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ワールドカップ2026 ー ちゃぶ台は世界を変えられるか

「いいかげん、処分しようよ」箱に投げ込まれている、古いアルバムに、幼少の頃の我が家の写真がある。
どう見ても、バラック、である。
「お外がマイナス5度なら、おうちの中もマイナス5度」のおうちである。
隙間風は当たり前。朝起きると布団の縁が冷たく、冬になると吐く息が白かったような。
そんな家でも、不思議と「寒かった」という記憶より、「楽しかった」という記憶の方が残っている。

居間、兼、食堂、兼、寝室には、「ちゃぶ台」が立てかけてあった。
ご飯時になると、部屋の真ん中にドンと居座る。
お若い方は、ご存知ないだろうが、その昔「ちゃぶ台」なるものがあったのです。
寺内貫太郎一家のおとーさんが、ひっくり返す、あれです。
もっとも、本来のちゃぶ台は、ひっくり返すためにあるのではない。家族が顔を合わせるためにある。

連日のワールドカップの試合を、見ていて、なぜかその「ちゃぶ台」を思い浮かべた。
私は「オフサイド」でさえ、わからない。
おそらく、10回以上は説明されたと思うが、最後には説明者が匙を投げる。
要するに、サッカーに関して、ルールから何から知識が欠如している、のである。
と、こんなレベルの私だが、それでもワールドカップ時は、テレビから試合が流れてくると、なんとなく見入ってしまう。
「全くわからない分、『素』で味わえるのよ」と負け惜しみを言いながら。
そうやって観ていると、だんだんと、それぞれの選手の、チームの、国のプレーには「生きる姿勢」のようなものが映し出されてくる気がしてくる。
「目の前の仕事を、ただ一生懸命にやること」
「強く正しくあること」
「常に、しっかりと前を向くこと」
「フェアであること」
が滲み出ると、自ずとこちら側にも伝わる。だから、地球が揺れるほどの熱狂を呼ぶのだろう。
どうも、「今大会は、『弱いはず』」と見られていたチームが予想を覆し、好試合を重ねているらしい。

「返す」までには至らなかったようだが、明らかに「ちゃぶ台」を揺らしている。

カナダが主催国の一つであったこととも相俟って、国際会議でのカーニー首相の演説が浮かんでくる。
「強者に振り回されるのは、もういい。そうじゃない者達が立ち上がりましょう。」(あくまで、私の理解)と力説していたと思う。かなり広く報道されたという背景には、共感の渦があったに違いない。

そこに、カーボベルデの活躍である。
ブビスタ監督は、「相手が世界の強豪でも、自分たちはフェアに、同じ土俵で戦うことを選んだ。それが私たちの誇りだ」と語っていた。

この言葉を読んだ瞬間味わった、涙腺が緩むほどの爽快感は、カーニー首相の演説動画を見た時と同じであった。

「どうせ……」と口にした時点で、「どうせ」しか待っているものはないのである。
口にしない勇気と覚悟は、どれほどのものか。
強大な権威や「既存のお約束のルール」という名の「ちゃぶ台」を、彼らの矜持がひっくり返す日が、ハガネのように動かないと思われていた世界の「ちゃぶ台」が、いつか静かにひっくり返る日が来るのかもしれない。

そもそも、ちゃぶ台は揺らすものでも、ひっくり返すものではなく、家族団欒の象徴だ。
一緒にみんなで、同じものを食べ、同じお茶を飲み、互いの1日を明日を語り合い、一本しか買えないバナナを分け合い、一つのテレビを一心に見つめた。
強いものも弱いものも。

サッカーは結局、一人では勝てない。スター選手がいても、最後は十一人が同じ方向を向かなければ点は入らない。国も世界も同じなのかもしれない。一人の英雄が世の中を変えるのではなく、無数の「普通の人」が毎日を真面目に積み重ねることでしか、社会は少しずつ変わらない。

いつか、一人一人の「銀河の一票」で、世の中が変わっていくのかも。
実際に見たことはないけど、いつか皆が幸せになれる平和な「ちゃぶ台返し」があるのかもしれない、と思わせる光景をいくつも見せていただいた。
長生きも、案外悪いものではない。

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