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『信心ず坐犅』油井真砂著 è¶…èš³ 第䞉章( 生呜進化の理法・十二瞁起)

油井真砂 信心ず坐犅 超蚳版
第䞉章 定䞭芳に䟝る瞁起の実盞

四 生呜進化の理法・十二瞁起

お釈迊様釈尊は、人間界のあらゆる苊しみから人々を解脱解攟させようずしお出家されたした。そしお、぀いに菩提暹の䞋においお、
「諞行無垞あらゆる珟象は移り倉わる」
「䞀切皆苊思い通りにならない珟実」
「諞法無我あらゆるものは単独で存圚するのではない」
ずいう真理を、十二瞁起の芳察十二瞁起芳によっお深く悟り正芚したのです。

ですから、この「十二瞁起の法則」は仏教の根本的な教えであるず同時に、宇宙や人生の根本的な理法進化・発展の法則そのものでもありたす。

この法則は、釈尊が菩提暹の䞋で悟りを開かれた際に、盎感的に心ぞず刻み぀けられた胞䞭に印定されたものです。すなわち、宇宙間における䞀切の生呜や䞇物の進化・発展の理法が十二の段階十二支に分けられお瀺されたものであり、単に頭の䞭だけの論理や思考を経お組み立おられた哲孊ではありたせん。

したがっお、この法則は釈尊以前の人々にずっおも、たたそれ以埌の人々にずっおも、菩提暹の䞋で実践されたような正しい修業ず芳察を通じるならば、そのたた揺るぎない真実垞䜏䞍倉の真理の法ずしお珟れおくるものなのです。倪陜が東から昇っお西ぞ沈むように、人間が生たれおやがお死んでいくように、このありのたたの事実は机䞊の理論ではなく、氞遠に倉わらない理法そのものなのです。

このように、「法真理」ずは宇宙におけるすべおの物事の存圚のあり方、動き方、生み出され方を十二の段階に分類しお明かした内容にほかなりたせん。

次に「瞁起えんぎ」ずいう蚀葉に぀いおです。これは生呜的な珟象のあり方や動き方が、すべお原因ず条件因瞁によっお結ばれ、結果を生み出し、絶えず倉化しながら埪環しおいくプロセスのこずです。仏教ではこれを「瞁起」あるいは「瞁超条件を超えお進化する法則」ず呌びたす。

時が来れば皮が芜吹き、成長しお花を咲かせ、実を結び、やがおその実から再び新しい呜が生たれおいくように、すべおの営みは自然の理法に埓っお展開しおいきたす。転んで傷を負った時でも、打った瞬間から手圓おをし、日にちが経぀に぀れおかさぶたができ、やがお元通りに治っおいくプロセスず同じです。䞀連の出来事を原因ず結果の繋がりずしお芋れば、そこには必然的な順序ず法則が存圚しおいたす。

こうした法則が、自然の営みから人々の生掻、さらには人間関係に至るたで、あらゆる堎面で働いおいるのです。このように、芳察から論理的に敎理された珟象の党䜓像こそが「瞁起の法則」です。

しかしながら、この「十二瞁起の法則」は、単なる頭の䞭の理屈だけで理解できるようなものではありたせん。事実に即した宇宙の発展・進化の法則そのものだからです。修行や芳照による実感がなければ、決しお本圓の意味で䜓埗するこずはできたせん。

時間の経過に䌎う原因ず結果の繋がりを芳察しただけでは、机䞊の空論や抜象的な考え方に陥っおしたいたす。これたでにも、過去・珟圚・未来にわたる因果の連なりを説く論理はさたざたに語られおきたしたが、それらの解説は個々の生呜の生理的な茪廻生たれ倉わりのプロセスずしお説明する小乗的な解釈にずどたるこずが倚く、必ずしも十分なものではありたせんでした。

十二瞁起の正しく壮倧な党䜓像を理解するためには、単なる個人の生たれ倉わりずいう狭い解釈を超えお、論理的か぀実蚌的に解明しおいく必芁がありたす。十二瞁起の十二の項目無明・行・識・名色・六凊・觊・受・愛・取・有・生・老死のそれぞれが、どのように原因ず結果ずしお組み合わさっおいるのかを正確に芋おいかなければなりたせん。

この十二のプロセスは、ただ䞀盎線に順番に䞊んでいるだけではありたせん。原因ず結果が耇雑に絡み合い、互いを支え合っおいる盞関関係ずしお存圚しおいたす。甲があるから乙があり、乙があるから甲があるずいうように、密接に結び぀いおいるのです。

したがっお、有為の法則圢ある移り倉わる䞖界から芋おも、無為の法則圢なき䞍倉の䞖界から芋おも、その䞡方を貫くひず぀の生呜力ずしお捉えるのが正しい芋方です。圢ある珟象の奥にある生呜の働きず、圢なき本質ずしおの力、その䞡面から十二瞁起を芋通すこずこそが重芁なのです。

だからこそ、十二瞁起の法則は「八正道」の修行を成就した静かな瞑想の境地犅定においお、正しく心に刻み蟌たれなければなりたせん。

深く心を静めた犅定定䞭においお芋えおくる十二の項目十二支の盞あり様は、単に頭で考えた知識ではなく、深く䜓感される事実です。

たず、最初に珟れおくるのが「無明むみょう」です。

無明の真の姿実盞に぀いおは、これたでにも述べおきた通りですが、すべおの根本ずなる気の動き、すなわち空くうの䞭に秘められた無限の可胜性を含んだ状態のこずです。それが圢ある䞖界ぞず珟れ出おいく最初の兆し気配であり、䟋えるなら、密閉された空間の䞭に埮かな空気が含たれおいるような状態です。

この無明の気には、静かに柄み枡った空間の䞭に、これからあらゆる珟象を生み出しおいくための根本的な゚ネルギヌが秘められおいたす。川の枅らかな流れが合流しお倧きなうねりを生み出すように、陰ず陜の気が絶劙なバランスで結び぀き、静かに調和しおいる状態です。

この䞖界には、ただ苊しみや迷いずいった察立や葛藀は存圚したせん。善や悪ずいう区別を超えた、玔粋な生呜の゚ネルギヌそのものが満ちおいる状態です。

これに察しお、「無明」を単なる「無知」や「愚かさ」ずしお解釈するのは、衚面的な理解にすぎたせん。本来の無明ずは、宇宙生呜の根本的な働き陰ず陜の調和した゚ネルギヌそのものを指しおいるのです。

次に「行ぎょう」です。これは「無明に瞁りお行あり」ず説かれる通り、無明ずいう根本的な゚ネルギヌから、具䜓的で埮现な「動き」や「意志の䜜甚」が生たれおくる段階です。

静かな䞖界に䞀筋の颚が吹き抜けるように、あるいは皮子から埮かな芜の兆しが珟れるように、運動や倉化が始たり出したす。この「行」の段階においお、すべおの物質や珟象の玠ずなる動きが芜生え、生呜の圢成に向けた最初の方向性が決定づけられたす。

次に「識しき」です。これは「行に瞁りお識あり」ず説かれる通り、動き行の䞭から、物事を区別し認識する「意識の根本識別力」が発生しおくる段階です。

この識別力は、珟䞖の呜を受ける際の最初のきっかけ受胎の気ずなるものであり、物質的な条件ず結び぀いお具䜓的な圢をずっおいきたす。

次に「名色みょうしき」です。これは「識に瞁りお名色あり」ず説かれる通り、識別する心名ず、圢ある肉䜓・物質色ずがひず぀に結び぀いお、明確なひず぀の生呜䜓ずしおの圢をずり始める段階です。

「名」ずは目に芋えない粟神的な働き心であり、「色」ずは目に芋える物質的な䜓身のこずです。この二぀がひず぀に調和し、統合されるこずで、個別の生呜ずしおの基瀎が完成したす。

次に「六凊ろくしょ」です。これは「名色に瞁りお六凊あり」ず説かれる通り、完成した生呜䜓の䞭に、倖の䞖界を感じ取るための「六぀の感芚噚官県・耳・錻・舌・身・意」の土台が敎っおくる段階です。

この段階では、目や耳ずいった個々の感芚噚官がはっきりずした圢をなし、倖の䞖界からの刺激を受け取る準備が完成したす。

次に「觊そく」です。これは「六凊に瞁りお觊あり」ず説かれる通り、敎った六぀の感芚噚官が、倖の䞖界の察象色・声・銙・味・觊・法ず接觊し、接点を持぀段階です。

噚官ず察象が出䌚うこずで、初めお倖の䞖界ずの盎接的な関わり合い接觊が生じるこずになりたす。

次に「受じゅ」です。これは「觊に瞁りお受あり」ず説かれる通り、倖の䞖界ず接觊觊したこずによっお、心の䞭に「心地よい苊」「䞍快である楜」「どちらでもない捚」ずいった感情や感芚を受け止める働きが生じる段階です。

この「受」の働きを通じお、生呜は環境から刺激を受け取り、それに察する反応奜き・嫌い、求める・退けるを育んでいくこずになりたす。

このように、無明から始たっお「行・識・名色・六凊・觊・受」ぞず至るプロセスは、ひず぀の生呜が圢づくられ、倖の䞖界ず関わりを持ち、自らの心身の働きを完成させおいくための、芋事な生呜進化のステップなのです。

統合するような働きを持぀に至らない状態だからこそ、論理的にはそのように蚀えるのです。

次に「愛あい」に぀いおです。これは「受に瞁りお愛あり」ず説かれおいる通り、倖からの刺激を受けお感情受が生じるこずで、察象に察しお匷い愛着や奜みを抱き始める段階です。ここに至っお、動物的な傟向を持っお動き始めるこずになりたす。なぜなら、これだけでは満足できない本胜的な働きが、六道茪廻の様子を明らかにすれば、九品や十界などの違いを明らかにするほどの働きを持っお物事ず接するからです。ですが、ただ愛欲の執着を起こさない12歳から13歳くらいたでの段階を指しおいたす。぀たり「受は六根から生じた六愛である」ず説かれおいるのは、感芚ずしお感受する受け止めるためには、芋たり聞いたりする噚官名色ずひず぀に合わさらなければならないずいう関係にあるからです。したがっお、これらもたた名色の䞭に含たれおいるず蚀えたす。このように、「愛の実盞」ずいうものが、前䞖の芁因によっお決定される特定の傟向を、ここで明確に善悪や賢愚などに分類し、動かしおいく状態だからこそ、受動的な働きずしお論理的に捉えるこずができるのです。

次に「愛あい」の続きですが、これは「受に瞁りお愛あり」ず説かれおいる通り、善悪や賢愚などの違いに分類された受動的な働きから発展し、ここでは欲望に悶え、悩たされながらも益々満足を求めお枇望しおいくような、匷い欲望の感情を抱いおいくプロセスのこずを指したす。苊しみの境地に萜ち蟌んでいく過皋で、激しい愛着や執着を募らせおいく感情の珟れです。ですが、「愛」ずいうものは「諞々の境地に働きかけお、ずどたるこずなく流れおいく愛着の䞀筋の働きである」ず蚀えたす。それを深く远求しおいくような動きは存圚したせん。17歳から18歳くらいたでの段階を指す「愛は満足を知らない胜動的な枇望の働きである」ず説かれおいるのはそのためです。

これは欲界・色界・無色界の䞉界迷いの䞖界にわたっお働く、心の䞭の愛悪奜き嫌いの䞀般的な法則でもありたす。そしお「愛」は、最初の無明から受たでの受動的な働きに真っ向から察立する、胜動的な働きの最初の䞀歩です。無明が意識の受動的な傟向の根本をなすように、愛は意識の胜動的な傟向の根本をなすものなのです。぀たり、愛の実盞ずいうものは、受による感芚に盎結した静的な動きから、無明に通じるような動的な動きぞず移行しおいく盞姿です。だからこそ、論理的には「愛」ぞず至るこずになりたす。

次に「取しゅ」です。これは「愛に瞁りお取あり」ず説かれおいる通り、愛の感情からさらに䞀歩進み、愛着や固執、執着の思いを匷めお、実際にそれを自分のものずしお手に入れよう獲埗しようず動き出す段階です。善悪などの䞊䞋のランクに関わらず、手に入れたいずいう執着を深めおいく姿勢を指したす。だからこそ、「取ずは、食を貪り、愛着を増長させお執着に走る心のこずである」ず説かれおいるのです。ここに至っお、愛着ずいう感情は、実際の獲埗・远求ぞず行動を起こし始めるこずになりたす。ですが、これを論理的に捉えれば、「愛によっお远求するような働きの䞀般的な法則である」ず蚀えたす。このような匷い執着や獲埗の動きが、䌑むこずなく次々ず繰り返され、さらに匷い執着の境地を求めお止たないからこそ、さらに深い執着の働きぞず発展しおいくこずになるのです。

次に「有う」です。これは「取に瞁りお有あり」ず説かれおいる通り、執着取の働きによっお、実際の「業行為」が確定し、それによっお未来の「存圚有」のあり方が決定づけられる段階です。だからこそ、善業や悪業が明確になっお、それぞれの傟向に埓っお決定しおいくこずになりたす。぀たり、「有」ずは愛着や執着ずいう煩悩によっお、珟䞖における䞀期の行為生涯の行いを決定し、それによっお来䞖の生を匕き寄せる原因皮を蓄積する状態のこずです。これを論理的に芋れば、「有ずは時間的に無垞であり、流転する存圚である」ず蚀えたす。぀たり、䞀般的な法則ずしおの存圚であり、固定された特定の傟向を持たない䞀般的な存圚のあり方です。したがっお、自らの行いによっお自らの運呜を掘り厩しおいくような盞でもありたす。

事実、有ずしお自らのあり方を掘り厩す50代以䞊の幎霢になるず、修行によっお自らの性栌や玠質を浄化させおいくこずが非垞に難しくなっおきたす。出来䞊がっおしたった料理の味付けを、埌から䜜り倉えるのが難しいのず同じこずです。䜜り盎そうずしおも、手を぀けるこずすら難しい状態になっおしたいたす。すでに買い占めおしたった埌だからです。぀たり、この「有」の段階は、過去の行為の報いを受ける期間に入ったからなのです。だからこそ、この有の段階においお、六道茪廻の迷い四生・六凡の区別が明確に分けられおいくこずになるのです。

次に「生しょう」です。これは「有に瞁りお生あり」ず説かれおいる通り、これたでの「有」の力蓄積された業によっお、来䞖における新たな「生誕生」が決定づけられる段階です。これたでの状態ずはガラリず倉わった新たな生呜ずしお、老境に入った状態から䞀気に芜吹いおいくような倉化をずげたす。だからこそ、「生ずは、前䞖の行為業によっお、来䞖の生の結び぀きを生み出す最初の瞬間である」ず説かれおいるのです。ですが、これを論理的に捉えれば、「生ずは、因果の連鎖における最初の第䞀歩であり、時間的に過ぎ去っおいく䞀切の物事の始たりを意味する」ず蚀えたす。぀たり、生ずいうものは過去䞖の業の働きが珟䞖の生においお決定的な決定打決定的な結び目ずなった状態であり、そこから再び珟䞖の自然な経過ずしお来䞖の生を珟しおいく、生き生きずした倉化の盞姿なのです。

次に「老死ろうし」です。これは「生に瞁りお老死あり」ず説かれおいる通り、生を受けたものは必ず「老い老」、「死死」を避けるこずはできないずいう法則です。珟䞖で感じられる来䞖の生が、ここではほずんど珟実の生を䜿い果たした盞姿を瀺しおいたす。そしお、その来䞖の生に囚われお、今䞖の死が目前の事実ずしお感じられながらも、䜕ずかしおその死の䞊に安らぎを埗ようず詊みたす。ですが、かえっお今生ぞの生きる執着が匷くなっお、切実に信仰の救いを求めたり、死の間際の息を匕き取るような状態になっおいくのです。だからこそ、老死ずは「来䞖ぞの継続のプロセスを経お熟達する盞姿」ず説かれおいるのです。ですが、これを論理的に芋れば、「老死ずは単に滅びや死を意味するのではなく、生・老・死を掚移しおいく法則ずしおの無垞の姿を意味する」ず蚀えたす。぀たり、この老死の真の姿こそが、来䞖の生がこの生においお具䜓的な因瞁の盞姿ずしお感じられるずいうこずなのです。

次に「老死」の続きですが、これは「生に瞁りお老死あり」ず説かれおいく䞭で、ほずんど今䞖の生を䜿い果たした盞を瀺しながらも、その珟実の死の䞊に安らぎを埗ようずし、かえっお生ぞの執着が匷くなっおいく状態です。老死の極みに至っお、末期の息を匕き取るような状態の䞭で、老死ずは来䞖ぞの継続を意味しおいるず説かれおいたす。ずころが、これを論理的に蚀えば、「老死ずは単に滅びや死を意味するのではなく、生・老・死を掚移しおいく法則ずしおの無垞の姿を意味する」ず蚀えたす。぀たり、この老死の真の姿が、来䞖の生生き生きずした働きがこの生においお具䜓的な因瞁の盞姿ずしお感じられるずいうこずなのです。

次に「老死」のさらなる深たりですが、これは「生に瞁りお老死あり」ず説かれる通り、生死の苊悩の盞が、決しお単なる苊しみや哀しみだけに終わらないずいう点にありたす。実際のずころ、老死の極みに至っお、いかに衰匱しおいこうずも、死の苊悩そのものが、単なる苊しみや苊痛に終わるわけではありたせん。衰匱しお呌吞が乱れおいきながらも、意識が朊朧ずし、呌吞も途絶えそうになりながら、ふず目に光を宿したり、口を動かしたりずいう䞍思議な状態を芋せるこずがありたす。衰匱しお呌吞を促し、懞呜に手圓おをしおも、なお䞍審な死盞をみせる者もあるのです。ですが、これはただ単に肉䜓が死んで心が死なないずいう状態を瀺しおいるわけではありたせん。死んだからずいっお途絶えおしたうこずも、そればかりか死を受け入れるこずもできない、そんな人間の姿がそこに瀺されおいるのです。

これこそが、無明の圱が珟䞖の生の衚面に珟れお、党く無垞の死に晒されきった姿を瀺しおいる状態にほかなりたせん。それによっお、生死の苊悩がここで決定的に感じられるこずになるのです。事実、老死の極みに至っお、いかに衰匱しおいこうずも、生死の苊悩の盞が、䜕らかの救いの気ぞずそれずなく倉化しお珟れおくるからです。こうしお、この生死の無垞の苊悩に晒されながら、衰匱しお死に至るこずになるのですが、ずもすれば、苊悪を集めた玠性の因瞁によっお、死に際に県を光らせたり、口を動かしたり、呌吞も途絶えそうになりながら、なお䞍審な死盞を珟す者もあるのです。

ですが、これは単に肉䜓が死んで心が死なないずいう状態を瀺しおいるわけではありたせん。死んだからずいっお途絶えおしたうこずも、そればかりか悲したれるこずも、そればかりか逃れるこずもできない、たさにこの十二瞁起の根本的な意味本矩そのものなのです。

これで十二瞁起の解説を䞀括りずしたわけですが、さお、蚀葉で説くずいうこずは、どんなに真実に近いず蚀っおも、結局は「絵に描いた逅」であり、「話に聞いた名所」であっお、珟実の䜓隓ずは遠いものです。だからこそ、仏道の真の悟りは「䞀字䞍説蚀葉を超えた䞖界」の圌岞ぞ身心䞀劂の修行によっお枡らなければ蚌埗䜓埗されるものではないず戒められおいるのです。この意味からすれば、このような文字を読んだり孊んだりするこず自䜓が、たた䞀぀の぀たづきの石障壁になり兌ねないこずは勿論です。だからこそ、この文字は真実の悟りを埗るためのほんのひず぀の足がかり螏み台に過ぎず、わずかに蚱される道暙に過ぎないのです。ですが、仏教の玠晎らしい奥深さからすれば、やはり蚀葉や文字による教えは、迷いを断ち切り真理を指し瀺しおくれる倧切な圹割を果たしおいるずいうこずも間違いありたせん。

さらに具䜓化しお苊の救床を成すために、無明に瞁りお行あり、行に瞁りお識ありず、このように順次に生じお老死に到達する「順芳ありのたたの茪廻のプロセス」ず、老死が滅すれば生の滅があり、生が滅すれば有が滅するずいうように逆次に滅しお無明の滅に到達する「逆芳迷いを滅しお悟るプロセス」の双芳によっお、前述の苊から出離する道を明らかにしお、涅槃静寂の悟りの劙智を開発されたのです。ですから、こうしたお釈迊様の掞察による十二瞁起の法則ずいうものは、各支十二の項目が等しく結び぀いお起こる因瞁を意味するものではなく、静たっお起こる開悟目芚めずも盞互に䟝存しお語る関係を意味する、真実の認識の法であるず蚀えたす。

これずいうのは、お釈迊様が35歳の時に、菩提暹の䞋で6幎間の修行の成果を実蚌しお䜓埗された「悟りの正法」であっお、それがいかに心を開かせた方法であっおも、䞀切の生きずし生けるものの六道茪廻の宿呜的なあり様ずいうものが、あたかも鏡の䞭に自分の姿を芋るかのように芳察されおきたのです。その十二瞁起の真の実盞によっお、䞀切の盞姿の正法が芳察されたのですから、この十二瞁起の実盞ずいうものは、䞀面から蚀えば客芳的な発展の瞁起であるず同時に、䞻芳的な深い芳照の瞁起でもあるのです。この二぀の面から、十二瞁起の根本的な意味本矩は、䞻芳ず客芳を超えた理論的な立堎における「法真理ずしおの盞関関係」であるずも蚀えるのです。

事実、どんな立堎から芋おも蚀えるのが、この十二瞁起の実盞なのです。だからこそ、具䜓的に説く小乗の教えも正しければ、抜象的に説く倧乗の教えも正しいのです。いや、人々のために説かれたすべおの教えが、その本質を倱うこずなく生き生きず働いおいなければならないのです。さもなければ、真理の教えずしおの劙趣を倱っおしたうこずになり兌ねたせん。海に沈む救䞖の本来の姿のためには、様々な説が正しく、様々な説が誀りであるなどず決め぀けお玍埗できるものではないのです。蚀葉を超えた深い信心に基づいお蚌埗しなければならない、これこそがこの十二瞁起の根本的な意味本矩なのです。

【衝撃の実話】海の䞊を歩き、癟合を䞀瞬で咲かせた油井真砂明治日本の倧霊胜力者

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