
凛が一瞬こちらを見たが、すぐにスマホへ目を戻した。
拓也もテレビを見ている。
その夜、千尋は食卓に、焼き魚と味噌汁と唐揚げを並べた。
唐揚げには、誰も手を伸ばさなかった。
第2章
夫に言えなかった言葉が、娘へ向かった
夕食が始まっても、拓也はほとんど話さなかった。
凛もスマホを気にしながら、魚を箸で崩している。
千尋だけが、会話が途切れないように話題を探した。
「今日、スーパーでキャベツ高かったよ」
返事はない。
「凛、来週の部活の試合、何時からやった?」
「まだ分からん」
「プリントもらってない?」
「知らん」
知らんって何。
自分の試合やろ。
千尋の中で、何かが小さく切れた。
「知らんじゃなくて、自分のことなんやけん、ちゃんと確認しなさいよ」
凛が箸を置いた。
「あとで見るって」
「いつも、あとでって言って忘れるやん」
「今見ろって言ってないやん」
「その言い方、何?」
さっきまで、夫の顔色をうかがっていた。
夫には強く言えなかった。
その分が、娘へ向かった。
分かっていた。
言いながら、分かっていた。
でも、止められなかった。
凛は椅子を引き、食べかけの皿を残して部屋へ戻った。
ドアが閉まる音がした。
千尋は反射的に追いかけようとした。
けれど、立てなかった。
拓也が小さな声で言った。
「そこまで言わんでもよかったんやない」
その言葉に、腹の奥が熱くなった。
だったら、あなたが聞けばよかったやん。
私ばっかり話しかけて。
私ばっかりご飯を作って。
私ばっかり二人の機嫌を見て。
そう言いたかった。
けれど、出てきたのは別の言葉だった。
「そうやね。私が悪かった」
千尋は凛の食べ残した皿を下げた。
唐揚げは一つも減っていなかった。
正直、もう知らんと思った。
勝手にすればいい。
私が何もせんかったら、この家どうなると思っとるん。
そこまで思って、今度は自分が嫌になった。
母親なのに。
妻なのに。
大人なのに。
食器を洗い終えたあと、千尋は凛の部屋の前に立った。
ノックしようとして、やめた。
今行けば、また必要以上に謝る。
凛の機嫌が戻るまで説明し、自分が安心するまで返事を求める。
それは娘のためなのか。
自分が悪い母親ではないと確認したいだけなのか。
分からなかった。
悲しいのか、腹が立つのかも、自分ではうまく説明できなかった。
布団に入ってからも、夕食の場面を繰り返した。
拓也に「私、何かした?」と聞いたこと。
理由もないのに謝ったこと。
凛へ強く言ったこと。
追いかけて謝らなかったこと。
あれでよかったんかな。
いや、よくない。
明日の朝、凛に謝ろう。
拓也にも、聞きすぎてごめんと言った方がいいかもしれない。
でも、また私が謝るん?
午前一時を過ぎても眠れなかった。
千尋が苦しかったのは、家族の機嫌に気づいてしまうことではなかった。
誰かの機嫌が悪くなるたびに、「私が何とかしなきゃ」と自分の仕事にしてしまうことだった。
夫が黙れば、理由を探す。
娘の返事が冷たければ、空気を戻そうとする。
相手が何も頼んでいなくても、先回りして動く。
そして最後には、何に対してなのか分からないまま
「ごめん」と言ってしまう。
でも、全部の不機嫌に反応する必要はない。
かといって、
「もう相手の機嫌なんて気にしない」
と急に割り切れるものでもなかった。
千尋に必要だったのは、我慢でも、無視でも、もっと上手な機嫌取りでもない。
相手が不機嫌になった瞬間に、「これは私が動く問題なのか」を一度判断することだった。
では、何を見て判断すればいいのか。
私はここを、3つの確認に分けました。
確認した結果によって、
謝る
一度だけ確認する
待つ
何もしない
のどれを選ぶのかも変わります。
この先では、
「私が何とかしなきゃ」と動く前に見る3つの確認
から始めます。
さらに、
夫、子ども、母親、職場の人、それぞれへの短い言葉。
先回りをやめたことで「冷たくなった」と言われたときの返し方。
そして、分かっていてもまた謝りすぎてしまった日の戻り方まで
整理します。
相手の表情だけで、自分の一日を決めないために。
ここからは、実際に使える形にしていきます。
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