「失われた30年」は嘘だった——日本を変えた40年間の構造を追う【第8回:中国の影】
親中回路と「演出された悪化」——日中関係の深層に張り巡らされた40年の構造
銭其琛の告白
2003年、中国の元外交部長(外務大臣)・銭其琛が回顧録を刊行した。
その中で銭其琛は、1992年10月の天皇訪中について率直にこう述べた。
「天皇訪中は六四天安門事件での西側諸国の対中制裁の突破口という側面もあった」
これは中国側当事者による公式な「証言」だ。
1989年6月4日の天安門事件後、中国共産党は民主化を求める自国民を軍と戦車で弾圧した。G7をはじめとする西側諸国は経済制裁・融資停止・人的交流凍結で応じた。日本政府も第3次対中円借款を凍結した。中国は国際的に孤立した。
しかし2年後の1991年8月、海部俊樹首相が天安門事件後の西側現職首脳として初めて訪中し、円借款を再開した。さらに1992年10月、宮澤喜一内閣は天皇・皇后両陛下の中国訪問を実現させた。
銭其琛が認めたように、これは中国にとって「制裁の突破口」だった。天皇訪中を機に西側諸国の対中関係は正常化に向かい、中国は国際社会に復帰した。
日本が、孤立した中国を国際社会に復帰させた——これが第二次世界大戦後の日中関係における最大の「取引」の一つだった。
天皇訪中の内幕
2023年12月、外務省は1992年の天皇訪中に関する外交文書を公開した。
そこに記録された経緯は興味深い。
外務省は天皇訪中に「前のめり」だった。「我が国は中国との関係において『戦後のけじめ』を避けて通ることはできない」——外務省アジア局中国課が作成した内部文書にはこう記されていた。
一方、宮澤喜一首相は当初「グラグラしていた」。天安門事件への国民の不信感、尖閣諸島問題、自民党内の反対論——これらを前に決断できなかった。外交文書には「政治」と「官僚」の乖離が生々しく記録されている。
宮澤首相は駐中国大使の橋本恕に秘密の対中工作を命じた。その結果「中国側は対立をあおる言動を控えるようになった」——外交文書はそう記録している。
つまり天皇訪中は、「日中友好の自然な発展」ではなく、外務省が主導し、中国が「突破口」として戦略的に利用し、日本の首相が「グラグラ」しながら承認した政治的取引だった。
「日中友好」の看板の下で、実態は複雑な利害計算が動いていた。
「親中回路」の形成
天皇訪中前後の時期、日本の政界・財界・官界に「親中回路」が整備されていった。
政界の親中回路
中心にいたのは田中角栄の流れをくむ派閥だった。田中は1972年に日中国交正常化を実現した。その弟子たちは「日中友好は田中政治の遺産」と位置づけ、対中融和路線を継承した。
1998年から2000年まで中国に在勤したジャーナリスト・古森義久は、日本から訪中する政治家の傾向をこう記録している。「中国に対しとにかく友好的で融和的で協調的な姿勢に徹するという人たちはなぜかみな橋本派の議員たちだった」
野中広務(元自民党幹事長)は2000年5月、江沢民との会談で「江沢民閣下と故小渕恵三首相がともに語り合われた日中友好については、われわれは感動をもって聞いてきました。そのことを子々孫々、語り伝えていきたいと思っています」と発言している(公明党・冬柴鉄三幹事長が記者発表)。
二階俊博はより露骨だった。2000年に運輸大臣として5200人の訪中団を率い、2002年には日中国交正常化30周年として1万3000人の大訪問団を北京に送った。中国・江沢民元書記長が自筆で書いた石碑を地元・和歌山に建立しようとして、地元市議らの反対で頓挫した。二階は後に日中友好議員連盟の会長となり、2023年まで「自民党内における対中国利権を一挙に引き受けている」(Wikipedia)と評される存在になった。
官界の親中回路
外務省には「チャイナスクール」と呼ばれる中国語研修組の外交官グループが存在した。狭義には語学閥だが、広義では「対中融和路線の担い手」として機能し、時に日本政府の公式立場よりも中国の利益を優先したと批判された。
台湾の李登輝は「国会議員や外務省の官僚にもチャイナスクールのような人たちがいる。なぜ日本人の中に、これほどまでに中国におもねる人が多いのだろうか。おそらくあの戦争で、日本が中国に対して迷惑を掛けたことを償わなければいけないという、一種の贖罪の意識が座標軸にあるのではないか」と述べた。
これは第2回で論じた「動機の捻じれ」——贖罪意識という表の看板の下に、実態(経済利益)と底流(大東亜的残滓)が層をなしている——が、外交の場でも機能していたことを示す。
財界の親中回路
対中ODA42年間(第4回参照)と平行して、日系企業の中国進出が加速した。中国に工場・販売拠点を持つ大企業にとって、日中関係の「安定」は直接の収益問題だった。日中関係が悪化すれば、中国市場での営業活動が制限される。
第6回で論じた経団連の政策評価制度は、この財界の利益を「民主主義のコスト」という名のもとに制度化した。「日中関係の安定」を求める財界の声は、政策評価を通じて政治に「購入」された。
「演出された悪化」という問い
親中回路が整備されるほど、ある逆説が生まれた。
日中関係が悪化する——具体的には「歴史認識問題」「靖国神社参拝問題」「尖閣問題」——たびに、日本側は「関係改善」を求め、中国側に譲歩する。これが繰り返された。
この「悪化→譲歩→改善→次の悪化」というサイクルが、実は一方の意思によって管理されていたとしたらどうか。
記録に残る事実を並べると、以下のことが確認できる。
1992年の天皇訪中:訪中直前、中国は尖閣諸島を中国領と明記した「領海法」を公布した。日本国内で訪中反対論が高まると、宮澤首相が秘密工作を命じ、中国側は「対立をあおる言動を控えた」。
1998年の江沢民訪日:江沢民は来日後、「歴史認識問題」に関する厳しい批判を繰り返した。かえって日本側の反中国感情を高める結果となり、その後も対中ODAは拡大を続けた。
2012年の尖閣国有化後:中国各地で大規模な反日デモが発生し、日本企業が放火・略奪被害を受けた。しかし日本側の財界は「経済的打撃が大きい」と日本政府批判に転じ(当時の経団連会長・米倉弘昌の発言)、「政冷経熱」の構造が対中融和圧力として機能した。
これらの事例は、中国が「悪化」を一つの外交的手段として使い、日本の親中回路がそれを「緩和」する方向に働いた構造を示している。「演出された悪化」という表現は強いかもしれないが、少なくとも「管理された緊張」と呼べる構造は存在した。
ODA終了後の「親中回路」
2022年3月、対中ODAは終了した。しかし親中回路は消えていない。
2024年8月、二階俊博(当時85歳)は日中友好議員連盟会長として超党派議員団を率い、5年ぶりに北京を訪問した。しかし結果は「冷遇」だった——習近平との会見はかなわず、王毅外相との会談も約40分遅れた。
「中国共産党は、親中派の大物の『利用価値』を巧みに見極めてきた。自民党の幹事長や総務会長など要職に就いている際には抱き込み、無役の時には冷たくあしらう傾向が強かった」——城山英巳(北海道大学教授、元時事通信北京特派員)はこう分析する。
親中回路は「友好」のためではなく、「利用」のために維持されていた——これが中国側の認識だ。そして日本側も、経済利益という現実的な動機から回路を維持してきた。
「友好」という看板と「利用」という実態の乖離は、対中ODAに関する「日本は贖罪のため/中国は当然の補償として」という二重の認識(第4回)と、まったく同じ構造だ。
「親中」の正体
ここで立ち止まって問いを立てたい。
「親中派」と呼ばれる政治家・官僚・財界人は、本当に「中国が好き」だったのか。
答えは複数層に分かれる。
贖罪意識の層:第2回で論じたように、戦後の「捻じれた動機」——中国への贖罪意識——が親中路線の精神的基盤を作っていた。この層は真剣だった。
経済利益の層:財界にとって中国は最大の市場の一つだ。「政冷経熱」は利益の論理だ。この層に「中国が好き」かどうかは関係なかった。
利権の層:対中ODA事業、訪中団、観光・インフラプロジェクトへの関与——これらは政治家・官僚・商社にとってのビジネスチャンスだった。この層は最も現実的だった。
統一戦線工作の層:中国共産党は「統一戦線工作」として、外国の有力人物を「友人(老朋友)」として取り込む外交工作を組織的に行ってきた。日本の親中派政治家の多くが、この工作の標的となった。
これら四層が絡み合って「親中回路」は形成された。一枚岩ではなく、複数の動機が重なる複合的な構造だ。
この章が連載全体に占める位置
この連載が追ってきた「回路」の問いに、第8回は別の角度から光を当てた。
これまでの回路は「外から人を入れる」回路(留学生・技能実習)と「財界が政治を購入する」回路(経団連の政策評価)だった。
第8回の「親中回路」は「利益と感情が複合した対外関係の回路」だ。
注目すべきは、これら三つの回路が交差するところに「対中ODA」「留学生受け入れ」「技能実習」が配置されていることだ。
中国からの留学生・技能実習生の受け入れは、対中ODAの「技術協力」という枠組みで始まった側面がある。日本語学校業界の経営者には「かつて中国などから偽装留学生を入学させていた日本語学校経営者」(第7回参照)が多く、日中間の「友好」の名のもとに、偽装留学生ビジネスが成立してきた。
「日中友好」という看板は、ODAの建前(国際貢献)と同様に、実態(利権・経済利益)を覆い隠す包装紙として機能し続けた。
次回予告:第9回「グローバリズムの設計者たち」
この連載が追ってきた構造の全体像が、第9回で輪郭を現す。
1954年から2003年にかけて張り巡らされた回路の「設計者」は誰か。それは単一の人物や組織ではなく、複数の利害が絡み合うシステムだった。
「誰がやったのか」ではなく「どういう構造ができあがったのか」——第9回はその問いに向き合う。
【出典・参考】
・銭其琛『外交十記』(世界知識出版社、2003年)——天皇訪中の「突破口」発言の出典
・外務省「1992年天皇訪中に関する外交文書」(2023年12月20日公開)
・Wikipedia「天皇訪中」「チャイナ・スクール」「二階俊博」
・城山英巳「二階訪中団『無視』と中国軍機『意図的』領空侵犯が示す習近平のシグナル」(新潮社Foresight、2024年9月)
・古森義久「ODA利権(公共事業利権)と親中派政治家(バラマキ政治家)」
・選択出版「危険な『親中派』政財界人」(2012年)
・李登輝発言——チャイナスクール批判(Wikipedia「チャイナ・スクール」より)
・日本経済新聞「宮沢喜一首相、天皇訪中へ工作命じる 1992年外交文書」(2023年12月20日)
