江戸時代の橋渡し役!庄屋の決め方と現代につながる優れた能力を紐解く🌈
江戸時代、幕府や藩と村をつなぐ役人の中に『庄屋(しょうや)』と呼ばれる人たちがいました。
庄屋は、
「領主の指示・命令を村人に伝え、厳守させる」
これが、主な役割。
さらに、村の責任者として、村に関する問題に取り組み(常に先頭に立ち)、村人をまとめる村長のような役割を担っていました。
「村人たちから年貢を徴収し、幕府に納める」
当時は、かなり重要な役職だったようで、郡代・代官のもと、村政を担当することで、
「村人たちを村の代表として統治させ、日本の安定を保つ」
これらに専念していました。
では、具体的に、どのように仕事をしていたのでしょうか?
室町時代や戦国時代は『武士』、江戸時代に『庄屋』になるパターンが多かったとされる当時の人々。
庄屋の多くは、
・武士よりも経済的に裕福
・広い屋敷に住んでいる
・広大な農地を持っている
主な仕事は、「文書の作成」。
ほとんどが家系による世襲制で、村によっては、投票で庄屋を専任することもありました。
そのため、責任感があり、村を代表する知識人でなければならないとされています。
行政の業務を請け負う下請けのような仕事が中心で、
・法令遵守
・上意下達
・人別支配
・土地管理
など、村に関わる諸業務を請け負い、それら全ての知識を入れつつ、村民の要求を奉上する役目を担っていました。
時には、役人に村人の声を伝えなければなりません。
つまり、
「村人を代表する陰の立役者」
これが、彼らの仕事です。
彼らが行っていた業務を『惣代機能(そうだいきのう)』といいます。
「役人と村人をつなぎ、循環させつつ、さらに傘下の各小組合の『小惣代(こそうだい)』たちを総括し、役人とともに村全体の運営に携わる」
今でいう、組合の代表のような立ち位置です。
「自分たちの農村を分け与え、お米・野菜・果物を作ってもらい、商人からの商品の流通も手掛け、それらを分配しながら、年貢を納め、村政を支える」
そのため、庄屋には、一般村民(高持や小百姓など)とは違った地位や能力が求められました。
あらゆるリスクを回避する話術・身なり・所作・文学に長けた人物であることはもちろん、幼少期から跡取りを育たせる教育も必要でした。
1643年に書かれたとされる尾張領の定書の中には、
「庄屋とその妻子は絹・紬・布、脇百姓は布・木綿に限る」
と書かれており、衣服も、他の村民(百姓)とは異なっていたことが分かります。
それから、お米・野菜・反物など、商品の物の価値を見抜く力も必要でした。親身になって仕事をする庄屋とそうでない庄屋とでは、むしろ年貢の量にも差があり、そのせいで村を衰退させてしまうこともしばしば。
さらに、庄屋に必要だったのが『資産』。
年貢収納と万が一決められた数量が期日までに納められなかった場合、庄屋が村入用諸費を立替え(肩代わり)しなければならず、『庄屋給』という手当はあったものの、それだけでは務まらなかったようです。
持っていた着物・反物・田畑を質屋に入れ、村人たちを守る役目を全うした庄屋もいました。
「庄屋が、見舞八〇人分、二〇人分の人夫代を出している」
つまり、
「他の村民が1日無賃勤め、1日は軒別負担であるのに対し、庄屋の負担はその何十倍にもなった」
かなり責任は重く、特に、飢餓・御用金・無尽などを巡っては、どう庄屋が対処するかが鍵を握っていたため、
・庄屋と村民
・庄屋と領主
・庄屋と幕府役人
これらの関係に、差異を生じさせるのか、深いつながりを持たせるかは、庄屋の仕事次第であったとされています。
恨まれ憎まれ役を買っても尚、その立場を全うしていた『庄屋』。
この長い時代の間に、彼らは、栄枯盛衰も経験し、途中で没落したり、新興の家に押されて役人の地位を奪われたり、村人たちの一揆から土地をそのまま奪われたり、いつの間にか地主としての地位を閉ざされたりもしました。
ただ、彼らの立場は、(法的身分上では)あくまで『農民』。
そのため、庄屋の末裔は現在、ほとんどが一般市民。
それでも、企業の役職者になったり、(新たな役目として)先祖から授かった能力を遺憾なく発揮している人たちもいます。
彼らの能力は、今も日本の社会を支える、重要な役目を担っているのかもしれませんね😌
最後まで読んでいただきありがとうございました🌈
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