おしゃれなカフェ 【ショートショート】 改訂版
(本作品は4,048文字です)
あなたはカフェに行ったことがありますか?僕はありません。カウンターで紙コップに入ったコーヒーを受け取って、それを職場や学校に持ち込むというような、そういうカフェなら僕も行ったことがあります。そうではなくて、ここでいうカフェというのは、女性なら入れる店、カッコいい男なら入れる店、男女のカップルなら入れる店、大勢では入れない店、野暮ったい男は決して入れない店、そういう類のカフェのことです。
僕はそういうカフェに行ったことがありませんし、これから先も行くことはなさそうです。負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、どうしても行きたいと思ったこともありません。ただ、その日はなぜか『冬カフェJAZZミュージック』なるものがおすすめ動画として表示されたので、少し気になってしまったのです。それで、想像の世界のカフェにでも行ってみようかという気になったのです。それなら僕にも行けそうでしたから。
そういう訳で、そのおしゃれなカフェでの出来事を今からお伝えするのですが、なにせ実際には一度も経験したことのない人間が想像したことです。現実とは異なる部分も多々あるかと思いますが、どうか寛大な心でお許しください。
レンガの階段を三段ほど上がった先に、ガラスのはめられた白い木製の扉が見えた。両脇に植えられた、名前も知らない植物をながめながら、僕はゆっくりと一段ずつ階段を上る。扉のすぐ前まで来ると、透き通るような肌をしたクールな雰囲気の美男子がガラスに映っていた。この日の僕である。
扉を開けて中に入ると、若くてかわいい女性の店員が笑顔で「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。瞳の奥に合格通知が見える。
『オーケー、あなたは入店してよし』
“若くてかわいい女性の店員”と言ったが、この店の店員はみんな若くてかわいい女性なので、これではただ“店員”と言っているのと同じである。区別するために髪型を使うことにしよう。いまの店員はボブである。
ボブさんは僕を窓際の席に案内してくれた。小さな丸テーブルをはさんで、ふたり掛けの茶色いソファが二つ、向かい合っている。そのうちのひとつに僕は身を沈めた。店内には『冬カフェJAZZミュージック』と同じようなピアノの曲が流れている。大きな窓の向こうには、雪に包まれた公園が広がっていた。ちらりちらりと雪はさらに降り積もっている。
隣のテーブルには、女神が服を着たかのような美しいフランス人女性が座っていた。彼女はイヤホンで何かを聞きながら、真剣な眼差しで数学の問題を解いている。なぜフランス人と分かったのか。それは僕が大学でフランス語を習ったことがあり、彼女の開いている教科書に知っている単語がいくつか見えたからである。なぜ数学の問題と分かったのか。それは僕が大学で数学を学んだことがあり、彼女が解こうとしている問題の解き方を知っていたからである。
ショートカットさんが注文を取りに来た。メニューの左のページには、オリジナル・コーヒーとして、“花”、“鳥”、“風”、“月”の四種類のコーヒーが載っている。お値段はどれも等しく高い。右のページにはケーキセットがある。好きなケーキとオリジナル・コーヒーをそれぞれひとつずつ選べることになっていた。僕はすぐに「ショートカットとコーヒーの“花”をお願いします」と注文した。ショートカットさんは「はい、ケーキセットがおひとつで、ショートケーキと“花”のショートサイズでよろしいですか」と、少しトゲのある笑顔で確認し、去っていく。
窓の反対側、女神さまの向こうのずっと奥にある壁は、床から天井までが全て本棚になっていて、分厚い本で埋め尽くされていた。遠すぎて本のタイトルは分からない。本棚のすぐ手前の席には、あご髭ともみあげのつながったダンディな中年男性が座っていた。彼はパイプをくゆらせながら、分厚い本を読んでいる。
ポニーテールさんが、女神さまに一杯のコーヒーを運んできた。「失礼します。“鳥”をお持ちしました。あちらのお客様からです」と言って、手であのパイプ男を指し示す。彼は女神さまに向かって微笑んでいた。コーヒーを受け取ると、女神さまも小さな声で「メルスィ」と微笑み返す。僕は、パイプ男が彼女の隣にやってくるのじゃないかとハラハラした。しかし、彼はすぐに読書に戻り、女神さまも数学に戻った。僕はほっとした。
美しい彼女に何とか話しかけたかったが、コーヒーをおごってあげるようなキザな真似はできそうもない。
先ほどから女神さまは、ある問題に苦戦していた。教科書の後ろの方のページを見ても、そこには省略された解答しか記載されておらず、それだけでは肝心なところが理解できないようだった。僕はその問題を解くことができたし、その解き方を教えてあげることもできた。しかし、もちろん、自分から女神さまに声をかけるような勇気は持ち合わせていなかった。たとえ今は美男子であったとしても、である。
そもそも、彼女が日本語を話せるのかどうかも分からない。僕の方は、その教科書の中のいくつかの単語が分かるだけで、フランス語を話すことなど到底できない。だから、頭の中だけで、彼女にていねいに数学を教えるシミュレーションを何度も繰り返した。
「この問題は、こうしてこうして、こう整理すると、ベルヌーイの微分方程式であることが分かりますから、両辺を$${y}$$の$${n}$$乗で割ってあげて……」
シミュレーションをしながらケーキを食べ、コーヒーを飲んだ。ペース配分を考えなかったので、あっという間に皿もカップも空になる。それにしても、女神さまは美しい。
もう少し正直に言おう。僕は彼女と知り合いに、というか友達に、というか、ゆくゆくは恋人になりたくて話しかけたかったのである。話しかけるきっかけとして数学を教えたかっただけであり、きっかけさえあれば数学などはどうでも良かった。僕は下心満載の利己的な偽善者である。
しばらくすると、ポニーテールさんが僕のところへやってきた。トレイの上には一杯のコーヒーが乗っている。「失礼します。“風”をお持ちしました。あちらのお客様からです」と言って、隣のテーブルを指し示す。女神さまが僕を見て微笑んでいる!心臓が飛び出しそうになった。しかし僕は、「こんなことはよくあることさ」とでも言いそうな顔をつくり、できるだけ落ち着いたトーンの「ありがとう」を発した。ポニーテールさんが去り、店内が静かなジャズの音色に包まれる。今しかないと思った。
「あの、日本語は分かりますか?」
すると女神さまがイヤホンを外して、
「ごめんなさい。もう一度、おっしゃっていただけますか?」と聞き直す。
僕はめげない。
「もしよろしければ、その問題の解き方、説明させていただけませんか?」
彼女はにっこりと笑って、
「お分かりになるんですか?ぜひ、お願いします」と答えた。
僕は頭の中で何度もシミュレートしたことをそっくりそのまま実行した。すると女神さまは大げさに喜び、感謝してくれた。それから、フランスで人気がある日本のアニメのことを話したり、サッカーのワールドカップのことを話したりして、今度はしゃべり場でまた数学をやりましょう、ということになった。しゃべり場というのは 言うまでもないが 市民が自由に話をするための公共施設である。知り合い同士で来ても構わないし、ひとりで来てその場で出会った誰かに話しかけても良い。雰囲気はそこら辺の図書館と似ており、このカフェのようなおしゃれさは全くない。だが、彼女と一緒にいられるのなら、ゴミ捨て場の前だろうと公衆トイレの横だろうと構わなかった。女神さまのそばは、どこであろうと天国である。
僕が夢見心地でいると、そこへボブさんがやってきた。
「お客様、当店はペイフォワード制となっております。恐れ入りますが、そろそろ……」
「ペイフォワード?」
スマートでない僕の反応を見て、彼女の目から合格通知が消えようとしていた。僕はあわてて財布を取り出すと、お札をつかんで彼女に差し出した。ボブさんが困惑している。恐る恐る聞いてみた。
「ペイフォワードっていうのは、前払いのこと……」……ではなかった。
「申し訳ございません。ペイフォワード制では、ご来店された順に、次のお客様のために一品、ご注文いただくことになっております。四種類のオリジナル・コーヒーの中からひとつ、お選びいただくことが多いです」
その瞳に不合格通知が浮かんでいた。
『ハイ、ダメー』
「……では、僕の次の方に“月”を……」
僕は消え入りそうな声でなんとかペイフォワードした。もう、女神さまを見ることはできない。窓の向こうではまだ雪が降っている。先ほどよりも勢いが増していた。気づくと窓に顔が映っている。クール美男子の顔ではなく、いつもの僕の顔が。カフェに来てはいけない男の顔が。急に恥ずかしさが込み上げてきて、そのまま店を飛び出した。
雪の中を傘もささずに歩く。情けなくて、涙がこぼれそうになった。すると、後ろから誰かが追いかけてくる。すぐそばまで来て、大きな声で僕を呼び止めた。
「あの!」
お会計をせずに出てきてしまっていた。恥の上塗りとはこのことである。僕はあらためて財布からお札を取り出すと、振り向かずにそれを差し出した。
「あの、まだお名前伺っていないので……」
振り返ると、ボブもショートカットもポニーテールも島田まげもいなかった。そこには、女神さまが降臨していたのである。
そういう訳で、今回のことから僕は二つのことを学びました。ひとつは、世の中にはペイフォワード制というものがあるということで、もうひとつは、やはり僕には、カフェよりも図書館やしゃべり場の方が向いているということです。それが今日、ペイフォワード制のしゃべり場に来た理由となります。僕の話は以上です。ご清聴いただき、ありがとうございました。それでは僕はこれで帰りますから、あとはよろしくお願いします。次は、あなたの番です。
(おわり)
最後までお読みいただきありがとうございました。皆さまに驚きや感動をお届けできましたら幸いです。
