芽からチャージ
先日蒔いた綿花の種が、いくつか芽を出した。
蒔いて数日後に双葉をのぞかせた種があった一方で、2週間かけてゆっくり芽を出してくる種もあった。蒔いた種の数と、出てきた芽の数を比べたところ、まだ土の中で芽吹きのタイミングを待っている種もありそうだ。まあ、もう出てこないつもりの種もいるのかもしれないが。
どっちにせよ、たまに水をやりながら、毎日成長を楽しみに眺めている。
例えば子どもの成長も、こんな風にゆったりと、楽しみに、待てばいいのかもしれないが、なかなかそうはいかない。
だって、「唯一無二の」「私の」子どもの、「やり直しのきかない」大事な時期を今過ごしているのだから、などと考えると、綿花と同じようには、いかない。
早く芽が出させてやるためには、肥料や水が少なくはないだろうかと気になるし、ほかの芽が元気に出てきているのを見ると、どんなもんかと気をもむし、芽が出てこないことを心配して土を掘り起こしてみたくなってしまうこともある。
また、芽が出れば安心かといえば、そうでもなく、茎の方向が曲がっていることが気になったり(大きく伸びるために一時的に曲がっているだけなのかもしれないんだけど)、葉の数が多すぎやしないかと心配したり、ちゃんと花が咲くだろうかと気をもんだり、まあきりがない。
私たちは誰しも、そういう心配や不安、焦りと無縁ではいられない。
仕方ない。
さて世の中には、いろいろな教育法があったり、こういう時はこうするとよいですよという情報がたくさんある。それらはおそらく役に立つし、有益な情報だ。
ただ、そういう○○法。「頭ではわかっているんだけど、どうもうまくいかないんですよ」とか、「やってるつもりなんだけど、なんか違うみたいで…」とか、「教えられたことができないことが逆にストレスで」となったとき、そこに、○○法としてまとめられない、その人の、その親子の、オリジナルな個性が現れ出てくる。
なので、もし、そういうことがあれば、「おお、見せ場きたね」と喜んでもいいくらいだ。むしろ、それがあるからこそ、その人が生きている意味がある。(とはいえ、実際問題結構困ってますけどね!という思いもありつつの。)
親子関係でなくても、自分自身のことだけでも、日々ままならないことは多いけれど、なんだかんだと格闘していたら、花が咲くこともあれば、綿ができることもあり、そして、そこから糸をつむいじゃったりして、あれあれといいながらも毎日進んでいく。私たちはそういうままならなさや格闘から、外れては生きていけない。
そんなことを思いながら、「家庭菜園の綿花であれば、私は結構待ててるぞ」と、謎の自己肯定感を身体に蓄えつつ、次の格闘を待ち受ける自分がいた。
