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エッセイ 『関与の隙』

私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。

結論を先に述べると、
「相対的に見て関与の隙がないから」ということである。

過去に、長期的に仲良くしていた人に、
「あやさんの書いてることに理解できない部分があるので、コメントすることを控えようと思います」

と伝えられて、私は「私が書いている内容はかなりマニアックな時もあるので、わからないことがあれば気軽に質問してくださいね」と言ったが、それでも私と話すことをやめてしまった人がいる。

また、他の方には「あやさんと映画の話をするの怖いです」と伝えられたこともある。

私は、各々が精通している分野というのは人それぞれなので、会話する時は、相手がついてこれないことは言わないように調整するのがマナーであると思うが、

例えば、相手が映画が好きだとしても、私(筆者)の方が映画に詳しいと相手が思った場合、私と映画の話をすることは「怖い」と思ったり「遠慮」する気持ちが出てくることもあるのかもしれない。

この、「相手が合わせてくれるかに限らず、相手の本来的なレベルに合わせることができないと感じるため会話をすることができない」という例で思いつくのは、英会話である。

日本人は、英語の読み書きの試験などは得意であるが、対人の英会話は極端に苦手であると言われていて、私もそう思う。

その一番大きな理由として、「自分の英会話力(会話における文法や発音や流暢さや相手の言っていることの理解や自分の表現力など)」に自信がないというものだと思う。

特に、英語ネイティブの人と話すことを極端に恐れる日本人は多い。それは、「相手の英会話のレベルに合わせることができない」と感じるためであると思う。

当然であるが、英語ネイティブの人にも「気遣い」というものがあるので、拙い英会話で話してもそのレベルに合わせてくれる人も多いが、そういうことは関係なく、ただ、相手の本来的なレベルに合わせることができないため怖い、という思考になることが多いようである。

私は、大学で英語を学んでいたのであるが、この点(自分が相手のレベルに合わせることができるかどうか)の恐怖心のネジが飛んでいるのか図々しさがあるようであり、外国人の先生にまとわりついて話しかけまくり、最終的に公園で先生の趣味である太極拳を教えてもらっていた(?)。

留学に行った時も、もちろん、英語ネイティブの人に全く英語力など及ばず何を言っているかわからないことも多いが、コミュニケーションに支障が出るほどわからないところは質問をして現地民と会話をしていたが、一緒の大学から行った人は話すことができない人も多かった。

上記では、英会話や、趣味の話をしたが、これが全体的な知性の話にも及ぶのではないかということが今回の論点である。

過去に何度も書いたが、私は、年々、作品消化や創作や思索やコミュニケーションで知性が上がるほど、人から怖がれている気がする。

そして、これも過去に書いたが、この例として考えられるのは、私が、好きな映画監督のトークイベントに行った時の話である。

その映画監督は、イベント前に、会場のフードコーナー兼待合室で、おそらくきてくれたファンの人たちと話をするために部屋のど真ん中で一人でポツンと座っていたが、誰もそこに近寄ろうとしていなかった。

そこに集まっている人たちは、もちろん、ほとんど全員がその監督のファンのはずであるが、明らかに監督を「怖がって」いた(または強度高く「遠慮」していた)。

これは、つまり、監督に話しかけても、監督の本来的な会話のレベルについていけないという自覚があるため、話しかけることを恐れているということだと思う。

そして、私は例のごとく図々しく監督に話しかけると、相手は喜んで会話しようとしてくれて、30分ほど監督を独占して会話をしたのであるが、その間も誰も話しかけにこなかった。

以上は、まだ相手と親しくなる前の話であるが、ある程度親しくなってからであっても、もし相手が私の本来的な会話のレベルについていける自信がなくなってくると、私と接すること自体が怖くなるという思考が起きている可能性があると思った。

もちろん、私が相手と会話をするときに、相手のついてこれないマニアックな話を連発していれば、相手は引いてしまい接することを止めてしまうというということであればわかるが、

例えば、さあこれから恋愛としてもう付き合うかどうかというようなくらいまで仲良くなっている相手でも、私が対応を変えていなくても徐々に引いていってしまう人が年々多い。

でも、話せば話すほど、私とポールの距離がどんどん離れて行く感覚があった。それは、本当に単純極まりない理由で、「言語の壁」というやつだ。私は、洋画をたくさん観て来たし、留学に来るまでの数ヶ月、オンライン英会話学習を結構本気で取り組んだ。画面越しに毎週会っていたアメリカ人の30後半女性の先生も、始めた頃に比べたらリスニングもスピーキングもすごく伸びたね、って言ってくれて留学に送り出してくれたので自信になっていた。そうすることで身についた英語力で、友達やボーイフレンドを作るんだと思っていた。でも、本当に仲良くなるには細かい意思疎通が必要なのだとわかった。ホームステイ仲間のナディアとはそれなりに仲良くなれていたので、慢心してデートに行ったところがあった。友達にはなれる。でも、友達と彼氏の壁は思ったより高かったということだ。
ポールは、「次はどこに行こうか?」って、帰り際に言ってくれたけど、
その時にはすでに、私はこの問題にショックを受けていたので、その言葉も、本当は大して楽しくなかったけどサービスで言ってくれているように聞こえてしまった。普通にもっと深い会話とか、凝ったジョークを言い合える人の方が楽しいはずだと思ってしまった。

小説『異国情緒も宵のうち』

ここまで書いて、私は、以上の小説の引用箇所で、「相手のレベルについていけない」と感じた時の心理を描いたことがあることを思い出した。

英語圏に留学に行った女の子が、現地の白人男性とデートをして恋愛に取り組もうとしている時のシーンである。

これは英会話力の差異による意思疎通問題であるが、相手が自分に合わせてくれていたとしても、日常会話においてであっても、相手の本来的なレベルに合わせることができない場合、自分は真っ当に相手と「関わることができない」と感じるということである。

このあと一旦、この女の子は相手と関わることをやめてしまうが、それは「遠慮」というよりも、真っ当に相手と関わることできないということを知ったショックからである。

つまり、最低限コミュニケーションが成り立っていたとしても、相手に加減してもらっていること自体がもうキツいのではないかということである。それは、この小説の女の子心理を当てはめると、相手と対等に関わることができないと感じるためである。

これは、過去にこの問題について考えてきた時に出たワードで言うと「相互関与が成り立たない」というものである。

親しくしている相手に対して、対等に渡り合える部分や、優位に立てる部分がないと、相手に対して「関与」することができず、その「関与」の実感がないと真っ当に相手と関わっている気がせず、またプライドも持たないという説である。

だから香奈子やミサキより女としてランクが上だとか、正常だとか、そういうことではなかった。病気があったり、他人には言えない仕事をした経験のある女をわたしが選ぶのは、そのほうが関与しやすくて、関与できるという感覚を持てるからではないのかと、そういうことを考えてしまったのだ。アベマチコに魅力を感じなくなったのは、女子アナという選ばれた職業の女には関与できる部分が少ないと思ったからではないのか。
だが、知り合ったころ、香奈子の病気についてはまだ知らなかった。普通とか正常とか、そんなものは定義できない。そのことはよくわかっている。だが、関与の余地がない女に対してやがて興味を失う、それはいつものことだった。自立していないという意味ではない。ただ、どういうわけか、危ういバランスで生きている女を好きになってしまう。本当にその女が好きなのか、関与できるから好きになるのか。どうかしてるぞ、答えなんかあるわけがないじゃないか、わたしは自分自身にそう言い聞かせ、グラスに残った日本酒を飲み干して、湧いてくる疑問を振り払おうとした。

村上龍『心はあなたのもとに』

以上の引用箇所は、村上龍の小説『心はあなたのもとに』において、主人公の男性が、それまで付き合っていた色々と完璧な女子アナよりも、新しく出会った、持病を抱えていて、生活にも困っている女性の方をより好きになった時の心理描写である。

この場合、主人公の男性は、生活に困っている女性を精神的にも経済的にも「助ける」ことができる、つまり、切実に彼女の人生に関与(影響)できるため、相手と真っ当に関わっているという実感を得ることができるため人間関係の充実感を感じるということであると思う。

これは、私が過去に書いた、「メンヘラはモテる説」に通ずると思う。精神が安定していて、精神的に他人に頼ることが少ない人よりも、精神的に脆く不安定で、すぐに他人に精神的に頼ったり迷惑をかけてしまう人の方が、相手はその人を「助ける」ことができるので、つまり、関与することができるので関係性の充実感を感じやすくモテるというものである。

私は、私の友人たちに比べると、割と精神的に安定していて、他人に精神的に頼ることは少ないと思うが、失恋時などに精神的に余裕がなくなり、話を色々な人に聞いてもらい、強度高く人に「頼って」いるときは、親しくしてくれる人が一気に増える印象である。

そして、私が、精神的な安定を取り戻してくる頃になると、さーっと周りから人が一気にいなくなることが多い。
それは、その人たちが、私に切実に関与することができなくなったからではないか。

それは、引用文のように、私に関与できないと関わっていても「面白くない(充実感がない)」ということかもしれないし、関与できない対象と親しくすることは「怖い」と思うためかもしれない。

なので、これらを考慮すると、問題は会話のレベルだけの話ではないこともわかる。つまり、何かしら、他人に「関与の隙」を提示することができれば、相手は、私と関わることに興味を持つことができたり、また、怖がったり、プライドを脅かされたりしない可能性があると思った。

しかし、私は、基本的にはメンヘラ状態ではなく、知り合いに比べるとかなり精神的に安定している方なので、メンヘラ状態であるという演技をするわけにもいかないし、養ってくれる人か、私より精神的に大人な人か、そもそも私との会話を怖がらない人などでないと、私と親しくしてくれない可能性があると思った。

確かに、私の友人たちは、精神的に不安定な人が多く、他人にも迷惑をかけまくり関与の隙がダダ漏れなので、そういう意味で相互関与が成り立つ、関わりやすい人同士で付き合ったり、親しくしたりしている印象である。つまり、一緒にいることで、精神的な助け合いが成り立っているということである。

「弱みを見せた方がいい」と人から言われたこともある。思いつく私の一番の弱みは、近年、自律神経系の影響か体調が不安定なことであるが、確かに、体調が不安定になる可能性がある時に友人や恋愛に発展しそうな人と会うことはない。

それは、相手に迷惑をかけてしまう可能性があるため、遠慮している部分もあるし、私が相手に「頼る気がない」ということでもあると思う。

それは、過去にも書いたが、私は自分より精神的に大人であると思う相手にしか強度高く精神的に甘える(頼る)ことができないので、

結局、私が相手に甘えることができないということは、それが、私の相手に対しての心理的な距離なのだと思うし、それが、相手の私に対する関与の不可能性を作っていて、それを受けて相手が私から「距離を取られている」「自分とまともに関わる気がない」「自分のことを受容(受け入れていない)していない」と感じ取って関わることを諦める場合もあるように思った。

つまり、ある程度近い関係性の距離まで来ても、一定ラインからは一向に縮まらない距離を相手が感じ取るのではないかということである。

私が相手に迷惑をかけているわけでもないし、関係性の初期で距離が縮まりきらないことの何が問題なのか分からなかったが、相手は私から「認められていない」「受け入れられていない」と感じるのではないかと思った。

これは、私が人に対して「上から甘えることができない(自分より精神的に幼いと感じる人に精神的に頼れない)」という難儀な性格からきている問題も大きい可能性があると思った。

それは、自分より幼稚な人に関与されたくないというプライドの高さからくるものなのか、あまり人のことを信用していないある種の臆病さがあるからなのか、以前のエッセイで書いたように相手の軽薄さに影響されたくないからなのか、自分でもよくわからない。

確かに、自分から見てあまりにマナーが悪く気遣いがない(幼稚な)相手には、「なんだ、子どもじゃん、、頼れないな、、」と思ってしまって、そういう要素を「可愛さ」として捉えることができず、心理的に距離を取る要素として見てしまっているところはあると思う。

この「受け入れなさ」を見て、友人から「あなたは悪くないけど年々"問題児"になってきている」と伝えられたのかもしれない(その友人はものすごくマナーが悪いのでマナー感覚の基準が違いすぎるというのもあるが)。

つまりそういう距離の取り方が、私が相手の甘え(迷惑)を拒否しているように見えて、相対的に見て、相手が私に対して迷惑をかけずに関わる自信がないと感じると接することが怖くなるということかもしれない。

まとめると、相手が私のダメさ(迷惑)を許容する部分、つまり、関与の隙ダダ漏れな部分がある程度の強度であるとか、ここなら私に対して対等に渡り合えるから気後れしなくて済むとか、ここなら上回っているからナメれる(自信を持てる)というような精神的な余裕が持てるとか、私から受け入れられていて大概の迷惑は全部許してもらえるという確信があるとかでないと、親しく関わることはキツいということかもしれない。


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