あの日から15年、私の記憶
2011年3月11日14時46分18秒――
その頃の私は、仕事の繁忙期でした。
ただ、1月や2月に比べると、少し落ち着いてきた頃でした。
キリがいいところで作業をいったん終了し、一息しようとマシュマロ入りのココアが入ったマグカップを持ち上げた瞬間でした。
それまで経験したことのない揺れでした。
マグカップを持ったまま給湯室へ駆け込み、
シンクにマグカップを置きました。
そして、走ってデスクに戻り、
モニターやサーバーなどを手で押さえました。
他の同僚も同じように各自、機器の転倒を恐れて、手で押えながら揺れが収まるのを待ちました。
お互い、無言で顔を見合わせました。
みんなの緊張した表情を見て、
「これは只事ではない」
そう感じました。
東日本大震災――ここに記すまでもない、甚大な被害が出た大地震と津波。
そしてその後の原発事故…
被害の大小はあっても、これをお読みの方の中にも影響を受けた方が多いのではないでしょうか…。
職場でラジオの緊急速報に耳を澄ませながら、
その日はもう仕事をすることはありませんでした。
私は両親に何度も電話をかけ、幸いにも数十分で無事が確認されました。
他の同僚もご家族と連絡がとれ、少しホッとしましたが、被害の情報が詳しくはわからないままで、心配な気持ちも残りました。
社長と連絡が取れ、全社員に即時退社の指示が出ました。
首都圏や都市部に通われていた方は、同じような経験をされたかもしれませんが、私は徒歩での帰宅を余儀なくされました。(自宅まで歩いて帰ることができる距離だったのは恵まれてますよね)
同じ方向に帰る同僚と、一緒に歩きました。
幹線道路脇の歩道が多くの人でいっぱいになる光景は、もちろん初めてでした。
同僚が住むマンションが無事であることを確認し、「良かったね~」と声をかけ、別れました。
そこからさらに約4kmくらい、ひとりで歩きました。
帰宅後、玄関を開けると、
なぜか玉ねぎが1個だけ転がっていました…
あとはガス栓が止まっていたくらいで住宅に特に異常はありませんでした。
テレビをつけ、空撮などの映像を見ると想像以上の光景が広がっていました…
そして、
両親の無事はすぐ確認できましたが、
実は、被災していたことが翌日になってわかりました。
親の家はその後繰り返される余震の影響もあって、少し傾きました。翌12日からは計画停電のエリアにもなり、断水は長期間にわたりました。
「被災地の電気を止めるなんて、どうしてなんだ…」
電話口の父親の悲しい声に、何もできない不甲斐なさを感じました。
あの時、80歳手前の両親――健康ではありましたが、1か月ほど不自由な生活を強いられました。
あれから、15年が経つんですね。
筆舌に尽くしがたい体験をされた方々に、
私からかける言葉はみつかりません。
ただ、
皆さんが
私たちに、大きな気づきと生きる力を与えてくださっていることをお伝えしたかったです。
当時は、災害にあっても支え合っている「絆」のようなエピソードも多くニュースなどで取り上げられていました。
しかし一方で、
現実はとても厳しい面がありました。
親の家が損壊し半年以上経った後、保険会社の人が訪れました。
(家は損壊しましたが、倒壊の危険はなく住み続けられました)
その方から、テレビでは報じられないような厳しい現実の話も耳に入ってきました。
あの日のことを思い出すたびに、
今こうして日常を生きていることの
重みを感じます。
日本は災害の多い国です。
これから先、いつ、どこで、誰が被災するか分かりません。
それでも、なんとか助け合える社会であることを切に願っています。

関心を持ち続けることが大切だね」
いつも私のつたない話にお付き合いいただきありがとうございます。
それでは、また。
