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エッセイ 『存在の耐えがたい重さ』

私は、過去のエッセイで、私が年々、友人関係であっても恋愛関係であっても、人と関係性の距離が近づくほど怖がられて、徐々に距離を取られてしまうことの理由について考えてきたが、その解像度が上がったので書こうと思う。

結論を先に述べると、
「私の人に対する「尊重心」を怖がられているのではないか」ということである。

私は、アート系の映画や純文学作品を年々好んでいて、特にヒューマンドラマ作品においては、「人の存在の尊重」というものが一般的なものとは違い、宗教的な強度である場合も多い。

そして、私が、アート系の作品が好きな理由の一つがおそらく、強度高く人の存在の尊重をする温かみである。

私は、そういう作品の、他人の存在の尊重を強度高くする精神性に「すがって」生きていると言ってもいい。

それはどういうことかというと、他人を尊重する精神性に作品で触れるということは、尊重という概念そのものに触れることになるので、そこで尊重されるのは作中のキャラクターだけではなく、作品に触れている私自身にもなり得る。
なので、私に直接向けられたものでなくても、作品が持つ「尊重心」自体にすがっているのである。

そして、「尊重」というものは「承認」という感覚を与えてくれる。多くの人が血眼になって求めている「承認」とは何かというと、自分は存在してここにいてもいいという「存在を認められる」という感覚のことだと思う。

以前、ある作家さんが、「私にとって人生というのは、自分のことを許し切るまでの旅であって、書くことはそのために必要なことである」という旨の発言していた。

どんなにダメダメでも、至らない部分があっても、人の役に立てなくても、自分はここにいてもいいと「自分の存在を許す(認める)」ということをやり切るまでの旅という目的が、物書きをしている1番のモチベーションであるという旨の発言をしていた。

自分自身の行動や、多くの人を見ていて、特に大人になるほど、この「自己承認」が基本的な人間の行動原理であるように感じる。

そのため、私は、単にアート作品をエンタメ的に楽しんでいるだけではなく、自己承認をするためにアート作品に触れたり、自分で執筆したりしている可能性があると思った。

これは、本質的には、友達や、恋人や、家族から愛されている実感をしたり、SNSでいいねをもらったり、仕事や表現で認められることで感じる「承認」と同じであると思うが、アート作品は、その承認の深度が宗教的なレベルであることがあるので、

作品の精神性を理解して信頼した場合、読者や視聴者は強度の高い「承認」の感覚を得ることができる。つまり、作品を通して、自己承認できると言ってもいい。

これは、作品に触れて、作品に込められた精神性を感覚的に理解しないと得ることができない現象なので、私は昨年、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を読了した瞬間に、訳も分からず泣き崩れたが、あれは「承認」の感覚だったのだと思う。

この作品は、今まで何度も読んできたが、感覚的に理解できたのは昨年が初めてである。

私がよく話題に出す、山中遥子監督の映画『ナミビアの砂漠』を劇場で観終わった瞬間に訳がわからない感覚に襲われて、自然に泣いていたが、あれも「承認」の感覚なのだと思う。

つまりこの作品から自分の存在を「尊重」された、認めてもらったという感覚だと思う。
これはつまり、映画を観て、これだけ他人を尊重できる人がいるということを確認すること自体が救いになっているということであると思うし、実際的な尊重・承認の「効果」が発生するので、単なる「視聴」ではなくもはや「体験」だった。

私はこの2作品で、効果として、アート作品が「できること」の凄みを明確に発見した。

つまり私は、年々作品の持つ「尊重心」に取り憑かれているということであり、上記の効果を生み出すために自分で執筆するときも意識していることだと思う。

この効果を生むために必要なのは、基本的には、キャラクターの気持ちや姿の理解と、作品全体で示す倫理的価値観であると思う。多くのアート作品において、キャラクターの姿、言動、心理というのは、善悪でジャッジされない。

ジャッジされない場合、どんな悪行をしても邪悪さを持っていても許されるべきという価値観をアート作品は持っているのかというと、そういうことではないと思うが、キャラクターが「なぜそういう人間なのか?」ということを繊細に深く見つめて理解していく過程で「慈しみや許容の念」が出るように描くということがアート作品の一つの妙であると思う。

そして、キャラクターのことや、作品に込められた精神性を感覚的に理解できた時に、その行為を通して、受け手は作品から尊重されるのだと思う。

これは、宗教に入るだけで自分を尊重できるようになるわけではなく、宗教の教えを学んでいき最終的に、キリスト教であれば聖書、仏教であれば経典の内容や精神性を感覚的に理解して、状態として精神性を身につけることと過程は同じであると思う。

私は無宗教なので明確にはわからないが、荒唐無稽な教えを持つものもあるカルト的宗教とアートやメジャーな宗教の違いは、真っ当な尊重の価値観や精神性の学びがあるという点かもしれないと思った。

そして、私は幼い頃から「軽薄さ」を強度高く持つ人、つまり他人を尊重する精神性をあまり持っていない人が苦手なのであるが、それは人格(心)の存在感を感じないからだと思う。

それはつまり、相手が、私や他人の存在を真っ当に「発見し認めていない」と感覚的に感じるということだと思う。

一言に「軽薄」と言っても、強度は様々であると思う。例えば、人を殺しても何とも思わない、人をイジメても何とも思わない、人に暴言を吐いても何とも思わない、人を雑に扱っても何とも思わない(約束を守らない、メリットのために騙す、責任から逃げる、嘘をつく、人のせいにする、マウントを取るなど)など様々な強度があると思う。

これらはすべて、他人を尊重していない心理・言動であるが、どの強度までいくと、良心の呵責が起こるのかというのは軽薄さの強度に依存すると思う。

もちろん一番頻度高く遭遇するのは、「人を雑に扱っても何とも思わない」という例であるが、雑に扱ってくる人というのは、まずもちろん自分の感覚的にはありえないことをしてくるため気分が悪いため苦手であるというのはあるが、もう一つ苦手な理由として、上記したように「こちらの存在を見ていない」と感じるということである。

言葉を変えると、こちらに「人格」や「心」があることを感覚的に認知していないと感じるということである。

逆に言うと、私は、相手が他人の「人格」や「心」の存在を認知しているという確認ができた時に、相手の人格や心の存在を認知できるのだと思う。

なので、軽薄さの強度が高い人ほど、人格を持たないロボットのように感じて怖いということである。

そして、人の存在に対する「尊重心」とは、「理性」のことであると思う。

なので、理性をあまり持たない人の目は、光りが灯っていないように見える。

最近行ったバーの店員さんに、(客は三人だけで)私が目の前にいるのに、私を1時間放置して、常連の人とだけ積極的に話して、私が話しかけてもまともに聞かず適当にあしらうという異様に気遣いに欠ける軽薄な対応をされたが(友人にも一定数いる軽薄さを持つタイプで、おそらく悪気はない)、

その人の目を間近で観察してみると、目がイっている、または、目がぶっ飛んでいるという感じがした。

私は小学生くらいから、目がぶっ飛んでいる人を「この人は目がぶっ飛んでいる」と認識することができた。つまり、顔を見たら、その人が心ない軽薄さを持っていることが理解できるということである。

他人のことを尊重する精神性がない状態、というのは、つまり理性を強度高く持っていないということであると思う。

映画作品などで描かれているのを見たことがあるが、他人の存在を発見し認めることができていない状態(他人を尊重しない軽薄な状態)と、カルト的宗教に洗脳されて、思考の主体性を乗っ取られている人格の状態や目つきは似ていると思う。

綿谷りさ原作の映画『ひらいて』において、他人の気持ちを顧みず自分の欲求だけを満たすために行動する主人公の女の子は、

高校のクラスメイトの男子と付き合うために、その男子とその人の彼女を騙して、二人を別れさせて付き合おうとするが、その男子に「瞳が薄暗い、自分のことしか考えていない人の顔だ、一度でいいから俺の目を見て笑いかけてみろよ」という旨のことを言われてしまう。

そして、最終的に、その男子やその彼女の人間性に触れていく過程で、薄暗かった目に光が灯り、「ハッ」と何かに気づく瞬間が描かれる。
それはつまり、主人公が、他者の心(人格)の存在を発見し、他者への尊重心が芽生えて「理性」を獲得する瞬間であると思う。

また、映画作品において、カルト宗教に洗脳された人が「おい、目を覚ませ!」と叫ばれて「ハッ」と我に返って「目に光が灯る」、つまり正気を取り戻す瞬間が描かれているのを見たことがあるが、これも似たプロセスであると思う。

この場合は、「洗脳」なので、他者に思考をコントロールされて、思考の主体性を奪われている状態から、思考の主体性を取り戻すということであると思うが、この場合も、「理性を失っている状態から、理性を獲得する過程」を描いているものであると思う。

つまり、「薄暗くなっていた目に光が灯る」という演出は、「目に理性が灯る」ということだと思う。

これは、目の状態だけの話ではなく、人格の状態の変化である。

つまり、軽薄な状態というのは、理性的ではなく、本能的な状態が優位であるということかもしれないと思った。つまり、道理を感覚的に理解していない状態ということである。

おそらくであるが、他人の心の存在が見えていないということは、他人のことがゲームのキャラクター的に見えているということかもしれない。ゲームのキャラであれば、騙そうが、裏切ろうが、雑に扱おうが心理的な抵抗は生まれないはずである。

そして、私は、過去にも書いたが、年々、周りの人々をゲームのキャラクター的に感じ始めている。これは、私が以前より軽薄になったのではなく、おそらく、他人をゲームのキャラ的にしか見ていない人の「心の存在」を発見できないため、相手の存在を発見できない、という逆パターンが起きているということだと思う。

これは、軽薄な言動のことを「心ない言動」と表現することがあると思うが、私はやはり「理性」の存在を「人格の存在感」として感じているということだと思う。

Vernunftという語は、ドイツ語では、この語だけで「理性」も「分別」も「思考力」も「思慮」も「常識」も「正気」も意味するということなのです。

https://www.toibito.com/toibito/articles/理性という語

「理性」の定義について調べていると、引用箇所の説明文を見つけたが、「理性」と「正気」が近いものとして並べられていることで、私が今回説明しようとしている、(比喩的な意味でも)目がぶっ飛んでる状態(または瞳が薄暗い状態)から「正気を取り戻す」ことを「理性を取り戻す(獲得する)」と上記したことは間違っていないように思える。

私の友人で一番軽薄な人は、低姿勢ではあるが、ラインで平気でこちらの質問や話題をスルーして会話を終わらせたり、ご飯を食べにいく約束をしている集合時間に来ないので連絡すると「お腹が空いたから」という理由で一人で別のご飯屋さんで食事をしていたり、マッチングアプリで常に異性を漁り続け、同時進行で何人も付き合い、付き合っていても飽きたらすぐに捨てるということをし続けている。

軽薄なことのメリットとしては、見た感じでは世の中には軽薄な人の方が圧倒的に多いので、同種として気楽に関われるという理由で、軽薄な方がモテるということである。
また、経営者などは、他人への尊重心がないサイコパス気質の人の方が、情に左右されず意思決定ができるために向いているとも言われている。

デメリットとしては、軽薄な人、つまり、他人のことを尊重しない人は、自分のことも尊重できないので、自己肯定感が低く、アイデンティティクラシスを起こし続けて精神的に病んでしまうことが多いことである。

上記のめちゃくちゃ軽薄な友人も、自己肯定感が低く病んでいて、一時期ストロングゼロのロング缶を6本毎日飲み続けて、アルコール中毒で病院にかかっていた。

また、他人の存在を尊重することが「精神年齢、大人性、精神的成熟度」なのか?というと少しわからない部分があると思う。

なぜなら、学生の時は真心があり、他人を尊重し気遣っていた知り合いが、社会に出て年齢的には大人になるほど、どんどんと軽薄になり、他人を尊重しなくなり、ある種の幼稚性に見える要素を帯びていくことはたくさん見てきたからである。

それは、社会に出て、他人を尊重しない大人たちと触れ合う過程で、影響されて軽薄になったのか、またはそういう大人たちに尊重されないことで、文字通り「心が死んでいったのか」(スレて軽薄になる的な?スレてる方が大人っぽいって感じることもあるよね)。

例えば、家庭環境が複雑で、真っ当に愛情を受けずにに育った人は、他人に対して尊重のスタンスを見せることができない軽薄な人格になることもあると思うが、それと同じような現象が社会に出てからも起きているのかもしれない。

また、軽薄ではないこと、つまり、他人の存在を重んじることは、人によってはデメリットになる場合もあるように思う。
つまり、人の存在を重んじすぎると、人間関係において傷付きすぎるということである。

ゲームのキャラクターが相手であれば、相手から軽く雑に扱われても、酷い言動をされても、悪意を向けられても、あまり傷付かないと思う。
そういうことであれば、一種の自己防衛として、あえて軽薄になっている場合もあるのかもしれないと思った。

精神が強い人ばかりではないので、ある種の人にとっては、存在とは耐え難い重さなのかもしれない。

私は上記したように、自分と他人の存在の重さを感覚的に理解することで、自分のアイデンティティを保障している、つまり、自分を守っているところがあるが、

これは同時に、人間関係においてめちゃくちゃ傷付くということでもある。

ただ、私は、精神的な痛みと向き合うことに対してかなり強い方であると色々な人を見ていて思う。例えば、アート系のヒューマンドラマを知り合いに勧めたところ「自分は、そういう映画は「痛すぎて」苦しくなるので観れない」と言っていた。

確かに、アート系の映画や、純文学作品などは特に、人の精神的な痛みと真っ向から向き合うものが多いので、その痛みと向き合うことは、自分の精神的な傷と照らし合わせ向き合う作業でもある。

そして、過去にも書いたが、私は、相手に振られるかもしれない、嫌われるかもしれないという理由で、友人関係や恋愛関係に発展してきた他人と向き合うことから逃げたことがない。

しかし、私が関わってきた人は、他人と関係性の距離を縮めることをものすごく怖がる人が大多数である。

「相手を受け入れた上で、相手から嫌われてしまうことに耐えられないので、その可能性が高い人とは好意があっても親しくなれない」と発言している人もいた。
この発言は、軽薄な人は他人を軽く扱うことを厭わないため、何も怖がっていないように見える時もあるので意外であった。

私にとっては、作品において、精神的な痛みと向き合うことは、作品が持つ精神性に包容されながらの作業であるので、むしろ自分が持つ苦しさや痛みを理解され、認められ、包容されているような安心感があり、苦痛ではなく癒しであることも多い。

そうやって癒しによって麻痺させながら痛みと向き合うことで、痛みと向き合うこと自体にそこまで抵抗がなくなったのかもしれない。

そのため、人間関係において相手から嫌なことをされたり、否定されてしまうことを、私のほとんどの知り合いよりは怖れていないように思う(痛みに強いというより、単純に、他人に簡単に人格否定されない自信があるだけ説もある)。

そして、私は、年々軽薄ではない方に突き進んでいると思うが、私の「尊重心」自体を、相対的に見て私より軽薄な人には怖がれている可能性もある。

それは、他人を尊重できない言動をした時に、私から軽蔑されたり、非難されたり、つまり、否定されることを怖れているからかもしれないし、

また、人間とは「鏡」なので、私と親しくなり向き合うことで、相手が軽薄な人とばかり親しくしている場合、軽薄な人と向き合う時とは違う、新しい自分と向き合うことになると思う。

なので、安易に私を受け入れて、私に影響されてある程度人の存在が重い世界に来た場合、つまり「心を入れてしまうと」痛みが増してしまうので、上記したように、人の存在の重さに耐えられないという人もいるのかもしれないと思った。

なぜなら、尊重心とはやはり、人の存在の重さを認めるということだからである。

私は何も、真面目ぶって他人を尊重したり、作品で人の痛みと向き合っているわけではなく、その方が理解や共感による癒しを得ることができたり、他人や自分自身に尊重されることで自分が精神的に楽でいれるためそうしている部分もあるが、

逆に、軽薄でいた方が楽でいれる人も多いのかもしれないので、これは確かに、その人の気質、根底的な人種の問題もあるのかもしれないと思った。

私は、以前人間性を尊敬している好きだった人に「あなたの人間性にすがって生きています」と言ったことあるが、これは作品にも求めていることで、根底的な意味で、私は優しい世界に生きていたいのだと思う。誰からも深く存在を認められず尊重されないことは、私にとっては寂しくて怖いことなのだと思う。

私から見てあまりに軽薄な人が多いので、つまり私は少数派なので、自分は融通の利かない堅い人間なのかと思ってしまうこともあるが、好きなアート作品などで尊重心に触れると「いや、これを見失ったらまずい。これは一番大事なものだ」と確信するということを繰り返している。尊重心とはつまり、根底的な人間に対する愛情のことだと思う。


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