🌹女風土記🌹 台湾 バナナの女王 陳 杏村 女史 / The Queen of Banana, Ms. Chén Xìngcūn

陳 杏村 女史
Ms. Chén Xìngcūn
1909 - 1977
中華民国新竹市 生誕
Born in Hsinchu City, Taiwan
陳 杏村 女史は、台湾出身のファッションデザイナー、実業家。戦時中の上海から煙草事業を、戦後の台湾からバナナ事業を成功させ、台湾ならびに日本の政治家を支援する政商として活躍。孫娘はモデルから政治家に転身した齊藤蓮舫。
Ms. Chen Xing-cun is a Taiwanese businesswoman and designer who dominated the tobacco trade in wartime Shanghai and the banana industry in post-war Taiwan. Known for her deep political influence in both nations, she is the grandmother of Japanese politician Renho Saito.
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「閩南人と客家」
「他に奇しい貨(品物)は無く、(住民)は尤も好んで剽掠するので、商買はできない。」(『諸番志』趙汝适)紀元前にバーシー海峡を越えてきたマレー族が台湾に定着。モンゴル帝国と対峙する南宋代13世紀、山岳が重畳する険阻な地形に猶異民族を有する福建省から下層農民が流れ込んだ膨湖諸島や泉州まで鉄類を求めて筏で略奪を行う一方、比較的進んだ諸部族が交易を開始。明代16世紀には、オランダ人による植民地開発に便乗する福建省の海商また海賊らのもと、鹿皮・鹿脯(干肉)と塩・米との物々交換で甘蔗(サトウキビ)栽培に従事します。オランダ当局が奨励した2万5000戸の漢人移民世帯による砂糖の生産量は、17世紀に10万斤(60トン)から200万斤(1200トン)まで急増。まもなく平戸に日本人を母親として生まれた鄭成功が大軍2万5000を率いてきてオランダ人を駆逐し「抗清復明」政権を樹立。鄭一族と同じ福建省南部(泉州、漳州、厦門)をルーツとする「閩南人」20万人が入台し、南は高雄・屏東、北は嘉義・彰化・新竹を移住開拓します。17世紀末の清朝による台湾合併により、鄭一族・明一族・官吏・兵は大陸に降り、新たに設置された台湾一府三県に、大陸各地で「土客械闘」(戦闘や殺戮による激しい土地争い)を引き起こし畏れられる広東省梅県をルーツとする東洋のユダヤ人こと「客家(粤人)」の民が移民の大群に加わり、沿岸一帯の平地部に先住する「閩南人」と殺し合いの摩擦を起こしながら、「首狩り」など反撥の脅威である先住民族の居住地域「蕃界」に限りなく近い山麓地帯に浸透。蕃族・閩族・粤族さらに異家族・異姓部落・異郷部落など血縁的・地縁的・帮的社会間に「分類機闘」と称される武力闘争が頻発します。
「土匪と日本人」
「土人(マレー人と支那人との混血)多く米を作れり又甘蔗をつくる者多し味甚だ美にして筋なし然れ共耕作の法甚だ麁にして培養することを知らず只天然に任せたるが多し若し能く農耕の法を用ひば必らず良田と成るべし。」(『東京日日新聞 台湾信報』岸田吟香)アヘン戦争に続く太平天国の乱で大陸から移民が押し寄せる最中、アメリカ・ロシア・イギリスの艦隊また商船を襲撃した先住民族が、台風で漂着した宮古島民66名中54名を殺害「牡丹社事件」(明治4/1871年)。これを口実に陸軍中将西郷従道が軍艦六隻に軍隊3600人を率いて台湾に出兵(明治7/1874年)、半年にわたる長期駐屯中にマラリアなど風土病で500名以上が病死し1500名以上が羅病、見舞金ならびに琉球の日本帰属を清国に承認させ撤退します。李鴻章の準軍にあって上海郊外で太平天国軍と転戦した劉銘伝は、新しく設置された台湾省初代巡撫に就任。浜松藩の兵学教授・名倉松窓を招いて経学を談じ時勢を論じ、日本で開発されたばかりの「上総堀り」で大規模井戸を開削、街道や溝・下水を整備し、海軍の創設・兵器の修理・電灯・鉱山・鉄道・海底電線など新事業を画策。ベトナムをめぐる清仏戦争(1884年, 1885年)でフランス極東艦隊と対峙しながら台湾の防衛と近代化に奮闘します。上海~台湾定期航路が開かれ、台北府に商人が集まり、石坊・西門など新しい街が造られ、財政破綻の危機を招いて劉銘伝が引退する頃、「アヘン戦争」で鎖国の防波堤が除かれ旧勢力が総崩れとなった清国が「日清戦争」(1894-1895年)で敗戦。日本に割譲された台湾は、半年に及ぶゲリラ戦を経て日本軍に占領されるも、「土匪」と呼ばれる抗日戦士を数限りなく輩出します。
「樟脳と通訳」
陳杏村は日本統治下の新竹に生れます。風の都・新竹は人口3万人弱に蜜柑・茶葉・油井・林産物・樟脳・製糖工場が活気を添え、「客家」と先住民族が結託して日本人を襲撃・殺戮した「北埔事件」(明治40/1907年)で台湾総督府に衝撃を与えます。「権力との結合なくして資本の独占は行われない」、新竹市五指山地区の樟脳製造業は専売制度施行後に厳しく規制され、日本資本の流入・独占に対抗して地主「客家」陳麒麟らが統合して粗樟脳製業にあたるも、中小農家「客家」らは脳工として奥山に深入りする毎に首狩りの危険に晒され、利潤の高い精製樟脳は日本の資本家に譲られ、高度な樟脳油の再製は神戸で鈴木系企業に委ねられます。「近く清國の大兵が臺灣の奪還に來ることになつてゐる。この機を失せず日本官憲を誅戮して手柄を立てた者には、清政府に於て相當の論功行賞ある」妄言を流布して先住民を扇動した「客家」蔡清琳と同じく日本人弁護士の通訳を務める陳杏村の父・陳定墻(陳廷墻)は、地主「客家」李金盛(代表、3万円出資)・李聯璧(1万円出資)・陳麒麟(1万円出資)、日本人弁護士・山口十次郎(2万円出資)、日本人医師・樋村龜作(2万円出資)らと「大正拓殖合資会社」設立(資本金10万円)に参加、開墾・造林・農業及び赤糖の製造販売に乗り出します。「我ハ野志士的奮闘ヲ爲サンガ爲ニ判官ヲ棄テタリ 我ハ正弱ニ與ミシ邪強ト戰ハン爲ニ辯護士ニ復セリ 來レ來レ世ノ所有ル横暴ニ苦シム者ハ來レ…」在野法曹界の一大權威で、雑誌『新臺灣』・「台湾興信所」・「桃園電気株式会社」社長を務める山口十次郎が、新竹庁三角湧(新北市三峡区)渓流沿いに敷設された軽便鉄道台車(トロッコ)転落事故で渓底に墜落死すると、杏村の父・陳定墻(陳廷墻)は設立1年目にして会社代表に大躍進。台湾最大の商業地区となった台北の大稲埕に進出し、日本統治に反対し台湾自治を啓蒙する「台湾文化協会」の活動に熱心に取り組みます。
「洋装と珈琲」
幼くして母を亡くした陳杏村は、蓬萊公学校(のち蓬萊国民小学校)を卒業後、台北女子職業学校に通いながら、台湾総督府医学校(のち国立台湾大学医学部)に通う「閩南人」である謝達林と交際を続け、まだ珍しい恋愛結婚をします。夫の郷里である台南の塩水郷から内陸に入った白河郷(台南市白河区)で最初の病院を開設。5年で2男2女という大家族をなし、内陸部の山岳温泉地・関子嶺に別荘を購入するほど裕福になると、おしゃれ好きの杏村は東京銀座ファッションスクールに入学。師事したのは、『読売新聞』記者の傍ら米国のデザイン学校で学んでデザイナーをしながら、きらびやかで突飛な洋装で音楽家や御曹司らと噂を振りまいた後に外交官また米国人英語教師と結婚した平井滿壽子ことマス・ケート。台湾では伝染病が流行し、患者の治療に追われる夫・謝達林は、地元学校長の娘を診察した時に、主人から勧められたタバコを吸って思いがけず感染し急死します。留守中に夫を失った杏村は、罪悪感と恥ずかしさから、墓地まで歩いて弔意を表す代わりに、慈善家だった夫の為に地域の人々が長い葬列をつくる中を、妹に付き添われて車で向かいます。葬儀の後に不動産を処分、2人の息子と2人の娘を連れて都市化真っ只中の台北に移り住み、単身東京に戻ってデザインの勉強を続け卒業。1年足らずで悲しみから立ち直り洋服店を開業します。「商売と情報収集は表裏一体」、長身をハイヒールと洋装で包んでダンスホールに出入りする杏村は、台湾省都の社交界で人気者となり台湾のファッショ
ントレンドを牽引。わずか3年で、女性が経営する10軒以上の仕立て屋の中でも15人の従業員を雇うほどに成功します。続いて、台湾総督府がコーヒー栽培を推し進める中で、ブラジル農業移民事業を手掛ける水野龍が売り捌く格安で高品質の「ブラジルコーヒー台湾販売促進本部」を開設。20代で有力な国策協力者として名を揚げます。
「煙草と戦闘機」
日中戦争が勃発、漢口に政府を移し徹底抗戦を続ける蒋介石を追い詰めようと、日本軍が武漢と広東に同時侵攻。「日本国籍」と中国人の親族を持つ台湾人は商魂たくましくしつつ、台湾総督府および日本軍・汪兆銘(南京国民政府)・蒋介石(重慶政府)3つの勢力の間で複雑な立ち回りをします。高雄の裕福な「閩南人」である藍敏(1921-2002)は、台湾の名門校である台北第一女学校を卒業後、台湾総督府議員を務める父・藍高川のすすめで東京女子大学に学び、汪兆銘政権で中将を務める兄・藍家精のコネを利用して上海に渡りセント・ジョンズ大学で政治学を南京大学で国際法を学んだあと、米国戦略情報局と合体してスパイ機関をつくった戴笠と重慶で面会を果たし、台湾を攻撃しないよう説得を試みます。同じ頃、日本軍の通訳また軍需物資の調達に従事していた弟・陳建昌が行方不明になったとして、杏村は台北駐在中華民国総領事に頼んで、商人また資本が香港に逃避し物資移動が停止する広東へ渡ります。そこで、日本軍の特務機関を名乗る小島一雄と日支合弁会社「華南煙草運銷公司」(代表・小島一雄、資本金5万円、広東拱路77、広東煙草の輸移入)、「南華煙草運銷公司」(代表・陳杏村、資本金5万円、広東臺寧路53、煙草輸移入並販売)を設立。満州事変で煙草工場ならびに煙草栽培が大打撃を受け生産量の40%が減少する中でも製造を続ける、欧米商「中国英美煙公司」改め「頣中煙公司」(英米トラスト)から高品質煙草を独占的に仕入ます。まもなく工場を設立した邦商「東洋煙草会社」「東亜煙草会社」「共盛煙草会社」の年生産数100億本は英米トラストの20%に過ぎず、ほとんどが軍需用にまわされ、一般市民用は英米トラスト製を饗食。さらに杏村は、米国種煙草の山東省生産を手掛ける華商「南洋兄弟煙草公司」が営業再開する橋渡しとして、航空戦闘機と航空爆撃機2機の購入代金200万元を日本陸軍に支払い、日本軍の特務機関「吉野代理店」福山芳夫中佐に6000万元を貸し付ける契約を結びます。
「朝鮮人と台湾人」
世界各国の諜報員が情報の網を張り詰める上海のブロードウェイ・マンションに、杏村は事務所を移転します。ここで日本上海占領軍の会議や記者会見が開かれ、ここに「中央阿片専売局(戒煙総局)」が置かれます。経済封鎖を狙ってアメリカ・イギリス・中国・オランダによるABCD日本包囲網が進められ物流が滞る最中、「高貴薬工作」として、アヘン密売工作資金を吸い上げて再配分する方法で日本軍各機関の物資交換財源また戦争物資また中国軍の買収・情報収集にあてられます。日本外務省と日本軍の保障のもと、ケシ栽培を奨励する蒙疆から、南京政権下の長江下流域から、三井財閥とユダヤ系サッスーン財閥を介してイランまたラオスから阿片を密輸し、「満州国通信社」主幹記者・里見甫が中国マフィア「青幇」とつくった密売組織「広済善堂」が供給、華北地域(黄河の中・下流域)では「日本国籍」を有する朝鮮人が、華中地域(長江中流域)や華南地域(嶺南山脈以南)では「日本国籍」を有する台湾人が売り捌きます。南京政府は阿片課税から毎月500~600万ドルの税収、南京地方の特務機関の売り上げは毎月300万ドル以上、1両(約38g)35円で軍に納入された阿片は末端価格で10倍に跳ね上がります。日本兵は淫売窟(売春宿)で阿片による支払いを行い、軍の兵站地(補給地)で労働者に賃金として阿片を支払います。特務機関では交渉また買収費用として「バクダン」と呼ばれる現金と並んで「弁当箱」と称するアルミ箱に入れられた阿片が重宝されます。医療用阿片の栽培奨励地である和歌山県と大阪府、台湾、朝鮮から余剰分の阿片、さらに精製・分離された中毒性の高いモルヒネまたヘロインの密造・密輸・密売が横行。戦争・ゲリラ・クーデター・工作・買収・暗殺・ハイジャック・脅迫・暴力・あらゆる罪悪が白い粉に群がり人々は醜く入り乱れます。
「本省人と外省人」
「私の金のネックレス、翡翠の指輪、プラチナとダイヤモンドの宝飾品はすべて持ち去られた」終戦を迎えた杏村は「反逆罪」の容疑で逮捕、家宅捜索により所有物はすべて押収、上海の提籃橋監獄に収監されます。「中国人」と見なされれば中国国内法「漢奸条例」により極刑に処され得るところ、台湾籍の「日本人」として国際法「戦争罪犯審判条例」による「戦争犯罪」に罪状を変更して起訴されます。「台湾の人々は困難な立場にあり、日本に従う以外に選択肢がなかった」「市民としての義務を果たしたに過ぎない」杏村の弁護人は法廷で主張し無罪判決を求めます。ちょうどその頃、蒋介石が送り込んだ陳儀により中華民国国民政府(国民党政権)の主権下に置かれた台湾では、日本国籍から中華民国籍となった「本省人」が「犬」と呼ぶ日本人に代わって、中国大陸から新たに渡ってきた「豚」「阿山」と呼ぶ「外省人」が行政職や接収した日本企業の財産・上級職を独占、失業者があふれ物価は上がり治安は悪化、「2・28事件」が起こります。専売品の煙草を密輸して私腹を肥やす「外省人(阿山)」取締官が、末端の街頭小売人である台湾人寡婦から密輸タバコを没収し所持金まで取り上げた上に頭を銃で殴りつけ、憤慨して長官公署に集まる群衆に武装部隊が機関銃を乱射。まもなく蒋介石が送り込んだ憲兵2千・陸軍1万1千の米式訓練を受けた近代部隊が米製カービン銃で土着の政治エリートを次々と粛清、1か月余りで約3万人が虐殺されます。「当時、台湾籍に属する日本国民であり、たとえ戦闘機を献上したことや融資契約が事実であっても、国民が国家を支援する義務を果たしていたに過ぎず、犯罪には当たらない」莫大な財産を使って釈放された杏村は「半山(セミ阿山)」として台湾に戻ります。
「台湾バナナと黒い霧」
陳杏村と同じ様に中国大陸から帰って来た「半山(セミ阿山)」らは、米国第7艦隊に台湾海峡を守られ、朝鮮戦争に始まる年間平均1億ドルの米国経済援助「美援」を受ける蒋介石政府の「反共」「愛国」に協力することで政治勢力を拡大していきます。輸入税100%(昭和37/1962年まで輸人差益金80%+関税20%) が課せられ一躍高級果実になり、高値(平均月収1万円、バナナ1房400gで800円)で取引される台湾バナナに目を付けた陳杏村は、蒋介石夫人である宋美齢が主席を務める「中華婦女反共抗俄聯合会」に参加しながらバナナ輸出事業に参入。「大一貿易有限公司」「丸大商事株式会社」「福光貿易株式会社」「福光貿易公司」などを設立します。戦略的輸出品となったバナナ1籠には、基隆や高雄など港の維持費また国内船の補助金を賄うために相当な港湾労働税また輸送費が課せられ、「軍眷住宅籌建運動」(軍人家族のための住宅建設運動)に350万台湾ドル余りを寄付する頃には「台湾区青果輸出業同業公会」会長に就任、陸海空軍の軍事作戦を熱心に支援して表彰を受けたあと、輸出の90%以上を占める日本で「台湾青果輸出業同業公会駐日弁事所」主任となり東京都目黒区に居住します。事業パートナー「日本バナナ輸入組合」理事長・砂田勝次郎の周りに岸信介元首相、川島正次郎自民党副総裁、赤城宗徳自民党政調会長はじめ中村梅吉文相、中村三之丞運輸相、清瀬一郎前衆院議長、田中伊三次衆院副議長、南条徳男、神田博、青木一男、増田甲子七、石田博英、松田竹千代、江崎真澄、吉武恵市、河野洋平ら前・元大臣のほか、砂田重民、小泉純也、大竹平八、船田中ら自民党国会議員多数と秘書ら家族らが集まり、非常に多くの幽霊会社を含む660数社のバナナ会社が設立されます。
「...陳杏村氏は、台湾バナナ輸出業者がつくっている連合組織である、ただいま申しました輸出同業公会の理事長もやったことがある。すなわち、台湾バナナ輸出業界の大物なんです、この人は。このことは決して知らないということはないと思いますが、いまの説明には知って言わなかったか知らないで言わなかったかわかりませんが、それが一点。二点は、この公会は、かつて日本が台湾バナナ輸入を自由化した当時から、国民政府によって輸出総量の五〇%の割り当てを与えられて、わが国の国内バナナ輸入業者に対して絶大な支配力を持っておる、こういう人が陳杏村。三つ目、陳杏村氏の令息に当たる人で謝哲義と謝哲信、こういう人がおります。今度はむすこさんのことですが、それぞれ砂田という日本人商社名をつけた多数のバナナ輸入会社を実質的に支配し、まかされております。この陳杏村氏のむすこさん二人が。たとえば、これは例として、謝哲信さんが取り締まっている会社は三興商事とか、いま言いました砂田産業その他です。謝哲義さんが取締役のポストにある会社としては福光貿易その他です。まだまだ数多くあります。それが三番目の関係です。四番目、この駐日弁事処は、日本の業者がかつて輸入バナナ一かごに何百円というリベートを持参しなければ台湾バナナを輸入しない、そういうようなことでリベートを取って、外為法違反容疑で警察から取り調べを受けた事件がある、こういうような点もはっきりしております。」
「...帳簿に載っかってない——当然帳簿に載っけるばかはないと思う。堂々と為替管理法違反をやっていることを帳簿に載っけるばかはいないと思います。だけれども、先ほどお話ししましたように、陳杏村という人は非常に大物です。駐日華僑の中心ですし、それからまた、この輸入に対してリベートももらっている。一ところにまとまって集まっている。こういうような大立て者。また、日本の政界にも相当の結びつきがある。日本の警察当局が、リストだけを見て、載っかってないからこれは起訴できないという、そんな無能力じゃないと思うんです。こんな幼稚園みたいなことの捜査で起訴できないと、こんなことではなくて、変な言い方ですが、何かそこにあって起訴できなかったという事実でもあるんじゃないか、こう思うんですけれども、...」
「中華民国と中華人民共和国」
冬季温度の高い台中・台南で栽培され、台湾で食べるよりも内地で食べる方が色付きも味も良くなるように開発され(炭団・ガス熱・電熱による追熟加工法)、台南の刺竹を原料とする6方縄掛けの竹篭(底径45cm・上部径53cm・高さ50cm・蓋径60cm)1籠45Kgに2~3kg上積みされて出荷される台湾バナナ(香蕉)は、汽車で基隆港また高雄港まで送られ、内台間の定期船で4~ 5日間で輸送され、戦前の昭和12年頃には360万籠を記録(1人当りの年間バナナ消費量は2kg)、戦後に台風や旱魃また害虫を乗り越え100万篭にようやく達したのは昭和35/1960年。同年、南米エクアドルより23日間を航海して大味の巨大バナナであるグロー・ミセル(Gros Michel)全房30kgがポリエチレン袋に入れられ冷蔵船で横浜港に荷揚げされます。業者や商社らが大騒ぎで大量輸入し、加工設備不足による価格低落で大損害を被っている間に、昭和37/1962年から差益金徴収が廃止され関税も70%~30%に漸減された台湾バナナは一挙に大増産に乗り出して昭和39/1965年には400万籠(18万トン、小売価格1kg228円)、昭和40年と41年には700万籠(33万トン、小売価格1kg258円)、昭和42/1968年には870万籠(39万トン、小売価格1kg239円)を日本へ送り込み、外貨収入の20~30%を占めるようになります。日本輸出割当また追加枠をめぐる高雄果物協同組合会長・呉振瑞との闘争は、9:1(1950年~)、3:1(1956年~)、5:5(1963年~)、米国梱包会社の参入を拒む呉振瑞の「金盤金碗案」「剝蕉案」(報道機関によるバナナ汚職でっちあげ事件)による逮捕・服役を経て、南米産グロー・ミセル(Gros Michel)、フィリピン産ジャイアント・キャベンディッシュ(Giant Cavendish)、中米産バレリー・バナナ (Valery banana = Chiquita)入り乱れ、台湾バナナの黄金時代は終焉。「米中共同宣言」(1972年)に向かう動きを受け国連を脱退した台湾に戻った杏村は、67歳で逝去します。第一次経済建設計画「農業で工業を養い、工業で農業を発展させる」、世界初の「輸出加工区」(自由貿易工業特区)を経て、台湾「工業技術研究院」内に「電子工業研究センター」が設立され、米国RCA社から技術移転を受けたIC(集積回路)試作工場の製造ラインが完成した年でした。
「台湾国籍と日本国籍」
40年後、モデルからTV司会者を経て政治家に転身した孫娘・蓮舫が民進党代表選挙に立候補する際、17歳で日本国籍を取得した後も中華民国籍を放棄していなかった「二重国籍問題」について、それまでの矛盾した発言が日本国有権者の不信を招きます。「父が台湾人、母が日本人。19歳のとき、兄弟の就職もあって日本に帰化した。東京で生まれ育った身にとって暮らしに変化なかったけれど、赤いパスポートになるのがいやで、寂しかった。父や母を通して触れた台湾、アジア。自分の中のアイデンティティーは「日本」とは違うと感じる。」(1992年6月25日朝日新聞夕刊)「今、日本人でいるのは、それが都合がいいからです。日本のパスポートは、あくまで外国に行きやすいからというだけのもの。私には、それ以上の意味はありません。いつのことになるかわかりませんが、いずれ台湾籍に戻そうと思っています」(『ジョイフル』第22巻第8号 近畿日本ツーリスト1995年)「私は中国人の父と日本人の母の間に生まれたんですが、父親が日本人として子どもを育てたので日本のことしか知らないし、日本語しか話せない。それが自分の中でコンプレックスになっていました。だから自分の国籍は台湾なんですが、父のいた大陸というものを一度この目で見てみたい、言葉を覚えたいと考えていました。」(CREA 1997年2月号)
-北埔事件 臺灣原住民族事典
-「台湾人四百年史 : 秘められた植民地解放の一断面」史明 著 音羽書房1962
-「台湾史研究 (11)」台湾史研究会1995-03
-「台湾史研究 (13)」台湾史研究会1997-03
-「中国甘蔗糖業の展開 (アジア経済調査研究双書 ; 第129集)」戴国煇 著 アジア経済研究所1967
-「台湾人物誌」大園市蔵 編 谷沢書店1916
-「新台湾の人々」宮川次郎 著 拓殖通信社大正15 1926年
-「台湾の官民:評論」橋本白水 著 台湾案内社大正8
-「日本弁護士協会録事 (164)」日本弁護士協会1912-05-28
-「台湾大年表」台湾経世新報社 編 台湾経世新報社1925.6
-「官報 1918年08月13日」大蔵省印刷局 [編] (日本マイクロ写真 , 大正7年)
-「臺日樟脳政策史の研究」程大學 著1996
-「征台の役 : 明治七年 兵士木山恒之助」浦恒一 著 浦恒一1990
-「鷲巣敦哉著作集 2」鷲巣敦哉 著 緑蔭書房2000.12
-「台湾人士鑑 昭和12年版」台湾新民報社 編 湘南堂書店, 1986.6
-「洋装通」マス・ケート 四六書院 昭和5年
-「藍敏先生訪問紀錄」許雪姬 曾金蘭 1995
-「全支商工名鑑 昭和18年度」中国通信社, 1943
-「葉煙草 (支那商品叢書 ; 第14輯) (上海満鉄調査資料 ; 第29編)」南満洲鉄道上海事務所, 1939
-「日中アヘン戦争」江口圭一 著 岩波書店, 1988.7
-「戦後秘史 1 (崩壊の歯車)」大森実 著 講談社1975
-「見えざる政府 : 児玉誉士夫とその黒の人脈」竹森久朝 著 白石書店1976
-「天皇と日本の繁栄 : 世界は日本によって救われるか」山蔭基央 著 マネジメント社1989.6
-「台湾終戦秘史 : 日本植民地時代とその終焉」富沢繁 著 いずみ出版, 1984.6
-「バナナの国・台湾」河野孝行 著 食品市場新聞社, 1966
-劉淑靚,《臺日蕉貿網絡與台灣的經濟菁英(1945-1971)》,台北:稻鄉,2001
-「台湾青年 (28)」台湾独立建国聯盟日本本部1963-03
-「バナナ年間統計 1969年」日本バナナ輸入組合 1970
-「戦前戦時における台湾農業技術の発達 [第2] (果樹) 」農林水産技術会議事務局熱帯農業研究管理室, 1968
-「台湾の四十年 : 国家経済建設のグランドデザイン 上下」高希均, 李誠 編, 小林幹夫, 塚越敏彦 訳 連合出版1993.3
-臺灣半導體起源 向RCA取經 發展臺灣積體電路
-許雪姫,〈去奴化、趨祖國化下的書寫——以戰後臺灣人物傳記為例〉,《師大臺灣史學報》第4期(2012年12月)
-「離散と回帰「満洲国」の台湾人の記録」許雪姫 著 東方書店2021年
-"第052回国会 農林水産委員会 第4号"
-“【蓮舫家族祕史】台裔蓮舫祖母陳杏村 台中日三地奇女子(一)” 新新聞2017-06-15
【蓮舫家族祕史】台裔蓮舫祖母陳杏村 台中日三地奇女子(二)”新新聞2017-06-22
-【蓮舫家族祕史】台裔蓮舫祖母陳杏村 台中日三地奇女子(三)”新新聞2017-06-29

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