障害がなければなりたかった私
―『ケーキの切れない非行少年たち』を読んで―
私は子どもの頃から、ずっと自分に対する違和感を抱えて生きてきた。
うまくできないことがある。
人と同じように理解できないことがある。
そのたびに、「自分はどこか違うのではないか」と感じてきた。
大人になり、子育てをするようになってから、その違和感はよりはっきりした形になっていった。
数年前、本屋で何気なく一冊の本を手に取った。
それが『ケーキの切れない非行少年たち』だった。
表紙には三等分に切られたケーキの絵。
帯にはこう書かれていた。
「凶暴で手に負えない少年の真実」
「計算できない」
「漢字が読めない」
「軽度知的障害」
「境界知能」
その言葉を見た瞬間、私はその本を手に取り、気づけば購入していた。
読み進めるうちに、何度も涙があふれた。
そこに描かれていた少年たちの姿が、他人事とは思えなかったからだ。
どこかで、自分の人生と重なってしまった。
私は10年以上前、相談機関で心理士による発達検査を受けたことがある。
そのとき、LDやADHDの特性について説明を受けた。
けれど、この本を読みながら感じたのは、それだけでは説明しきれない「生きづらさ」だった。
私は病院での発達検査を頑なに拒んだため、境界知能や軽度知的障害の診断を受けているわけではない。
それでも、本に出てくる少年たちの困難さや苦しさに、自分を重ねずにはいられなかった。
誰にも褒められず、
誰にも受け止められず、
「ダメな人間」として見られてしまう世界。
そこに、確かに自分もいた気がした。
特に心に残ったのは、この言葉だった。
「褒める教育だけでは問題は解決しない」
勉強ができない子どもに対して、
「走るのは速いよ」
「気持ちは分かるよ」
そう言葉をかけても、現実の困難は変わらない。
必要なのは、その子に合った“具体的な支援”だという指摘だった。
私はその考え方に強く共感した。
私自身もこれまで、「頑張ればできる」と言われてきたことがある。
けれど本当に必要だったのは、努力を促す言葉ではなく、
自分に合った方法や支援だったのではないかと思う。
本の中には「コグトレ」についても書かれていた。
認知機能を鍛えるトレーニングであり、実際に子どもたちの支援に使われているという。
もし暗算ができるようになるなら。
もし漢字が覚えられるようになるなら。
もしメモが取れるようになるなら。
そんな思いで、私も興味を持った。
しかし同時に、もしできなかったらどうしようという不安もあって、まだ一歩を踏み出せずにいる。
また本書には、こうした子どもたちの声が紹介されていた。
「人に教えてみたい」
「人から頼りにされたい」
「人から認められたい」
私はその言葉に胸が熱くなった。
障害があるかどうかに関係なく、人は誰かの役に立ちたいし、認められたい。
それはとても自然な願いだと思う。
この本をきっかけに、私は「境界知能」という概念に強い関心を持つようになった。
発達障害については多くの情報がある一方で、
境界知能については、当事者の視点で語らたものにはほとんど出会ったことがない。
その“見えにくさ”こそが、生きづらさにつながっているのではないか。
そんな思いから、私は自分の体験を言葉にして残したいと思うようになった。
それが、ブログを始めた理由の一つでもある。
私はその後、『どうしても頑張れない人たち』も読んだ。
その中で強く心に残った言葉がある。
「本当に支援が必要な人は、私たちが関わりたくないと思うような人」
その一文に、深く考えさせられた。
もし私に障害がなかったら、と思うことがある。
一度で理解できる力があり、
勉強に困らず、
選べる未来の幅がもっと広かったなら。
私は宮口先生のように、
「本当に支援が必要な人は誰なのか」
を考え続ける支援者になりたかった。
そしてもう一つ、このブログを書こうと思った理由がある。
発達障害のある人の中には、自分の困りごとをうまく言葉にできない人がいる。
息子もその一人だ。
SOSを出すことができない。
だから支援にもつながりにくい。
親である私たちが今は支えているが、
その先を考えると、不安が消えることはない。
私は安楽死について考えるとき、いつも思う。
支援が届くべき人に、支援が届いていない現実があるのではないか。
孤独の中で生きている人。
助けを求める言葉すら持てない人。
その現実が、
「生きることの苦しさ」に直結しているのではないか。
これから私は、「息子の障害と支援について」も書いていこうと思う。
それは、自分自身のためでもあり、
同じように言葉にならない苦しさを抱えている人のためでもある。
そして何より、
“支援が届く社会とは何か”を考え続けるためでもある。
