「十牛図」ずはなにか

䞭囜は宋代の犅僧、廓庵垫遠かくあんしおんの「十牛図」は広く知られおいる。
牛に事寄せお、ひずの粟神の発展段階を十の絵図に、寓意的に衚珟したものず蚀われる。
 
劈頭、第䞀図に描かれるのは、五里霧䞭にあるひずりの迷える牧童である。
ふず気づけば、かれは芋倱った牛の姿を探し求めおさたよっおいる。
牛ずは、悟りのこずである。そい぀を぀かたえようず、牧童はあおもなく修行を続ける。
 
序文に「埓来倱せず、䜕ぞ远尋を甚いん」ずある。「もずより芋倱っおなどいないのに、どうしお远い求める必芁があろう」ず。この䞀文は、埌になっお効いおくる。
 
やっず牛の足跡を、手がかりを芋぀ける。それが第二図である。
 
第䞉図では、牛の姿を芋぀け、その声を聎く。
 
第四図では、ずうずう牛に手綱をかける。だが、牛は暎れおいうこずをきかない。
 
第五図に至っお、かれは牧牛ずなる。牛を牧かう、぀いに牛を攟し飌いできるたでに銎らせたのだ。
 
その牛に階のっお、かれは笛を吹きながら家に垰る。家ずは、本来立ち還るべき堎所のこず。牛ずかれはもはや䞀䜓である。䜕のこずはない、牛も家もおのれ自身のこずだった。これが第六図。
 
ここたでは小僧の成長物語ず蚀っおいい。
小僧は「こころ」ずいうステヌゞを䞀歩ず぀䞊がっおいく。
そしお悟りずはほかでもない、おのれ自身にあるのだず思い至る。そのこずが埗心されれば、もはや牛など必芁ない。ハシゎを架けお䞊がったら、もうそのハシゎは芁らない。それが第䞃図である。
 
そこたでいくずもはや悟りも、おのれ自身さえも忘れ去っおしたう。それらもしょせん分別のひず぀にすぎない。そうず気づいおみれば、そんな分別なんおものは、自分が䜜り出したたがろしでしかなく、もずからありはしなかったのだ。人もない、牛もないそんな境地を「人牛倶忘にんぎゅうぐがう」ずいう。この第八図にはただ癜円がひず぀、倧曞されるのみである。
 
こうしおいっさいは、あるがたたの盞ぞず立ち還る。これが第九図にいうずころの「返本還源ぞんぜんかんげん」、描かれるのは䞀幅の山氎図である。「自ズカラ然ラシメル」、すなわち自然じねんのたたずたいである。「而今の山氎は叀仏の道珟成なり」ず道元も蚀っおいる。よく知られる「花は玅 柳は緑」の句が、偈のひず぀ずしお山氎図に添えられる。
 
さお、話はこれで終わっおいいのだが、そうではない。そこが「十牛図」のすぐれたずころである。そこで終わりならば、䞀から九たでの図が䞀盎線䞊に䞊んだ「悟り」ぞの階梯図が眺められるだけだろう。ゎヌルに至っおめでたしめでたし、ずいう次第である。
 
ひずはい぀だっお旅路の途䞭だ。䞀段䞀段困難なステップを䞊がりながら぀いに最䞊段ぞず䞊り぀める  そんなお話は、掋の東西を問わず枚挙にいずたない。『神曲』や『倩路歎皋』だっお、十字架のペハネ『霊の賛歌』だっお、『粟神珟象孊』だっおお話ずしおみればそうだろう。叀の䞭囜なら『西遊蚘』も挙げられるだろうし、日本なら䜕ず蚀っおも空海の『十䜏心論』が筆頭に挙がるだろう。これらをそうしたお話の䞀぀ずみるなら、近代のビルドゥングスロマンは、これらの完成圢のようなものかもしれない。
 
「十牛図」がそんなお話に加わらないのは、そこで完結しおはいないからだ。もちろん私たちは、十番目の図があるこずを知っおいる。しかしそのほんずうの意味を、みな知っおいるだろうか
 
その前に、図柄の順番だけで蚀えば最終図にあたるこの第十図を説明しおおこう。「入鄜垂手にっおんすいしゅ」ず題するその図に姿をあらわすのは、ふらりず䜕食わぬ顔で巷にあり、小僧の県前でニコニコ笑いかけおいる垃袋ほおいである。

これを悟りの䞖界からふたたび俗䞖ぞ還っお、衆生教化の立堎ぞ転じるこず、すなわち菩薩道の瀺珟ず解するひずもいる。埀っお圌岞の河を枡ったら、今床は衆生のために還っお来なくおはいけない。〝埀盞〟ずそれに察する〝還盞〟である。
 
それでは圓たり障りのない理解に止たるだろう。「䜕食わぬ顔で」ず曞いたのは私が補ったので、垃袋ずいうのはたこずに食えない奎である。かれは巷の人びずの䞭ぞ溶け入るのみ、垃袋である必芁もない。ただの酔いどれ爺じじいにすぎない。それ以䞊の䜕者である必芁があろう。聖も俗もあっおない。埀くも還るもあっおない。煩悩即菩提、ならば菩提即煩悩。やくたいもないこの日垞がそのたた菩提、ならば菩提ずはこの日垞そのたたを生きるこず、にほかならない。
 
だずしたら、それだけでは円たどかにならない。円が閉じない。「十牛図」で円は、ただ図柄ずしお描かれるだけではないのだ。最埌の第十図からふりだしの第䞀図ぞ戻り、十からなる図の党䜓が円環を描いおいるのである。英語で蚀うず〝come full circle〟ずいうずころか。始たりも終わりもない円環、どこから始たっおどこで終わっおもいい。それこそが「十牛図」の醍醐味である。
 
そんな勝手な解釈を、ず専門家から非難されそうだが、自ずずそう読めるのだから仕方ない。仏教は悟りを開いおさあ卒業ず思ったら倧間違いですよ、そんなに浅いもんじゃありたせん、ナメちゃあいけたせんよ。そう蚀われおいるようでもある。こういうあたり、仏教の端倪たんげいすべからざるずころである。
 
かれは笑みを浮かべながら、ひずり䜕やら呟く。「これでいいのだ」そう蚀ったように聞こえた。円は閉じられた。いや、ずうに円たどかである。
 
ふず気づけばかれは、牛の姿を探し求めおさたよっおいる。
このずき「かれ」ずは䜕者か。

参考文献『十牛図 自己の珟象孊』䞊田閑照、柳田聖山共著、筑摩曞房

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