どうか、こぼしませんように
「どうか、こぼしませんように」
コンビニで、こんな言葉をかけられるとは思わなかった。
毎週、手入れをしている庭からの帰り道、同じコンビニに立ち寄る。アイスコーヒーと朝食用のパンを買うのが、いつの間にか習慣になった。けさは、昼に食べるおにぎりも一つ加えた。
早朝に立ち寄ると、たいてい同じ女性の店員を見かける。
わたしと同じくらいの年代だろうか。ことば使いがていねいで、あいさつをするときの姿勢が美しい。品出しをする動作にも無駄がなく、見ているだけで気持ちがよかった。
名前も、どのような暮らしをしている人なのかも知らない。仕事をする姿を見るたび、わたしもきょう一日をきちんと過ごそう、という気持ちになる。
けさ、レジに立っていたのは、見慣れない男性だった。
胸元には「トレーニング中」と書かれた札があった。五十代くらいに見えた。もう少し上かもしれない。
直前のお客さんから、電子マネーへのチャージを頼まれたらしい。慣れない手順に戸惑った男性に、女性が「ああいうときは……」と静かに説明していた。
わたしの会計中にも、女性が隣から小声で言葉を添えた。男性は小さくうなずき、思い出したように尋ねた。
「おにぎりは温めますか」
「大丈夫ですよ」
バーコードを読み取る手つきは、まだぎこちない。一つずつ確かめながら進める様子に、誠実さが伝わってきた。
会計を済ませ、入り口近くのコーヒーマシンでアイスコーヒーをつくっていると、男性もレジを離れ、ごみ箱の袋を取り替えはじめた。
できあがったコーヒーのふたを閉め、レジ袋に入れようとしたところで、男性が手を止めた。
「どうか、こぼしませんように」
「こぼさないでください」ではなく、「こぼしませんように」。
注意を促すのではなく、無事に持ち帰れることを願ってくれている。そんな言い方だった。
お礼を言うと、男性はおなかの前で手を重ね、ていねいに頭を下げた。ホテルマンのような見送りだった。コンビニでアイスコーヒーを一杯買っただけなのに、ずいぶん大切にしてもらったような気がした。
コンビニは、どこへ行っても似た姿をしている。同じような棚が並び、同じような商品を買うことができる。
店のなかで交わされる言葉までは、同じではない。
短いあいさつ。戸惑う人を責めない教え方。コーヒーをこぼさないようにと願うひと言。働く人のふるまいが積み重なって、どこにでもある一軒のコンビニが、誰かにとっての大切な場所になっていく。
買ったコーヒーは飲めばなくなり、パンもおにぎりも食べればなくなる。
「どうか、こぼしませんように」という言葉だけは、夜になった今も、心に残っている。
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