テレビドラマ版『踊る大捜査線』(1997)の魅力について
14年ぶりに本編復活となる『踊る大捜査線 N.E.W. メトロポリスを駆け抜けろ!』は、どのような仕上がりになっているのだろう。『踊る大捜査線』といえば、青島(織田裕二)の着るM-51のミリタリーコート。公務員が羽織るにはいささか不似合いなあの無骨なコートは、青島すなわち『踊る大捜査線』という作品の持つ、“反体制”の象徴だ。しかし、それは同じようにミリタリージャケットを着用した主人公を据えた70年代の映画『タクシー・ドライバー』のように、「腐った社会を浄化するのだ」というような強い怒りとは違う。あくまで組織に属しながら、間違ったことに中指を立てるような温い反逆である。あくまで、スーツを纏った上でコートを羽織るというほんの少しの抵抗。“スーツ”もまた青島の象徴だ。成績No.1の営業マンであった青島は、会社という組織のありかたに嫌気が差し、20代半ばで警察に転職する。しかし、刑事ドラマの世界で憧れていた警察は、現実においては会社組織となんら変わりがなかった。強烈な縦割り社会、学歴差別、部署間の縄張り争い・・・刑事ドラマでは簡単に登場するパトカーや拳銃は、実際に使用するには決済手続きが必要で、張り込み捜査にすらも手続きがいる。書類作成、クレーム対応、健康診断、部署のたらい回し、など一般の会社と同様の業務を細々とこなしていくお仕事ドラマとしてのありようが、それまでの刑事ドラマとの大きなギャップであり、最大の魅力だった。しかし、映画がシリーズを重ねるごとに事件がスケールアップし、『踊る大捜査線』は会社員としての刑事の奮闘から、青島の英雄譚に舵を取ったことで方向性を見失っていったように思う。
だが、1997年放送のテレビドラマ版『踊る大捜査線』は不滅の輝きを放っている。まずもって、役者の煌めきだろう。若き織田裕二や深津絵里の躍動は、観ていると胸がキューっとなる美しさがある。いかりや長介の存在感はこの作品の魅力とイコールと言ってさえいい。アクションというよりはとぼけた会話劇が中心なのだけど、それらが緩むことなくドラマを持続させていくのは、スリーアミーゴス(北村総一朗・斉藤暁・小野武彦)、魚住係長(佐戸井けん太)、中西係長(小林すすむ)などの愛すべきコメディーリリーフたちの小市民性を描こうという輪郭の濃い筆致があるからだ。エピソードも秀逸なものが多く、第2話「愛と復讐の宅配便」や第3話「消された調書と彼女の事件」などは30年近い経った今も記憶に色濃い。終盤の10話「凶弾・雨に消えた刑事の涙」、最終話「青島刑事よ永遠に」あたりは役者とスタッフがノリノリであるのが、画面から伝わってくるテンション感。第8話「さらば愛しき刑事」の、コンピューターを使用したプロファイリング捜査が、現場の刑事を駆逐していく様などは、AI時代到来の今こそ観直す価値があるだろう。また、全体を通して「虐げられた、声を上げにくい立場の人間」への眼差しが散りばめられている点も好感が持てる。
第7話「タイムリミットは48時間」において室井(柳葉敏郎)が同期の一倉(小木茂光ちなみに柳葉敏郎が所属していた一世風靡セピアのリーダー)から
浪速節ばかり唸ってると出世に響くぞ
という言葉を駆けられるのだけど、まさにこの“浪速節”こそが『踊る大捜査線』の根幹だろう。義理と人情。浪速節における「損得勘定を考えずに困っている人を放っておけない善人」という人物像はまさに青島そのもの。社会や制度が強いるトレスを執拗に描き、青島がそういった理不尽を人情でぶち破り、ときにその人情が他のキャラクターに伝染していく。この古典的な浪速節の構造が爽快かつ涙を誘うのである。時代劇や任侠映画の魂を、90年代的な軽いタッチでユーモラスに再生させたのが『踊る大捜査線』だった。
浪速節のみならずラブストーリーとしても古典的。『踊る大捜査線』がフジテレビの月9とかぶらないように、初期構想にあったラブストーリーのプロットを削除した、というのはWikipediaにも記載されている裏話であるが、確かに青島/すみれ、青島/雪乃といったいくつかの恋愛の予感を周到に回避している一方で、青島と室井の強い結びつきはラブストーリーと呼んで差し支えないだろう。互いに手を取り合いたいのに、組織が、環境が邪魔をする。故にカメラは青島と室井のツーショットに禁欲的だ。同じ空間にいる時間よりも、電話や無線でなんとか繋がっているシーンのほうが多い。会いたいけど、会えないという古典的なラブストーリーの様相が観る者の胸をくずぐる。
また、二人の関係は、刑事ドラマでよくある凸凹コンビというバディ感はない。青島と室井は正反対のようで、実はとてもよく似ている。よく似た二人は、互いの理想像を相手に見ているのだ。青島は室井に「信念を失わずに上層部で活躍していく警察官」像を見ている。室井は青島に「出世に目もくれず理想を追いかけて民衆を助ける警察官」像を見ている。それはつまり、自分のできなかったことを互いに託しているというこだ。二人の結びつきや助け合いは、ありえたかもしれない自分自身を救おうとしている行為と言えるだろう。この魂の救済というような関係性が『踊る大捜査線』を伝説たらしめたのであります。
これまで散々指摘されてきたであろう、『踊る大捜査線』をつらつらと書いてしまったのですが、とにかくテレビドラマ版を改めて観て欲しいわけです。とは言え、『踊る大捜査線 N.E.W. メトロポリスを駆け抜けろ!』に恩田すみれが1秒でも出てきただけで泣く自信があるので、映画も観に行こうと思います。
