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グラシアスの石 【ショートショート】 改訂版

(本作品は4,926文字です)

 その男はキッチンでそばを茹でていた。ヘッドホンから流れる『風に吹かれて』を聞きながら、曲に合わせて腰をくねらせる。この歌はそばを茹でながら聞くのにぴったりだ。
 人々の泣くのが聞こえそうになった時、キッチンとテーブルの間の固定電話が鳴った。番号は非通知である。はじめ男はそれを無視しようと思った。そばを茹でている途中で止めたくはなかったし、大体において非通知でかかってくる電話など、セールスか詐欺かいたずらか、ともかくロクでもないものに違いない。しかし、風が吹いたところで鍋も吹き、あわてて曲とガスを止めたはずみで思わず受話器を取ってしまった。
「5分だけでいいんです、どうか私に時間をください!」
 女は唐突にそう言った。若い女のようである。聞き覚えのない声だったが、男は人の顔や名前などを覚えるのが得意ではなかったから、知っている人でも分からないだけという可能性は十分あった。
「えーっと、あの。失礼ですけど、どちらさまですか?」
「私たちはお互いのことを知っています。でも、あなたは私の名前を知らないので、名乗ることはいたしません」
「セールスなら時間の無駄ですよ。お金、持ってませんから。詐欺でも同じことです。いたずらなら……くだらないからやめてください。それにですね、今、そばを茹でている最中なんです」
「おそばを?確かそちらは今、平日の朝ですよね?」
 驚いた女に男はむっとして返す。
「ええ、そうですよ。平日の朝っぱらからそばを茹でちゃあいけませんか?私の勝手でしょう?つまりね、今、失業中なんですよ。だからお金、ないですから。セールスとか詐欺とか、あきらめた方がいいですよ」
「分かりました。また後でかけ直します。どうぞ、おそばを茹でてください。残りは4分です」
 そういうと女は電話を切った。
 男はそばを茹で上げ、テーブルで一気にそれを平らげた。つゆも全部飲み干す。男はしまった、と思った。彼は性格的に何かを待つということが苦手なのである。電話がかけ直されると分かっていると、それを待ってしまってソワソワしてしまう。
 だが、箸と器を洗っても、それらを拭いて食器棚に戻しても、まだ電話はかかってこない。散歩でもして時間をつぶそうかと思ったが、散歩中にかかってきたら余計やっかいなことになりそうだ。下手すると、彼女がもう一度かけ直してくるのは明日になってしまうかもしれない。そう思って散歩は却下した。
 読書でもしようと読みかけの小説を手にして椅子に座る。しおりはちょうど第3章の章扉のところにはさまれていた。数ページ読み進んだところで、まったく内容が頭に入ってこないことに気がついた。しおりを章扉に戻し、本を閉じる。
 次に男は、彼が『室内散歩』と呼ぶものを始めた。これは単に、部屋の中をぐるぐる・とぼとぼと反時計回りに歩くだけのことである。通常の散歩と違い、周囲を気にしなくても人とぶつかったり、車にひかれたりするおそれはない。従って、足元を見つめて物思いにふけっても少しも危なくないのである。そうして彼は、女から電話がかかってきた時のための作戦を練ることにした。
 ――まず、4分間は電話を切らないことにしよう。途中で切ったら相手にまたかけ直す口実を与えてしまうからね。主導権を握るためには、こちらから先に話し始めた方がいいだろう。それから、名前や住所は絶対言わないようにしよう。一人暮らしをしていることなんかも言わない方がいい。失業中ってことも本当は言っちゃまずかったな。でも、もう言ってしまったことは仕方ない……
 そこに非通知の電話がかかってきた。彼女に違いない。男は受話器を取ると先制攻撃を仕掛けた。
「君はさっき、私たちが知り合いだと言いましたけどね、それなら私が何歳なのか言えますか?」
 年齢を当てさせるようなことをすれば、多かれ少なかれ彼についての情報を与えてしまうことになるわけだが、そのことと名前や住所を絶対言わないこととは、男の中では矛盾していないようだった。
「40」女が即座に答える。
「40歳のはずです。もう少し正確に言えば、40歳と2か月」
 男は少し驚いた。確かにこの女は、彼の年齢を正確に知っているようである。だが、生年月日の情報がどこかから漏れていたなら、これくらいのことは誰でも言える。そう思った矢先、女がカウンターパンチを放った。
「あなたにとって一番大事な思い出は、小学6年生の修学旅行でこっそり実行した、深夜の肝試しですよね?」
 思い出に順位をつけることはできないが、その肝試しは男にとってトップクラスに重要な思い出だった。その夜、男とハルキ、マリエ、それにユキの4人は、こっそり宿泊先のホテルを抜け出して、肝試しと称してすぐ近くの寺まで行ったのである。幽霊が出るかどうかより、先生に見つかることの方がよっぽど怖かった。4人は興奮しながらも、大きな声や物音を立てることなく進んでいった。本堂まで行ったところで特に何かあるわけでもなく、ただ、ひそひそ声でとりとめのない話をし、そしてすぐにホテルの部屋まで戻ってきたのである。幸い、幽霊にも先生にも出くわすことはなかった。
 実のところ、男は修学旅行の前、ユキのことをあまり知らなかった。しかし、肝試しをきっかけに彼女との仲を深め、中学に上がる前だったか、上がった直後だったか、そんな頃に二人は付き合い始めた。その後、別れたり、よりを戻したり、高校の終わりくらいまでは付き合っていた。
 ――あれから全然連絡取ってないけれど、今頃ユキはどうしてるのかな?幸せにやっているんだろうか?
 彼女と別れて以来いろいろあって、いやむしろ何にもなくて、この男の交際人数はいまだ一人のままである。だから、あの肝試しは彼にとって特筆すべきイベントだったのだ。確かにこの女は、男のことを、少なくとも男の一面を良く知っているようだった。
「君は……マリエなのかい?」
 ずいぶん月日が流れたとはいえ、さすがにユキの声なら分かるはずだった。だから消去法でマリエしか考えられない。
「いいえ、違います」
 男はほんのちょっと考え込んでから、恐る恐る聞いてみた。
「ひょっとして……ハルキ」「ちがう」
 女は被せるようにして否定した。
「あなた、その肝試しの時に行ったお寺の境内で、石を拾ったでしょう?」
 男は思い出した。あの時、彼は本堂のそばに転がっていた石をひとつ拾い上げたのだ。何てことはないただの石っころである。それは、角ばったところが全くない、少し平べったい石だった。
「それがどうかしたのかい?」
 男が尋ねる。
「そして、その石に顔を描いたでしょう?」
 男はなぜかその石を気に入って、家まで持ち帰ると、平らな部分に油性ペンで顔を描いた。顔といっても、『へのへのもへじ』と大して変わらないレベルの簡単なものである。大事に保管するつもりで引き出しの奥にしまい、そして存在を忘れた。
「顔、描いたと思うけど?」
「あなたが顔を描いた時、その石に命が宿ったの」
 女の声がいくぶん弾んだような気がした。
「それが……君?」
「そうよ」
 と女が誇らしげに答える。
「でも、石が電話をかけられるのかい?」
「今は人間なの。残り3分よ」
 それから女は自分の身の上を語った。彼女は引き出しの中で3年ほど過ごすと、地球の裏側にある国で、人間として生まれ変わった。なぜそうなったのかは彼女自身にも分からない。彼女には親がいないから、孤児院に入れられて、そこで育った。しばらくの間は前世というか、石の時代の記憶があって、それを周囲の大人に話したのだが、子どもの戯言ざれごとだと一蹴され、誰も真剣には聞いてくれなかった。そこで彼女は、自分の覚えていることをなるべく詳しくノートに書き記し、それを持ち物箱の奥に隠しておいたという。成長するにつれ石の時代の記憶はどんどん薄れ、10歳の頃にはもう全く思い出すことがなくなった。ところが最近、ふとしたきっかけで持ち物を整理していたら、昔のノートを見つけ、当時の記憶がよみがえったというわけである。
「でも、どうして私の電話番号が分かったんだい?あの頃の番号と、今の番号とでは違うのに」
「私も今、電話を使ってるけど、これは本当の通話じゃないの。何というか、霊的な通話なのよ。あと2分。だから、番号を知らなくても、あなたと話したいって強く願うことで、電話をつなげることができたの。それだけじゃないわ。私はずっとスペイン語で話してるけど、あなたには日本語に聞こえているでしょう?」
「うん、そうだね。えっ、どういうこと?私には日本語にしか聞こえないけど。君はスペイン語をしゃべってるって?」
「そうよ、スペイン語で話しているの。今の私はそれしか知らないから。だけど、あなたに伝わりますようにって念じると、神秘的な力か何かで翻訳されて、あなたには日本語として届くの。逆もそうよ。私は日本語を聞き取れないけれど、あなたの話したことは全部、スペイン語として理解できてるの」
「はぁあ。しかし、石に命が宿るだの、人間に生まれ変わるだの、それに、言葉が霊力で翻訳されるだの、色々と不思議なことがあるもんだなあ」
 女の説明に一応は納得したものの、その話をすべて信じて良いものかどうか分からず、男は半ば独り言のようにつぶやいた。
「そういうわけでね、私が誰だか分かってもらえたと思うの。約束の時間までもう1分を切ったから、そろそろ本題に入りますね」
 女は少し深めに息を吸うと、早口でまくし立て始めた。
「グラシアス、グラシアス、
 ムーチャス・グラシアス!
 グラシアス、グラシアス、
 ミル・グラシアス!
 グラシアス、グラシアス、
 ムチシマス・グラシアス
 デ・コラソン!」
 彼女がスペイン語を話しているのは分かったが、どうしてここだけ日本語にならなかったのかは分からない。それでも男に意味は伝わった。ありがとう、と言っているのだ。
「あなたに命をいただいたおかげで、私は今とても幸せな人生を送っています。今だけじゃありません。人として生まれてからこれまでずっと、明るく楽しく過ごしてきました。たくさんの素敵な人たちに囲まれて、私の心はいつも愛と恵みで満たされています。そしてこれから先もきっと素晴らしい日々が待っていると確信できます。だからどうしてもお礼が言いたかったんです。私がこうして生きていられるのは、あの時あなたが私の顔を描いてくださったから。私が前向きでいられるのは、あなたが優しさと思いやりにあふれた方だから。私が心穏やかでいられるのは、あなたの心が空のように広く海のように深いから。私の日々が輝いているのは、あなたが私を愛で照らしてくださるからです。そのことをお伝えしたかったんです。私がいつもいつも幸せに暮らしているということを、あなたに伝えたかったんです。それだけです。本当にただそれだけなんです。セールスでも詐欺でもいたずらでもありません。それと、それと……どうかあなたもお幸せに!どうかあなたも幸せをあきらめずに!どうか……」
 女がまだ話している途中で電話はプツっと切れた。男はしばらくじっと待っていた。話の続きが聞こえては来ないだろうかと待っていた。だが、日本語でもスペイン語でも、もう彼女の声は聞こえない。幸せのふりした悲しみは、言葉の陰に隠れたまま消えてった。
 親も身寄りもないただの孤児女が、容易に幸せになれるほど甘くはないこの世の中で、せめて人並みになれればと、もがいてもがいて必死にもがいて、もがくほどに傷つけられて、踏みにじられて、何度も何度も幸せをあきらめかけて、それでも希望を持ち続け、愛を待ち続け、感謝の気持ちを抱き続けて生きてきて、天から与えられた奇跡によって生みの親である男と5分だけでも話せるのなら、いつか男がその会話を思い出し、今頃あの女はどうしているだろうかと想像し、きっと幸せにやっているに違いないと笑ってほしい。彼女の願いは、ただそれだけのことだった。
 男はそっと受話器を置くと曲をかけ、小説を手に取り椅子に座った。第3章の章扉をめくる。男はしまった、と思った。彼は二度目の恋のチャンスを逃したんじゃないかと考えたのである。『風に吹かれて』は、さよならさと歌っていた。

(おわり)




最後までお読みいただきありがとうございました。皆さまに驚きや感動をお届けできましたら幸いです。


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