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【ASD】職場にいるだけでなぜか疲れる理由は、「暗号解読のコスト」?――人生の意味より先に電力を取り戻す小さな話

「なんのために生きてるか、分からなくなったんです」

僕のところに相談に来た青年が、唐突にそう切り出した。

どうにも穏当ではない雰囲気だ。
午後の公民館には、古いエアコンの低い唸りが流れていた。机の上には、誰かが置いていったみかん味の飴が三つ転がっている。人生の意味を語るには、少し照明が白すぎる場所だった。

「いったいどうしたって言うんだい?」

僅かな動揺を悟られないよう気を付けて、僕は尋ねた。
彼は、まあまあいいところの企業に就職した、どちらかと言えば「勝ち組」の方だと思っていた。やはり仕事のストレスが大きいのだろうか。

「仕事がしんどい?」

そう尋ねると、彼は少し首をかしげた。

「まあ、仕事は毎回ダメ出しをされて、そのたびに凹みますけど、それだけじゃない気がするんです」

「じゃあ、失恋とか何かかな?」

「いや、そもそも彼女いないんで」

「うーん、そうなのか」

「正直、自分でもよく分からないんです。でもふと『生きてて意味あるのかな』とか思っちゃったりして」


まず、安全を確認する

僕はそこで、一度だけ呼吸を置いた。
こういう言葉は、軽く受け流してはいけない。かといって、大げさに驚くと、相手はすぐに蓋をしてしまう。熱い鍋のふちに触れるみたいに、静かに、でもちゃんと触る必要がある。

「今すぐ自分を傷つけたい、みたいな感じはある?」

できるだけ平らな声で聞いた。

彼は少し驚いた顔をして、それから首を振った。

「今すぐ、という感じではないです。ただ、ふと考えちゃうというか。朝起きたときとか、帰りの電車とかに」

「家族は何て言ってる?」

「仕事しんどいなら辞めれば?って言われたんですけどね。どうも仕事を辞めれば解決するような問題でないような気もして」

「なかなかややこしそうだね」

「そうなんですよ。何か特別なことがあったから、というよりも、なんだか得体の知れない『生きづらさ』のようなもの、ですかね。そういうのがある気がするんです。でもうまく言葉にできなくて。すみません、相談に来ておいて要領の得ない話しちゃって」

「いいんだよ。言葉にならないから相談に来たんだろ」

そう言いながら、僕はある可能性に思い至った。

診断ではなく、構造を見る

僕は医者でも専門家でもない。ただのボランティアの地域相談員だ。
だから、彼に何かの診断名をつけることはできないし、するつもりもない。
名前をつけることと、構造を見ることは違う。

人生の雨漏りを、一緒に見る

雨漏りしている家を見て、僕は建築士のように正式な診断はできないが、どのあたりから水が落ちているのか、どんな日に床が濡れやすいのか、ひとまずバケツをどこに置けばいいのか。そのくらいの観察はできる。

「最初に言っておくけど」

僕は少し姿勢を正した。

「僕は君に何かの診断名をつけるつもりはない。そういう立場でもない。ただ、君の疲れ方には、ある種類の構造があるような気がするんだよね」

「構造、ですか」

「そう。君という人生に生じている雨漏りについて、どこから水が来ているのかを一緒に見る、ということだ」

彼は少しだけ笑った。

「僕の人生、雨漏りしてるんですか」

「してるかもしれない。しかも天井からポタポタ落ちる分かりやすいやつじゃなくて、壁の中を伝って、変なところからじわっと染み出しているタイプのやつだ」

自分で言って、少しひどい比喩だと思った。
でも彼は笑った。笑ったというより、息が抜けたようだった。

「でも、たしかにそんな感じはします。原因の場所が分からないのに、床だけ濡れてる感じです」

「普通」に見える場所で、毎回パスワードを入力している

「じゃあ、少し聞くよ」

僕は続けた。

「もしかして君、人の気持ちとか、空気を読むとか、ノリに乗るとか、情緒とか、そういうの苦手じゃない?」

「え、どうして分かったんですか?」

「臨機応変より、決まったルーティーンをこなす方が好きだったりする?」

「あ、はい。そうですけど、それが何か……」

「もし違ったらごめんだけど、子どもの頃から、みんなに合わせるのが大変だったりした?」

彼は少し黙った。

「あ、いや……でも、みんなのノリに合わせたつもりだったのにドン引きされて、何が正解だったの?みたいなことは何回かあったかもしれないです」

「そうか。じゃあもう一つ聞くけど、大した作業もしていないのに、職場にいるだけで疲れちゃったりすることはある?」

「あー、それすごいあります」

診断名に触れず、とりあえず彼の自責を解除するにはどうすれば良いだろうか。僕は頭の中で急いで話を組み立てた。

「もしかしたら、君は僕と同じ種類の人間かもしれないね」

「同じ種類、ですか?」

彼は少し身構えた。怪しい勧誘にでも引っかかった人みたいな顔をしていた。まあ無理もない。家族でもない近所のおじさんから突然「君は僕と同じ種類だ」などと言われたら、僕だって靴紐くらいは結び直す。いつでも逃げられるように。

「変な意味じゃないよ」

僕はそう言って、少し考えた。

自動ドアで入れる人と、暗証番号を探す人

「たとえばだけど、君はたぶん、みんなが自動ドアで入っていく場所に、毎回パスワードを入力して入っている」

「……どういう意味ですか?」

「普通の人が、なんとなくで済ませていることがある。会議の空気、雑談の温度、上司の冗談にどれくらい笑えばいいか、飲み会でどこまで本音を言っていいか。そういうのって、実は大半の人は半自動で処理しているんだ。でも君は、たぶん毎回手動で読んでいるんじゃないかなって」

彼は黙った。

「しかも厄介なのは、そのパスワードが毎回変わることだ。昨日は正解だった返事が、今日は不正解になる。さっきまで冗談だった話が、急に真面目な話になる。困ったことに、これ本人たちは自然にやっているから、パスワードがあること自体を知らなかったりするんだ」

「……それ、あります」

彼は小さく言った。

「あります。めちゃくちゃあります」

疲れているのは、仕事だけではないかもしれない

「だから君は、仕事そのものだけで疲れているんじゃないかもしれない。仕事の前に、職場という空間の暗号を解読するだけで、かなりの電力を使っている」

「電力」

「そう。スマホで言えば、何もアプリを開いていないのに、裏側で謎の処理が走り続けて、バッテリーが減っていく感じだ」

彼はまた少し笑った。

「それ、すごく分かります。何もしてないのに疲れるんです。でも、何もしてないのに疲れたって言うのも何だか甘えてるような気がして」

「そこなんだよ」

僕は少しだけ声を落とした。

「君が言葉にできなかった“生きづらさ”の正体っていうのは、たぶん仕事のしんどさでも、“人生に意味がない”ことでもない。意味の問題に見えているかもしれないけど、実際には、社会で使われているOSと、君の中のOSの相性が悪いことかもしれない」

「OS、ですか」

「そう。君が壊れているんじゃない。言ってみれば、職場のほぼ全員がiPhoneを持っている中で、君だけがAndroidを使っている。そういう状況なんじゃないかな。」

「もちろん、規格が違うから何もできない、という話ではない。
ただ、規格が違うものを無理やり接続し続ければ、どこかで熱を持つ。Lightning端子に変換アダプタを三つ噛ませた古いiPhoneみたいに、見た目には動いていても、内部ではずっとジリジリ音がしている。」

彼の「生きる意味が分からない」は、もしかすると思想の問いではなく、消耗の悲鳴なのではないだろうか。僕はそんな仮説を立ててみた。

人は、バッテリー残量が0%になると、急に世界全体を疑い始める。
この会社にいる意味はあるのか。自分は何のために生きているのか。そもそも朝起きる必要はあるのか。

けれど、本当に疑うべきなのは、人生そのものではなく、裏側で電力を食い続けている常駐アプリの方かもしれない。

人生の意味を探す前に、電力の減り方を見る

「じゃあ、どうすればいいんですか」

彼は少し前のめりになった。

「とりあえず、人生の意味は探さなくていい」

僕は言った。

「まず、どこで電力を食っているのかを見る」

「電力を食っている場所」

「そう。疲れた日に君がやるべきなのは、反省じゃなくて、観察だ。今日は何がダメだったか、じゃない。今日はどこで消耗したか、だ」

僕は、その観察の方法をメモに書いて見せた。

1. 疲れた場面を「人」「場所」「曖昧さ」に分ける

誰といると重くなるのか。
どの場所で体が固まるのか。
どんな曖昧な指示で頭が止まるのか。

「疲れた」と一括りにすると、自分の弱さに見えてしまう。
でも分解すると、だんだん地形が見えてくる。

2. 疲れが出るタイミングを「前・最中・後」で見る

出社する前から重いのか。
会話している最中に急に処理が止まるのか。
その場では平気な顔をして、帰宅後に電池が切れるのか。

同じ疲れでも、発生するタイミングが違えば、原因も違う。
天気図を見るように、「どこで気圧が下がるのか」を見る。

3. 疲れの出方を「身体・頭・感情」に分ける

肩が固まる。
眠くなる。
言葉が出なくなる。
急に怒りっぽくなる。
帰り道に全部がどうでもよくなる。

これらは怠けではなく、処理負荷が上がったときのサインかもしれない。
大事なのは、反省することではなく、記録することだ。


彼はしばらく黙っていた。

「なんか、少し楽になりました」

「解決はしてないけどね」

「はい。でも、自分が何に疲れてるのか、ちょっと見えた気がします」

それで十分だと思った。

意味は、バッテリーを取り戻してからでいい

人生の意味は、バッテリー残量0%の状態で探すものではない。
まず充電ケーブルを見つける。
どのアプリが裏で暴走しているのかを見る。
どの場所にいると異様に電力が減るのかを知る。

どこへ向かうかを考えるのは、それからでいい。

「君が探しているのは、人生の意味そのものではなく、人生を考えられるだけの電力を取り戻す方法なのかもしれない」

僕がそう言うと、彼は机の上のみかん飴を一つ取った。

「これ、もらっていいですか」

「いいよ。たぶん誰のものでもない」

彼は包み紙を開けて、飴を口に入れた。
公民館の白い照明の下で、みかんの匂いがほんの少しだけ広がった。

世界は何も変わっていなかった。
仕事のダメ出しも、雑談のパスワードも、明日の朝の電車も、たぶんそのままだ。

でも、彼の中で何かの表示が変わったように見えた。

「私は壊れている」から、
「どこで詰まっている?」へ。

それは小さな変化に見えるかもしれない。
けれど、船が沈むかどうかは、たいてい小さな穴を見つけられるかどうかで決まる。

生きづらさに、いきなり名前をつけなくてもいい。
まず、風を読む。
雨水の侵入口を探す。
余計に電力を食っている場所を探す。

意味は、そのあとでいい。
沈まない航法を取り戻した人間は、少しずつ、自分の進む向きを思い出していく。

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