見出し画像

壁の向こうの安息(ショートショート)

指先の感覚は、とうの昔に死んでいた。

カサついた皮膚が、安っぽいビニールの感触を捉える。棚の隅に置かれた、十円の駄菓子。それを握り込み、コートのポケットへ滑り込ませる動作には、一切の淀みもなかった。

自動ドアを抜ける。冷えた夜気が肺を刺すが、足は止めない。逃げるためではない。待つためだ。

背後で店員が声を上げる。その震えた声を聞きながら、ケンジは歩道の縁石に腰を下ろした。ほどなくして、夜の闇を切り裂く赤色灯が見える。かつては忌まわしかったその光が、今は救いの灯火に見えた。

「……また、あんたか」

若い警察官の呆れた声。手首に冷たい金属が食い込む。心地よい重みだった。これでようやく、飢えと凍えの夜から解放される。


高い壁の向こう側は、かつて記憶していた「監獄」とは似ても似つかない場所になっていた。

朝の点呼。響き渡る号令に合わせて聞こえてくるのは、力強い返事ではない。あちこちで上がる、湿った咳と、引きずるような足音。

運動場へ出ても、かつての荒々しい空気はどこにもない。そこにあるのは、整然と並べられた歩行器と車椅子の列だ。かつてラグビーや行進が行われていた土の上を、腰の曲がった老人たちが、リハビリ専門員の指示に従ってスローモーションのように歩いている。

作業時間も変わった。段ボールの組み立てや袋詰めといった内職の代わりに、今の彼らに課せられているのは「認知症予防のパズル」や「椅子に座ったままの体操」だ。

「はい、深呼吸して。しっかり手を開いてくださいね」

刑務官の言葉は、指導というより介護に近い。彼らの腰には手錠や警棒ではなく、使い捨ての手袋や除菌スプレーがぶら下がっている。廊下を漂うのは消毒液の匂いと、微かに混じる排泄物の臭気。

ここはもはや、罪を償う場所ではない。

国が運営する、巨大な遺棄施設。あるいは、壁という名の究極のセーフティネット。

ケンジは、配られた温かい麦飯と味噌汁を口にした。外のコンビニで買った冷え切った弁当より、ずっと滋味がある。冬の隙間風に怯えることもないし、明日の銭を心配する必要もない。

隣の席では、名札に「入江」と書かれた老人が、震える手でスプーンを運んでいた。彼は時折、自分がなぜここにいるのかさえ分からなくなるという。それでも、食後の決まった時間に刑務官がやってきて、オムツを替えてくれることは理解しているようだった。

安息。ここには確かに、それがあった。


「吉岡ケンジ。入って」

呼び出しを受けたのは、入所して半年が過ぎた頃だった。

面会室の冷たい椅子の向こう側、更生保護委員の身なりの良い男が、書類を捲りながら言った。

「模範的だね、吉岡さん。君ほどの年で、これだけ真面目に務めていれば、話は早い」

男の口から出た言葉は、ケンジにとって死刑宣告に等しかった。

「仮釈放の申請が通った。予定より四ヶ月早く、来月には出られる」

ケンジの指が、膝の上で微かに震えた。

「……出られる、んですか」

「ああ、おめでとう。身元引受人はいないが、保護施設の手配は済んでいる。外でやり直すチャンスだ」

やり直す。その言葉が、空虚に響く。

七十二歳の老人に、何のやり直しがあるというのか。あの、アパートの冷たい床。誰とも会話のない一日。一円単位で計算するスーパーの棚。病気になればそのまま孤独死を待つだけの、底なしの自由。

「私は、まだ……」

「謙遜しなくていい。君の更生の意欲は認められているんだ」

男は満足げに微笑み、書類を閉じた。

ケンジは何も言い返せなかった。壁の向こう側にある「社会」という名の地獄が、再びその口を開けて彼を待っている。


出所の日、ケンジに渡されたのは、入所時に預けていた古びたコートと、数枚の千円札。そして、わずかばかりの私物だった。

重い鉄の門がゆっくりと開く。

背後の刑務官が「二度と戻ってくるなよ」と、定型文のような声をかけた。かつてはその言葉に自由への希望を感じたのだろうが、今のケンジには、ただの突き放しにしか聞こえない。

一歩、外へ踏み出す。

眩しいほどの太陽。アスファルトの照り返し。行き交う人々は皆、足早にどこかへ向かっている。彼らの目に、ケンジの姿は映っていない。ただの、汚れた老人が一人、立っているだけだ。

ケンジは門のすぐ脇にある公園まで歩き、ベンチに座った。

手の中にある三千円。これで何日持つだろうか。一週間か、あるいは十日か。そのあとには、またあの暗い部屋が待っている。

ふと、門のすぐ外に設置された自動販売機が目に入った。真っ赤な塗装、煌々と光る商品サンプル。

ケンジはゆっくりと立ち上がった。

足取りは、先ほどまでよりずっと確かだった。

彼は自販機の前に立つと、深く息を吸い込んだ。そして、痩せ細った拳を、全力でそのプラスチックのパネルに叩きつけた。

バリン、と乾いた音がして、冷たい感触が拳に伝わる。警報音が鳴り響き、周囲の視線が一斉にこちらを向く。

ケンジは逃げなかった。壊れた自販機の前に立ち、返り血のような赤い塗装を見つめながら、その場に立ち尽くしていた。

遠くでサイレンが聞こえる。

パトカーが急停車し、二人の警察官が飛び出してきた。

「おい、何やってんだ!」

怒鳴り声。荒々しく腕を掴まれる。

ケンジは抵抗せず、むしろ自分から手首を差し出した。

警察官の顔を間近で見上げると、その瞳の中に、信じられないものを見るような困惑が浮かんでいた。

ケンジは、笑った。

子供が母親の元へ帰り着いたときのような、心からの、安堵の笑み。

「ああ。また、帰ってきたぞ」

掠れた声でそう呟く。

金属の冷たい輪が、再びその手首を抱きしめた。

その瞬間、ケンジの心からはすべての不安が消え去った。

これから始まる取り調べ、裁判、そして判決。そのすべてが、彼を愛する「我が家」へと導く幸福な儀式に思えた。

高い壁の向こう側、あの消毒液と排泄物の匂いが漂う、安らぎの聖域へ。

ケンジを乗せたパトカーは、逆光の中に溶けるようにして走り出した。

-----


いいなと思ったら応援しよう!