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僕はカニにしました

あらすじ

友人の事業に連帯保証し、七百四十万円の債務を背負って出版社を辞めた元校閲者・新藤誠は、取り立て屋から「マグロ漁船、カニ漁船、殺される」の三択を迫られ、カニを選ぶ。船上で仕事を覚え、食事と寝床と仲間を得た新藤だったが、若い船員・津田の事故をきっかけに、雇用契約、返済明細、事故記録の食い違いを見つける。記録を正せば船は止まり、仲間の収入や家族の生活まで揺らぐ。新藤は、船を止めないことと、見た事実を記録に残すことのあいだで立ち止まる。言葉を直してきた男が、自分の声で選び直すまでを描く海上労働小説。

(全14章。約4.0万字)

「マグロ漁船に乗るか、カニ漁船に乗るか、俺らに殺されるか。選べ」

 男はそう言って、テーブルの上に三本の指を立てた。僕は黙って頷いた。

 頷いたのは、あなたの発言を正しく聞き取りました、という意味だった。了承したという意味ではない。ただ、日本語の頷きには受領と同意の区別がない。男は前者を後者として処理したらしく、三本の指を僕のほうへ少し近づけた。

「で、どれにする」

 その三択を提示されたのは、窓のない雑居ビルの一室だった。折り畳み式のテーブルと、パイプ椅子が二脚。壁には三年前のカレンダーが掛かっている。男は二人いた。

 話しているほうは紺色のスーツを着ていた。ドアの前に立っているほうは、上下とも黒いジャージだった。ジャージのほうが怖かった。何も言わない人間には、こちらで言葉を補わなければならない。補った内容は、たいてい実際より悪くなる。

「あの」

 僕は言った。

「いくつか確認してもいいですか」

 スーツの男が眉を寄せた。

「確認?」
「選ぶために必要なので」

 男はジャージを見た。ジャージは何も言わなかった。

「言ってみろ」
「マグロ漁船というのは遠洋ですか、近海ですか」

 沈黙があった。

「遠洋だ」
「期間は」
「一年くらい」
「くらい、というのは」
「十か月から十四か月だ」
「幅があるんですね」
「海だからな」
「給与は月額ですか。それとも歩合ですか」
「借金から引く」
「その計算方法を聞いています」

 スーツの男は、ゆっくりと椅子の背へ体を預けた。

「おまえ、何の仕事してた」
「校閲です」
「コーエツ?」
「出版社で、原稿の誤りを確認する仕事です。誤字、数字、固有名詞、事実関係、契約書の表記などを」
「だから細けえのか」
「仕事でしたので」

 男は胸ポケットから煙草を出した。火をつけ、煙を吐いた。テーブルには小さな焦げ跡がいくつもあった。この部屋で同じ質問をされた人間が何人いたのかは分からない。そのうち何人が給与の計算方法を尋ねたのかも分からない。

「カニのほうは」
「国内だ。半年。何度か港へ戻る」
「半年というのは、一航海ですか」
「何度か出る」
「何ガニですか」
「知らねえよ。カニはカニだろ」
「危険度はマグロより高いという話を聞いたことがあります」
「ならマグロにしろ」
「期間が倍になります」
「じゃあ死ぬか?」
「三つ目は期間がゼロになる代わりに、以後の収入もゼロになります」

 ジャージの男の口元が少し動いた。笑ったのだと気づくまでに二秒ほどかかった。スーツの男は煙草をテーブルに押しつけた。

「おまえ、ふざけてんのか」
「真剣です。命に関わる選択ですから」
「選ばせてもらえる立場だと思ってんのか」
「いま、選べと言われました」

 また沈黙があった。ジャージの男が顔を伏せた。肩が一度だけ動いた。スーツの男は机の下から透明なファイルを取り出した。中に入っていた紙を一枚、僕の前へ滑らせた。上部には、〈就労及び返済に関する確認書〉とあった。雇用主の欄は空白だった。

「雇用契約書ではないんですね」
「港で正式なのに判を押す」
「それを先に見せていただくことは」
「できねえ」
「なぜですか」

 男は三本の指を畳んだ。

「おまえに逃げられると困るからだ」
「逃げません」
「どうして言い切れる」
「逃げる場所がないからです」

 それは本当だった。

 アパートは二か月前に退去した。正確には、退去させられた。荷物はコインロッカー二つに収まる分しか残っていない。実家には十年以上帰っていなかった。大学時代の友人は、総額三千八百万円の融資契約と、僕の署名が入った連帯保証契約書を残して消えた。店の設備や敷金が処分されたあと、僕に請求された残額は七百四十万円だった。三千八百万円よりは小さい。僕の年収よりは大きい。

 スーツの男は、僕の顔をしばらく見た。

「カニにしとけ」

 ジャージの男が初めて口を開いた。予想より高い声だった。

「半年で一回、区切りがつく」
「半年後には借金がなくなりますか」
「おまえの残りなら、二期乗れば終わる。漁がよければ、一期で大きく減る」

 スーツの男が答えた。

「漁次第というのは、歩合があるという意味ですか」
「まだ聞くのか」
「はい」

 男は立ち上がった。

「一週間後、この住所へ来い。船は第八瑞宝ずいほう丸。港までの切符はこっちで取る。詳しいことは向こうで説明される」
「交通費も債務に加算されますか」
「される」
「手数料は」
「される」
「金額は」
「港で聞け」

 選択肢は三つ提示されたが、具体的な手配まで示されたのは一つだけだった。これを選択と呼ぶのは正確ではない。ただ、その場で言い争っても、選択肢が増える見込みはなかった。

「では」

 僕は言った。

「カニでお願いします」

 定食屋で注文するような言い方になった。スーツの男が鼻で笑った。ジャージの男がドアを開ける。

「逃げたら三つ目だからな」
「承知しました」

 今度の頷きも同意ではなかった。注意事項を受領した、という意味だった。外へ出ると、十二月の繁華街は明るく、寒かった。ネオンは大量にあるのに、どれも温度を持っていない。校閲していた文章なら、〈明るいのに寒かった〉という接続には疑問を入れただろう。

 論理的な因果がない。だがその夜、僕には、それ以外の書き方が思いつかなかった。


 借金の経緯は、書くと長くなるが、読むと短い。三十歳のとき、大学時代の友人から、飲食店を開くので保証人になってほしいと言われた。僕は断った。友人は泣いた。僕は判を押した。

 この四行の間には三か月ぶんの電話とメール、一度の土下座、二度の試食会、事業計画書の確認、税理士を交えた面談がある。だが、結果だけを読むなら四行で足りる。店は八か月で潰れた。友人は消えた。保証債務だけが残った。

 友人の名前は石崎といった。大学では同じゼミにいた。卒業後も年に二、三度は会った。僕が校閲の仕事をしていることを、彼は「ちゃんと読んでくれる仕事」と言った。

 店を出す話を最初に聞いたとき、僕は反対した。立地が悪い。客単価の想定が高い。昼と夜で必要な人員が違う。事業計画書の数字にも、いくつか計算違いがあった。

 石崎は計画書を持ち帰り、二週間後に直してきた。

「おまえが見てくれたから、銀行にも通ると思う」

 そう言われた。

 僕は保証人にはならないと伝えた。石崎も、その時点では分かったと言った。

 一か月後、物件の仮契約が済んだ。さらに一か月後、厨房機器の発注が始まった。保証人が見つからなければ、すでに払った金が戻らないという話になった。

「もう後へ引けない」

 石崎は言った。

 後へ引けない状態を作ったのは彼だった。僕はそう指摘した。

「分かってる」

 彼は泣いた。

 泣けば契約条件が変わるわけではない。それも分かっていた。それでも、十年近く知っている人間が、自分の前で顔を覆っているのを見て、僕は最後まで正しい側に立ちつづけられなかった。

 署名の日、担当者は連帯保証の意味を説明した。本人が払えなければ、保証人へ全額請求できる。催告を先に本人へする必要がない場合もある。僕は一つずつ聞き、書類を読んだ。

 知らずに判を押したわけではない。

 知っていて押した。

 だから、石崎が消えた後も、自分は被害者だと言い切れなかった。自分で決めた、と言われれば、そのとおりだった。

 ただ、あの日の僕が保証したかったのは、三千八百万円の返済ではない。石崎が自分を立て直せるという話だった。

 書類には、そんな項目はなかった。

 店が潰れた翌週、石崎から一度だけ留守番電話が入った。

〈ごめん。少し時間をください〉

 時間がどれくらい必要なのかは言わなかった。僕はその音声を消せず、携帯電話を替えるまで残していた。

 僕が会社へ行けなくなった朝、駅のホームで最後に聞いたのも、その声だった。

 融資総額がそのまま僕の借金になったわけではない。厨房機器、冷蔵庫、保証金、友人名義の車。金に換えられるものはすべて換えられた。債権者から最後に届いた通知には、残元金七百四十万円と書かれていた。

 返せない数字ではない、と最初は思った。毎月十二万円ずつ返せば、利息を別にしても五年少々。残業を増やし、家賃の安い部屋へ移り、食事を一日二回にした。ところが、毎月の返済額のすべてが元金へ入るわけではなかった。遅延損害金、手続費用、別の借入れの利息。数字は減ったり増えたりし、半年後には、返済を始める前とほとんど同じ場所に戻っていた。

 督促状の束に、返済相談を受けるという会社の案内が混じっていた。電話をかけた。別の番号を教えられた。さらに別の男へつながった。その先にいたのが、榊原と木戸だった。

 誰かに拉致されたわけではない。僕は自分で教えられた住所へ行った。自分の足で四階まで上がり、自分でドアを開けた。その事実は、あとになって何度も僕を黙らせる材料になった。

 僕は二十二歳で中堅の出版社へ入り、校閲部で十二年働いた。仕事は好きだった。一日じゅう文字を読み、間違いを探す。誤字を正し、数字を照合し、誰かの記憶と公的な記録が食い違っていれば確認を取る。世界には正しい表記がある。

 少なくとも仕事をしている間は、そう信じることができた。借金を背負ってからも、三年ほど会社には通った。給料が入る。返済する。足りない分を借りる。

 別の返済日が来る。利息の支払いを優先する。元金は減らない。数字は正確だった。

 正確であることと、正しいことは違う。

 三十四歳の秋、僕は会社へ行かなくなった。辞表を出したわけではない。ある月曜日の朝、駅のホームに立ったとき、電車へ乗る理由が見つからなかった。会社へ行く理由も、家へ戻る理由もなかった。僕はベンチに座った。

 一本目の電車を見送った。二本目も見送った。三本目の電車が来た頃、携帯電話の電源を切った。そのまま三週間、会社へ行かなかった。会社は僕をすぐには解雇しなかった。上司は何度も電話をくれた。人事担当者は自宅まで来た。

 僕はドアを開けなかった。助けを断ったつもりはなかった。ただ、返事をしなかった。返事をしないことは、ときどき、最も強い拒絶として扱われる。会社を辞め、アパートを失い、督促を無視しつづけた結果、僕はあの部屋へ呼ばれた。

 そこから一週間後、片道の切符を受け取った。渡してきたのは、あのジャージの男だった。

「木戸です」

 封筒の裏へ連絡先を書くとき、自分で名乗った。

「スーツの人は」
「榊原さん」
「どちらの会社の方ですか」
「債権の管理」
「会社名は」
「細けえな」
「契約相手を確認したいので」

 木戸は封筒の角で掌を叩いた。

「俺も乗ったよ」
「船に?」
「カニ。三年」

 初めて、彼の曲がった薬指を見た。

「船で折ったんですか」
「かごのワイヤに挟んだ。病院でつないだ。曲がったままだけど使える」

 指を二度、曲げ伸ばしした。

「借金は返せたんですか」
「返した」
「それで今の仕事を?」
「榊原さんに拾ってもらった」

 拾ってもらった。助けてもらった、とは言わなかった。木戸は財布から一万円札を取り出した。

「現地までの飯代」
「これは貸付ですか」
「そう」
「利息は」
「おまえさ」

 木戸は少し困った顔をした。

「船で嫌われるぞ」
「なぜですか」
「細かいから」

 僕は一万円を受け取った。受領書はなかった。

 別れ際、木戸が呼び止めた。

「校閲」
「はい」
「船の会社と、借金の会社は別だ」
「そうなんですか」
「船は普通だ。ちゃんとした会社だ。変なことすんなよ」
「変なこととは」
「仕事して、金返して、帰ってこい」
「木戸さんは、それで帰ってきたんですか」

 彼は一度、曲がった指をポケットへ隠した。

「帰ってきたから、ここにいる」

 答えにはなっていなかった。

 夕方には指定された港の待合所へ着いた。空は低く、建物の隙間から見える海は、磨かれていない金属のような色をしていた。待合所の軒下に、僕と同じくらいの大きさのリュックを背負った若い男がいた。

 白いダウンジャケットを着て、両手をポケットへ入れている。こちらを見て、男は尋ねた。

「カニですか」

 注文の確認に聞こえた。

「そうです」
「俺もです」

 男は津田直人と名乗った。二十三歳だった。

「マグロもあったんですけど、長いから」
「僕も同じ理由です」
「三つ目も言われました?」
「殺される」
「ですよね」

 津田は安心したように笑った。同じ脅迫を受けた人間に会い、安心するのは少し変だった。待合所の前に、〈北洋就労サポート〉と書かれた白いワゴン車が停まっていた。木戸は先に港へ着いていた。赤い帽子をかぶっていた。

「乗る人?」
「はい」
「名前」
「津田直人です」
「新藤誠です」

 ここで初めて、僕の名前が必要になった。名前がなくても一人称の文章は成立するが、契約書には氏名欄がある。

 木戸は二人の名前を紙へ書き、一度も顔を上げずにクリップボードへ挟んだ。ワゴン車の後部ドアが開き、僕たちは順に乗った。


 ワゴン車で連れていかれたのは、港近くの二階建ての事務所だった。一階に長机が三つ並び、壁には船員募集のポスターと、船員職業紹介事業の許可を示す額が掛かっていた。

 〈未経験から海の仕事へ〉
 〈六か月で生活を立て直す〉

 立て直す、という言葉の主語は書かれていなかった。

 机の上には四種類の書類があった。

 〈船員雇用契約書〉
 〈賃金振込先指定書〉
 〈返済支援及び生活管理に関する契約書〉
 〈口座振替委任書〉

 雇用主は瑞宝水産株式会社。紹介事業者は北洋就労サポート。返済支援の契約先は東央管理合同会社。最初の部屋で見せられた確認書には、どの会社名もなかった。

「質問があります」

 木戸が、まだ署名欄へペンを置いていない僕を見た。

「何」
「北洋は瑞宝水産から紹介手数料を受け取るんですか」
「そうだよ。おまえらからは取らない」
「東央管理と北洋の資本関係は」
「知らない」
「事務所と担当者が同じですが」
「受付を一緒にしてるだけ」
「固定給はいったん僕名義の口座へ入り、その日のうちに生活費三万円を残して東央が引き落とす契約です。航海手当と漁獲配分は精算時に現金で支給され、その全額を東央へ送る、とあります」
「借金あるんだろ」
「あります。だからこそ、元金、利息、手数料へそれぞれいくら充当されるのか確認したいです」

 木戸は奥の部屋へ入った。津田が僕の袖を引いた。

「新藤さん」
「はい」
「あんまり言わないほうが」
「なぜですか」
「乗せてもらえなくなったら困るんで」

 津田は小さな声で言った。

「俺、今日から住むところないんです」

 僕も同じだった。

 同じ事情があったからといって、同じ速度で署名する必要はない。だが、署名を遅らせている僕の横で、津田の今夜の寝床まで遅れていくのも事実だった。

 五分後、奥から別の男が出てきた。五十代後半くらい。紺色の作業服を着て、髪には白いものが混じっていた。

「船長の郷田だ」

 僕たちへではなく、書類へ向かって言った。

「質問があるそうです」

 木戸が言う。郷田は僕を見た。

「何」
「雇用契約については、固定給、航海手当、漁獲配分の記載があります。保険加入の説明もあります。ただ、本人名義の口座へ入った賃金を同日中に東央管理へ振り替える契約は、瑞宝水産の雇用条件とは別なんですね」
「別だ」
「東央との契約へ署名しなくても、雇ってもらえますか」

 木戸が口を開きかけた。郷田が先に答えた。

「俺の船に必要なのは船員だ。借金の契約は知らん」
「船長、それでは話が」
「そっちの話だ」

 郷田は雇用契約書を指で叩いた。

「こっちは読んで書け。分からんなら聞け。返済の紙は、納得できなきゃ書くな」
「署名しなければ、北洋から紹介を取り消されますか」
「それも俺に聞くな」

 郷田は僕の顔を見た。

「ただし、船では紙を読んでる間にも物が動く。分からないから止まってます、では指がなくなる。聞くなら早く聞け。決めたら動け」

 木戸が、返済支援契約の説明表を持ってきた。月額の債務管理事務費、就労準備費、交通費、生活費の支給方法。書かれてはいたが、元金がどの速度で減るのかは、漁獲配分による、としかなかった。

「半年でどの程度返せる見込みですか」
「去年の平均なら二百五十から三百万円」
「そこから債務管理事務費などを引く前ですか」
「そう」

 僕の残債は七百四十万円だった。去年の平均が二期続いても、元金へ入る前の額は五百から六百万円にしかならない。榊原の言った「二期で終わる」は、数字と合わなかった。

 僕は生活費として月五万円を本人名義の口座へ残し、控除明細を毎月交付することを追記してもらった。木戸は嫌そうに訂正印を押した。

 津田は原文のまま署名した。

「同じにしなくていいんですか」

 僕が尋ねると、津田は笑った。

「早く終わらせたいんで」

 何を、と聞きかけてやめた。借金か。契約か。この会話か。どれもあり得た。

 三日間で、健康診断、安全講習、船員手帳の申請、雇入れの手続きが続いた。雇用と保険については、正式な制度を通っていた。

 書類には必要な欄があり、説明する人もいた。氏名欄には僕の名前が入り、押す場所には印がついた。手続きが一つ終わるたび、最初の部屋が少し遠くなった。津田が原文のまま署名したことも、その人の選択としていったん棚へ戻した。

 四日目の朝、僕たちは第八瑞宝丸へ上がった。九十五トンのベニズワイガニかご漁船だった。船体は紺色で、船名の白い文字の周囲に錆が浮いている。船尾には円形のかごが積み上げられ、側面に小型のカニが抜けるための輪がついていた。

「九センチに届かないのが海底で抜ける」

 かごを見ていた僕に、背後から声がした。大柄な男だった。腕が僕の脚ほどある。

「上がってきた小さい雄と雌も戻す。殻が柔らかいやつもだ」
甲幅こうはばを測るんですか」
「最初はな。そのうち見りゃ分かる」
「あなたは」
甲板長こうはんちょうの安西」

 安西は僕と津田を上から下まで見た。

「細いな」

 津田が頭を下げた。

「すみません」
「謝って太るなら謝れ」

 安西は赤い雨具を二組、僕たちへ投げた。

「着ろ。サイズが合わなくても、それがおまえらのサイズだ」

 津田は笑った。僕には、まだ笑う箇所が分からなかった。


 第八瑞宝丸の乗組員は、僕と津田を含めて七人だった。出港前に覚えた名前は、船長の郷田、甲板長の安西、司厨員しちゅういんの黒沢だけだった。

 黒沢は五十二歳の女性だった。食事だけでなく、食材の管理、船内の清掃、乗組員の薬、会社へ提出する日報の一部まで担当していた。

「好き嫌いは」

 最初の食事の前に聞かれた。

「セロリが苦手です」
「分かった」
「出さないんですか」
「出すよ。あんた一人の船じゃないから」

 僕が期待していた答えとは違った。

「細かく刻む。それでも嫌なら残せ」
「はい」
「残したら安西が食べる」
「俺を残飯係みたいに言うな」

 食堂の向こうから安西が怒鳴った。

「食うだろ」
「食う」

 出港は午前四時だった。岸壁の照明が遠ざかると、海はすぐ暗くなった。船は沿岸から離れ、深い漁場へ向かった。陸が見えなくなった途端、揺れが大きくなった。

 最初の六時間、僕は便器と親密な関係を築いた。顔を上げれば吐き、横になれば胃の中身が逆流した。吐くものがなくなった後も、体は何かを外へ出そうとした。黒沢が水を持ってきた。

「飲めるだけ飲んで」
「すみません」
「謝る相手が違う」
「誰に」
「床」

 便器の手前で少しこぼしていた。十二時間後、安西が寝台の横へ来た。

「立て」
「無理です」
「立たないと、ずっと無理だ」

 日本語としては矛盾しているように聞こえた。だが、その船では正しかった。甲板へ出ると、空は低く、海は鉛色だった。陸は見えない。風が雨具の隙間から入り、吐き気とは別の理由で体が震えた。

 漁場へ着くと、前の航海で海底へ入れてあった一連を上げた。一連は百八十個のかごからできている。かごは少なくとも三日、場所によっては一週間以上、深い海底に置かれる。上げたかごからカニを出し、傷みを確かめ、冷凍の魚を新しい餌に替える。作業が終われば、同じかごを別の位置へ順に落としていく。

 かご同士は枝縄えだなわで太い幹縄みきなわにつながれていた。深さは千メートルを超える。最初のかごが海中へ消えても、最後のかごが落ちるまで甲板では同じ速度で物が動きつづける。安西が合図しながらかごを送り、山城が枝縄をさばく。津田が餌を渡す。

 山城は二十九歳で、沖縄から来た。理由を聞いた僕には「寒さに興味があった」、津田には「沖縄にいられなくなった」と答えた。

 僕は何をすればいいか分からず、邪魔にならない場所を探した。

「新藤!」

 安西が叫んだ。

「はい」
「そこが一番邪魔だ!」

 移動した。

「そこはもっと邪魔だ!」
「安全な場所はどこですか」
「陸だ!」

 僕は二度場所を変え、三度目には安西が指した排水口の脇へしゃがんだ。そこも安全ではなかったが、少なくともかごの通り道ではなかった。

 回収するときは目印のボンデンを取り、幹縄を揚縄機あげなわきへ通す。深い海から一本の縄を引き上げるだけで時間がかかる。最初のかごが海面へ出るまで、機械は低い音を立てつづけた。黒い海からかごが現れた。中で赤い脚が重なって動いている。甲板へ倒し、カニを選別する。雌。甲幅の足りない雄。脚の欠けたもの。殻が柔らかく、商品にならないもの。それらを海へ戻し、残すものを大きさごとに分ける。判断が遅れると、次のかごが上がる。

 手を止めれば、甲板が詰まる。

「見る前に動け!」

 安西が怒鳴った。

「見ないと判断できません」
「見ながら動け!」

 それは可能だった。三日目には、違いが少しずつ見えるようになった。甲羅の幅。色。脚の張り。腹側の形。文字の校閲も似ていた。最初はすべて同じ黒い記号に見える。読みつづけるうちに、一文字だけ違うものが浮いて見えるようになる。夜の操業には、昼とは別の難しさがあった。

 投光器の届く範囲だけが白く、その外は海も空も同じ黒だった。かごが水面へ出る直前、幹縄の角度が変わる。安西はそのわずかな動きで、次に何が上がるかを読んだ。

「重いぞ」

 言われてから数秒後、揚縄機の音が低くなる。かごにはカニだけでなく、海底の泥やヒトデ、空き缶が入ることもあった。一本だけ、古い長靴が上がった。山城が中を確かめ、誰も入っていない、と言った。笑うところなのか分からず、僕は黙っていた。

「海にあるもの全部に意味があると思うな」

 山城は長靴を廃棄箱へ入れた。

 午前二時に作業が終わり、四時に次の準備が始まる日もあった。寝台へ入っても、揚縄機の振動が腕に残っている。目を閉じると、赤い脚が重なって動いた。船では、八時間眠ることより、眠れるときに二時間眠ることのほうが役に立った。

 機関長の花巻は六十二歳で、痩せた長身の男だった。前にも別のカニ船にいて、辞めた理由は「船ではなく会社が沈んだから」としか話さなかった。話しかけても聞こえないふりをすることが多いのに、機関室の音には食事中でも箸を止めた。

「何かありましたか」
「回転が少し落ちた」

 僕には同じ音にしか聞こえなかった。機関室へ降りると、油と熱気で息が詰まった。花巻は燃料フィルターを外し、黒い汚れを見せた。

「これで分かるんですか」
「分かるまで聞く」

 彼は汚れを布で拭き、フィルターを戻した。一週間が過ぎる頃には、船酔いは収まった。

 代わりに腰と両腕が痛くなった。手のひらには水膨れができ、破れ、皮が硬くなった。津田は僕より若かったが、作業の覚えは遅かった。焦ると左右を間違える。安西に右と言われて左へ走る。

 枝縄を踏む。餌袋を落とす。それでも、怒鳴られるたびに「すみません」と言って次の作業へ戻った。

「謝るな!」

 安西が怒鳴る。

「すみません!」
「だから謝るな!」

 僕は二人の間に入り、

「どちらかが指示を変更しないと、この会話は終わりません」

 と言った。

「新藤!」
「はい」
「おまえも黙れ!」

 安西は公平だった。誰に対しても同じ音量で怒鳴った。最初の航海は九日間だった。港へ戻ると、赤いカニがコンテナに詰められ、ベルトコンベヤーで市場へ運ばれた。船の中では一匹ずつ見ていたものが、水揚げ場では重量になった。何トン。いくら。一かご当たり何キロ。船長と会社の担当者は、その数字を見て次の漁場を決める。

 水揚げは夜明け前から始まった。船倉せんそうの水槽からカニを上げ、発泡箱へ並べる。脚を畳んでも蓋に当たるものは大、甲羅が薄く色の淡いものは別。市場の職員が箱ごとに札を置き、仲買人が身の詰まりを確かめる。

 海の上で僕たちが「残す」と判断したものが、陸ではさらに細かく分けられた。同じ大きさでも値段が違う。脚が一本欠ければ下がる。腹側に傷があれば別の箱へ行く。生きていても、商品として同じではない。

「カニにも校閲があるんですね」

 僕が言うと、山城は鼻で笑った。

「赤入れて脚が生えるならな」

 水揚げが終わる頃には、空が白んでいた。最後の箱をトラックへ積む前に、会社の職員が荷札と集計表を照合していた。大の箱が五十八、中が七十、傷物が十二。表の合計は百四十だった。

 僕の手元の走り書きでは、中は七十一になっていた。

「一つ足りません」

 僕が言うと、職員は鉛筆を止めた。

「どこが」
「中の箱です。選別のとき、七十一まで数えました」

 職員が中の箱を数え直した。七十一あった。表の数字を直し、合計を百四十一にした。

「よく見てたな」

 安西は横で腕を組んでいた。

「船じゃ邪魔でも、陸じゃ使えるな」
「船でも、少しは使えるようになりました」
「自分で言うな」

 安西は集計表を僕の前へ滑らせた。

「もう一度、全部足せ」

 褒める代わりに、仕事が一つ増えた。

 僕たちは港の共同浴場へ行き、戻って船室で眠った。

 陸にいられるのは三日と聞いていたが、完全に自由なのは一日半ほどだった。次の航海の餌を積み、かごの破れを直し、燃料と清水を入れる。安西は市場の価格を確認し、郷田は一航海ごとの漁獲量を年間の割当てから引いた。

「獲れるだけ獲るんじゃないんですか」

 津田が聞いた。

「獲れるだけ獲ったら、来年いなくなる」

 郷田は答えた。

「枠を使い切ったら、その時点で終わりだ。安い日に獲りすぎても損になる」

 海へ出れば、たくさん入っているかごが正解だと思っていた。実際には、資源、価格、燃料、残りの漁期を同時に見なければならない。カニが多いことと、漁がよいことも同じではなかった。

 半年という契約は、一度の長い航海ではなかった。九日間の海と、三日間の陸を何度も繰り返すという意味だった。

 陸へ戻るたび、帰ってきたように感じる。出港するたび、また同じ場所へ送られる。どちらが本来の生活なのかは、まだ分からなかった。

 津田は左右を間違えたが、手先は僕より器用だった。餌袋の口を縛る速さも、破れた網を補修する針の扱いも、二日で僕を追い越した。

「前に何かやってたんですか」
「宅配の仕分けです。夜勤で」
「漁とは違いますね」
「流れてくるものを止めないって意味では同じです」

 津田は、安西の怒鳴り声を正しく聞き取るのが苦手だった。だが、一度決まった手順を繰り返すときは速かった。僕は逆だった。指示の意味を確認することには慣れていたが、体が意味に追いつくまで時間がかかった。

 三日目、補修を終えたかごの数を安西が確認した。

「百七十九」

 僕が言うと、安西は数え直した。

「百八十だろ」
「札は百八十あります。ただ、十二番の札が二枚あります」

 かごの側面についた金属札は塩で黒ずみ、数字の一部が消えていた。一枚は十二ではなく、百十二だった。百十二番のかごは別の列へ紛れていた。

「見つけたから何だ」

 安西は言った。

「次から札じゃなく、かごも見ろ。番号が正しくても、網が破れてりゃ使えねえ」
「はい」

 褒められたわけではない。それでも、その日から安西は補修済みの数を僕にも確認させた。

 次の出港を翌日に控えた夜、津田と二人でコインランドリーへ行った。船の洗濯機は作業着で埋まり、私服を洗う順番が回ってこなかった。

 回転する乾燥機の前で、津田は自動販売機のコーヒーを飲んだ。

「妹がいるんです」

 唐突に言った。

「二つ下。美容の専門学校行ってて。親と揉めて家出たんですけど、部屋の名義、俺なんですよ」
「家賃を払っている?」
「半分だけ。バイトしてるけど足りないんで」
「津田君の借金は」
「消費者金融と、スマホの後払いと、友達から。全部で百八十くらい」

 僕の七百四十万円より小さい。だが、津田には津田の収入しかなかった。

「妹さんは、船に乗ったことを」
「倉庫の仕事って言ってます」
「嘘ですね」
「校閲しないでくださいよ」

 津田は笑った。

「心配するんで。半年で減らして、普通の仕事に戻ってから言います」
「普通の仕事とは」
「海じゃない仕事です」

 乾燥機の中で、赤い下着と黒い靴下が一緒に回っていた。津田は僕の友人について聞かなかった。船では、人が何を背負って乗ってきたかを尋ねないのが礼儀なのかもしれなかった。

 僕はその礼儀に助けられた。同時に、誰にも説明しなくてよいことを、少しだけ寂しいとも思った。

 休みの二日目、以前の上司から留守番電話が入った。

〈新藤。生きているなら、一度だけ連絡をください。戻る戻らないの話ではありません〉

 戻る戻らないの話ではない、と先に書かれていた。それでも僕は返信しなかった。

 留守番電話をもう一度だけ再生し、削除も返信もせず、携帯電話を伏せた。翌朝の集合は四時半だった。目覚ましを三時五十分に合わせた。


 二度目の寄港中、僕は上司へ電話をかけた。呼出音が三回鳴り、切った。何を伝えるか決めていなかった。借金のためにカニを獲っています。会社へ行けなくなった理由は、まだ分かりません。戻りたいかどうかも分かりません。どれも報告として不十分だった。

 すぐに着信が返ってきた。僕は画面を見たまま、出なかった。船では、安西が右と言えば右へ動けばいい。郷田が戻ると言えば港へ向かう。陸では、自分で返事を決めなければならない。

 逃げ場所がないと思って船へ来たが、海の上には、返事を先延ばしにできる場所があった。それを回復と呼んでよいのかは分からなかった。

 二度目の航海を終えた夜、黒沢が全員へ細長い紙を配った。仮精算票だった。固定給、航海手当、漁獲配分見込額。そこから返済委任額が引かれ、僕の欄にはさらに、就労準備費十二万円、生活支援費三万円、債務管理事務費四万八千円、交通費一万九千四百円と並んでいた。食事代の控除はない。船内の食費は会社負担と契約書に書かれていた。

「生活支援費とは何ですか」

 僕は黒沢に聞いた。

「私に聞かないで」
「この紙を作ったのは黒沢さんでは」
「会社から来た数字を転記しただけ」
「就労準備費の内訳は」
「木戸に聞けば」
「北洋の担当ですよね」
「東央の窓口もやってる」

 僕の固定給と手当は合計で四十二万円だった。法定控除のあと、本人名義の口座に五万円が残され、現金支給分を合わせて東央管理へ送られた金額は三十六万円だった。そのうち、今回の精算で元金へ充てられたのは、九万二千円。残りは利息と、いま見た四つの費用になっている。この速度なら、半年で借金は終わらない。一年でも難しい。

 津田が自分の紙を見せた。

「俺、元金が三万しか減ってないんですけど」

 津田の就労準備費は二十万円だった。

「僕と金額が違います」
「何か多く借りたのかな」
「東京から港までの交通費は」
「自分で払いました」
「雨具と長靴は同じです」

 津田は精算票を折った。

「会社に聞いたら、次の船に乗れなくなりませんか」
「瑞宝水産と東央管理は別です」
「そういう別って、本当に別ですか」

 答えられなかった。契約書では別だった。けれど、説明したのは同じ男で、同じ机の上に二社の書類が並んでいた。僕は精算票の会社名を二度見比べた。

 寄港中、僕は東央管理の窓口へ行った。港から歩いて十五分ほどの雑居ビルで、北洋就労サポートと同じ階にあった。受付には木戸が座っていた。赤い帽子は机の上に置かれていた。

「生活支援費の内容を教えてください」
「連絡、宿の手配、病院、就労の継続相談」
「今月、相談はしていません」
「いつでもできる体制の費用」
「津田君は僕より二万円高い」
「契約が違う」
「何が違いますか」
「個別のことは言えない」
「本人が横にいれば」

 津田は入口の外で待っていた。呼ぶと、渋々入ってきた。

「俺、聞かなくていいです」
「なぜですか」
「次の航海、乗れなくなったら困る」

 木戸が椅子へもたれた。

「そんなことで外さないよ」
「本当ですか」
「本当」
「書いてもらえますか」

 僕が言うと、木戸は僕を睨んだ。

「新藤さん、こういうの、全員がやったら仕事にならない」
「全員に同じ説明をすれば、一度で済みます」

 木戸は机の引き出しから、費用一覧を出した。津田の生活支援費が高いのは、緊急連絡先への連絡代行と、保証人不在対応が含まれるからだという。

「緊急連絡先は妹です。連絡していませんよね」

 津田が初めて自分から聞いた。

「必要になればする」
「連絡してないのに、払うんですか」
「体制の費用だから」

 津田は一覧を見た。

「やっぱり、俺も新藤さんと同じにできます?」

 木戸は、次月からなら、と答えた。

 事務所を出ると、津田はため息をついた。

「面倒でした」
「二万円減りました」
「半年なら十二万円です」
「数字で言うと、得した感じしますね」

 津田は少し歩いてから笑った。

「新藤さん、嫌われるけど、使えるときありますね」
「褒めていますか」
「たぶん」

 その夜、僕は自分の残債を計算し直した。七百四十万円。最初の精算と合わせ、二航海で元金が十二万円余り減った。この速度なら、二期で終わる計算にはならない。

 ただし漁獲配分は航海ごとに違う。良い月には大きく減ると木戸は言う。僕は、最良の場合、平均の場合、最悪の場合の三つをノートへ書いた。

 最良の場合でも、一期で終わる数字にはならなかった。

 翌日、榊原へ電話した。

「一期で大きく減る、と言いましたね」
〈減ってるだろ〉
「二航海で、元金が減ったのは十二万円です」
〈まだ最初だ。漁次第だろ〉
「二期乗れば終わるという説明でした」
〈二期目の話は、そのときしろ〉

「今後の説明は、書面でください」
〈おまえ、本当に面倒だな〉

 電話は切れた。

 その夜、木戸から短いメッセージが来た。

〈契約どおりに確認しただけ、って顔してたな〉
〈契約どおりに確認しただけです〉
〈そういう言い方が嫌われる〉
〈知っています〉

 既読のまま、返事はなかった。

 ノートの新しいページに〈要確認〉と書いた。会社間の関係。就労準備費の内訳。生活支援の内容。管理事務費の算定方法。返済前後の残高。津田との金額差。

 山城が、僕の肩越しに覗いた。

「日記ですか」
「違います」
「何です」
「分からないことです」
「海で分からないこと数えたら、寝る時間なくなりますよ」
「数えなくても、なくなるものではありません」
「書いたら減ります?」
「少なくとも、同じ疑問を二度考えなくて済みます」

 山城はノートを閉じた。

「俺の名前は書かないでください」
「書いていません」
「ならいいです」
「何か困ることが?」
「誰にでもあるでしょう」

 彼は甲板へ出た。分からないものを想像だけで補うのは、校閲では最も避けるべきことだった。僕は山城の名前を書かなかった。

 三度目の航海は、漁が悪かった。

 その航海で、別の船の若い甲板員が海へ落ちたと無線で聞いた。救助され、命に別状はなかった。食堂でその話が出ると、山城は「運がよかったな」と言った。安西は、運じゃない、と否定した。

「救命胴衣を着けてた。見張りがすぐ気づいた。救助の手順をやった。運で片づけるな」

 津田が黙って自分の救命胴衣の留め具を確かめた。安西は人を怒鳴り、傷んだ道具を使い、漁獲量を気にした。それでも安全を軽んじているわけではなかった。安全を守るには金が要り、金を稼ぐには危険な場所へ出なければならない。その二つを毎日同じ人間が判断していた。

 七日目、船の衛星電話に安西あての連絡が入った。食堂の隅で、彼は小さな声で話していた。

「分かってる。月末には入れる。母さんにはそう言え」

 通話を切った安西に、津田が尋ねた。

「娘さんですか」
「聞くな」
「すみません」
「謝るな」

 安西は空になった湯飲みを見た。

「別れたあとも、毎月家に入れてる。今月は足りねえ」
「大変ですね」

 津田が言った。

「大変じゃない家があるのか」

 安西は立ち上がった。その夜以降、彼が一かごの漁獲量に神経質になる理由が分かった。船を早く戻せば燃料を節約できる。仕掛けを置けば、次の航海まで漁場を確保できる。

 時化しけを避ければ安全になる。避けた分だけ、水揚げが減る。どの判断にも、人の体と金額が同時に入っていた。

 航海の途中、会社から衛星電話が入った。翌々日に低気圧が通る予報だった。郷田は仕掛けを回収し、早めに港へ戻るつもりだった。電話の声は操舵室の外まで聞こえた。

「あと一日できる」

 郷田が言う。

「できることと、やることは違う」

 相手の声は聞こえなかった。

「価格が上がってるのは知ってる。だから全船出てる。帰りが重なれば市場で下がる」

 郷田は受話器を少し耳から離した。

「俺が決める」

 電話を切ったあと、安西が操舵室へ入った。

「一日やれます」
「風が変わる」
「明日の昼までは持つ」
「戻りが向かい風になる」
「今期、まだ枠が残ってる」
「枠は来月でも使える。人は替えが利かん」

 安西は納得していなかった。それでも、指示には従った。僕たちは仕掛けを回収し、予定より一日早く港へ戻った。

 翌日、海は荒れた。郷田の判断が正しかったと全員が言った。郷田は何も答えず、次の漁場の数字を見ていた。

 三度目の寄港で、木戸が作業用手袋を十組持ってきた。北洋の担当として、必要なものを差し入れに来たのだという。

「この前の薄いやつ、濡れると滑るだろ」

 木戸は津田へ厚手の手袋を渡した。

「ありがとうございます」
「礼は会社に言え」
「木戸さんが選んだんじゃないんですか」
「サイズ見ただけだ」

 彼は僕の手も見た。破れた水膨れの上に、新しい皮ができていた。

「おまえ、少し船員の手になったな」

 曲がった薬指で僕の指先を示し、手袋を投げた。

「紙ばっかり見てる手じゃなくなった」

 それが褒め言葉なのか、戻れなくなったという意味なのか分からなかった。

 次の航海で、津田は僕より早く、揚がってくるかごの順番の乱れに気づいた。枝縄の間隔が一か所だけ短く、二つのかごがほとんど続けて海面へ出た。

「次、すぐ来ます!」

 津田が叫んだ。安西が選別台のカニを横へ掃き、山城が空いた場所へかごを倒した。僕は一拍遅れた。

 作業が落ち着いたあと、安西は津田へ、よく見たな、とだけ言った。

 津田はその夜、食堂で何度も同じ話をした。

「安西さん、よく見たなって言いましたよね」
「言った」
「聞き間違いじゃないですよね」
「録音しておけばよかったですね」
「新藤さんなら、褒められても赤入れそう」

 津田が笑い、山城も笑った。

 僕は、津田が作業を覚えていないと思っていた。安西に怒鳴られた場面ばかり覚えていた。

 その夜、黒沢が残った野菜で塩味のスープを作った。食堂の椅子に座ったまま眠り、目を覚ますと、肩に乾いたタオルが掛かっていた。黒沢は鍋を洗い、山城は寝台に戻り、安西は操舵室にいた。誰が掛けたのかは聞かなかった。

 タオルを畳んで棚へ戻し、次の交代まで二十分だけ眠った。

 その航海の水揚げはよかった。ただ、大きさは揃わず、同じ重量でも箱ごとに値が分かれた。殻が硬く、脚の揃った大きなものには札が集まり、色の薄いものは最後まで残った。

 津田と僕は、濡れた箱を黙って次の列へ運んだ。


 津田が怪我をしたのは、五度目の航海の明け方だった。

 その前の晩、津田は食堂で安西に頼んでいた。

「明日、揚縄機の横、やらせてもらえませんか」
「まだ早い」
「山城さんについてもらえばできます」
「できるのと、任せられるのは別だ」

 津田は引き下がらなかった。餌づけと選別だけでは、いつまでたっても一人前として数えられない、と言った。

「数えられてるよ」

 黒沢が食器を洗いながら言った。

「飯は六人分じゃなく七人分作ってる」
「そういう意味じゃなくて」

 津田は笑わなかった。

「俺がいなくても、餌は誰かがつけられます。選別も、まだ新藤さんより遅いし」
「最後の一言はいらないと思います」
「事実じゃないですか」

 事実だった。僕は雄の甲幅と殻の硬さを見分ける速度では津田より少し速くなっていた。しかし、揺れる甲板で同じ姿勢を保ち、一定の間隔で餌を取りつける作業は津田のほうが正確だった。

 安西は味噌汁を飲み終えるまで答えなかった。

「最初の一時間だけだ。山城の左に立て。レバーには触るな。縄がガイドに斜めに入ったら、手を出さず声を出せ」
「はい」
「聞こえねえ」
「はい!」
「甲板でその返事ができりゃいい」

 寝る前、津田は船員室に置かれた安全作業手順書を開いていた。端が湿気で波打ち、油の染みがついている。

「試験でもあるんですか」

 僕が聞くと、津田は頁から目を上げなかった。

「新藤さん、問題出してください」
「僕は教官ではありません」
「読むの得意でしょ」

 仕方なく、揚縄機周辺の注意事項を順に尋ねた。

「幹縄に異常を認めた場合」
「作業責任者へ合図。機械を停止して、張力が抜けるまで近づかない」
「枝縄がガイドへ斜めに入った場合」
「手で直さない。声を出す。停止を確認する」
「手袋が巻き込まれた場合」
「無理に抜こうとしない。非常停止」

 すべて答えた。

「覚えているなら大丈夫です」

 僕が言うと、津田は手順書を閉じた。

「覚えてるのと、できるのは別なんでしょう」

 安西の言葉を使っていた。

「怖いんですか」
「怖いですよ。でも、怖いって言ったら、ずっと餌係のままじゃないですか」
「餌係も必要な仕事です」
「新藤さんは、そういう言い方できますよね」
「どういう」
「いまいる場所にも意味がある、みたいな」

 津田は寝台へ上がった。

「俺は、次に行きたいんです」

 翌朝、津田は山城の左側に立った。最初の四十個までは、安西が一度も怒鳴らなかった。浮いてくるかごの位置を読み、枝縄を踏まず、山城の手元を邪魔しない。四十五個目で山城が親指を立てた。津田は嬉しそうに見えたが、こちらを振り返りはしなかった。

 一時間を過ぎても、安西は交代を命じなかった。

 六十個を越えた頃、風が強くなった。操業を止めるほどではなかった。甲板には波しぶきが凍り、黒い滑り止めの上に薄い膜を作っている。

 七十個目を上げた直後、山城が船尾側の枝縄の絡みを外すため、持ち場を二歩離れた。

「そこ動くなよ」

 安西が津田へ叫んだ。

 七十二個目のかごを引き上げたとき、枝縄が揚縄機のガイドへ斜めに入った。

「触るな!」

 安西が叫んだ。津田は聞こえなかったのか、絡みを直そうと手を出した。船が右へ傾いた。幹縄が張った。津田の右手が、縄と金属ローラーの間へ引き込まれた。

 音がした。太い枝を折ったような、短い音だった。津田は叫ばなかった。口だけが開いた。

「止めろ!」

 安西が油圧レバーを倒した。機械が止まる。山城が縄を緩める。僕と安西で、津田の手を引き抜いた。手袋は裂けていた。

 人差し指の付け根から血がにじみ、薬指と小指が不自然な角度に曲がっていた。

「動かせるか」

 安西が聞いた。津田は指を動かそうとした。親指だけが少し動いた。

「大丈夫です」
「大丈夫なわけないだろ」
「すみません」
「謝るな!」

 黒沢が救急箱を持ってきた。出血を押さえ、手を固定する。

「指先、感じる?」
「少し」
「少しって」
「触ってるのは分かります」

 黒沢は爪を押した。白くなった色が戻るまで時間がかかった。

「郷田さん」

 黒沢の声が変わった。

「戻ったほうがいい」

 郷田が操舵室から降りてきた。津田の手を見る。

「港まで十三時間」
「待てないかもしれない」
「仕掛けがまだ二連近く、海にある」
「場所は記録してる。あとで回収できる」
「時化が来る」
「だから今戻る」

 黒沢は即答した。安西が言った。

「まず医療相談に無線入れろ。血流があるなら、この一連だけ上げてからでも」
「残りは百個以上ある。三時間はかかる」
「残したら、一連ごと流されるかもしれん」
「指が壊死したら戻らない」

 津田が上体を起こした。

「俺、大丈夫です。続けてください」

 声が震えていた。

「俺のせいで戻ったら、みんなの金が」

 安西が郷田を見た。

「本人もそう言ってる」

 本人。あの部屋で立てられた三本の指を思い出した。

「津田君がそう言う理由を、判断材料にしていいんでしょうか」

 僕は言った。安西が振り返る。

「何」
「自分のせいで全員の配分が減ると思っています。その状況での大丈夫は、怪我の程度を示す言葉ではありません」
「おまえは医者か」
「違います」
「なら黙ってろ」
「以前、圧挫損傷の応急手当の本を校閲しました」
「本の話してんじゃねえ!」
「処置が遅れるほど、残せる組織が減ります」
「可能性なら何でもある!」

 安西が僕の胸を押した。背中が壁に当たった。

「戻ったら、おまえも金が減るんだぞ。おまえの借金は延びる。俺は家に入れる金が足りなくなる。山城だって一航海延びる。こいつ一人の手だけの話じゃねえ」
「だから、津田君一人に決めさせるべきではありません」
「正しいこと言ってる顔すんな!」

 安西がもう一度、僕を押した。

「安西」

 郷田が言った。大きな声ではなかった。安西が手を離す。郷田は黒沢に聞いた。

「固定は」
「した。鎮痛剤も飲ませた。でも専門の病院が要る」

 郷田は操舵室へ戻った。しばらくして、エンジン音が変わった。船が旋回する。海に残した仕掛けから離れ、港の方角へ向き直った。津田は泣き始めた。

 痛みのためではなかった。

「すみません」

 今度は誰も、謝るなと言わなかった。

 港へ戻るまで十四時間かかった。津田は救急車で病院へ運ばれた。黒沢と僕も病院へ向かった。骨折が三か所。腱の損傷。血管の損傷。手術は夜通し続いた。

 夜が明ける頃、手術が終わった。

「指は残せるそうです」

 看護師が言った。黒沢は小さく息を吐いた。あと数時間遅ければ、二本の指を残せなかった可能性があると医師は言った。僕は安心した。その時点では、戻った判断は正しかったと思った。安西は船から降りなかった。

 手術が終わった朝、郷田たちは、置いてきた仕掛けを回収するため海へ戻ることになった。僕は病院に残るつもりだったが、黒沢から船へ戻れと言われた。

「津田の家族じゃない」
「一人になります」
「看護師がいる。あんたは船員」

 冷たい言い方だった。だが、僕が津田のそばにいることを、自分の正しさを確認するために使い始めていたのかもしれない。僕は病院を出て、船へ戻った。

 残した仕掛けのうち、三十個ほどは流されていた。残りのかごにはカニが入っていたが、長く置きすぎたため餌がなくなり、共食いで傷ついたものが多かった。安西は黙って選別した。商品にならないカニを海へ戻す。一匹ずつ投げる手が、いつもより荒かった。損失は計算できた。

 津田の指が残った価値を、同じ表へ入れる欄はなかった。

 回収を終えて港へ戻ると、黒沢も病院から戻っていた。安西は作業を終え、食堂のテーブルで水揚げ見込額と損失を計算していた。

 流されたかご三十個。緊急帰港の燃料。操業中断。次の出港までの整備費。

「今月、家に入れる金が足りなくなった」

 安西が言った。

「それは」
「謝るなよ」

 紙を二つに折る。

「おまえが間違ってたとは言わねえ」

 僕は黙った。

「それだけだ」

 安西は食堂を出た。黒沢が、飲みかけのコーヒーを流しへ運んだ。

「何か言わないんですか」
「何を」
「戻るべきだった、と」
「戻るべきだったよ」
「なら」
「その計算に、安西の家のことまでは入らないでしょ」

 黒沢はカップを洗った。

「だからって戻らなかったら、津田の指がなくなってた。どっちも本当。それ以上、きれいにまとめないで」

 僕はノートを開かなかった。書けば、何かを整理したことになる。その夜は、整理したくなかった。

 回収から戻った翌日、僕は病室へ行った。津田は眠っていた。右手は胸の高さに吊られ、指先だけが包帯から出ていた。

 ベッド脇の椅子に座ると、彼は目を開けた。

「船、どうでした」
「三十個ほど流されました」
「いくらですか」
「まだ分かりません」
「安西さん、怒ってますよね」
「怒っています」

 嘘をついても仕方がなかった。

「新藤さんが戻れって言ったんですか」
「最終的に決めたのは郷田さんです」
「でも、言いましたよね」
「言いました」

 津田は天井を見た。

「ありがとうございます、って言ったほうがいいですか」
「必要ありません」
「助かったのに?」
「津田君が決めることです」
「そういう言い方、ずるいですね」

 僕は返事ができなかった。

「俺、続けてくれって言ったんです。本気でした。怖かったけど、みんなの金が減るほうがもっと怖かった。あれ、俺の意思じゃないんですか」
「意思ではないとは言っていません」
「じゃあ何です」
「判断に使うには、別の圧力が大きすぎたと思いました」
「難しい言い方しないでください」

 津田は左手でシーツをつかんだ。

「俺の手なのに、俺より新藤さんのほうが分かってるみたいに言われると、腹立ちます」
「すみません」
「安西さんに怒られますよ」

 津田は笑わなかった。

 僕は病室を出た。自分が間違っていたとは思わなかった。だからこそ、津田の怒りをどこへ置けばよいか分からなかった。

 船へ戻ると、僕の寝台の上に、上司から届いた封書が置かれていた。アパートを出るとき、郵便物の転送先を北洋の事務所にしていた。そこから船へ回されたらしい。

 中には、退職日の通知と、短い便箋が一枚あった。

〈返事をしないことを、返事として処理しました。責めるつもりはありません。ただし、あなたが何も選ばなかったことにはしません〉

 僕は便箋を元の折り目に沿って畳み、封筒へ戻した。返信画面を開いたが、何も打たずに閉じた。


 津田の怪我は、仕事中の災害として処理された。治療費と休業中の補償について、必要な手続きが進められていることは、病院でも確認できた。

 問題になったのは、その外側だった。

 事故から一週間後、津田が見せてきたのは、法定の報告書そのものではなく、瑞宝水産が保険会社への説明用に作り、東央管理を通じて署名を求めてきた〈事故経過確認書〉だった。

 事故発生時刻は午前六時十五分。

 作業内容は〈揚縄作業終了後の自主的な漁具整理〉。

 原因は〈本人が甲板長の明確な制止に反し、許可なく機器へ接近したこと〉。

 あとで確認した船の日誌では、事故時刻は午前五時四十二分だった。その時刻、僕たちは操業中で、次のかごが上がっていた。

「安西さんの、触るなって声は」

 津田が言った。

「聞こえなかったんです」
「聞こえなかったことと、操業が終わっていたことは別です」
「でも、俺が手を出したのは本当です」
「一部が本当でも、全体が正しいとは限りません」

 確認書には、会社から特別見舞金として五十万円を支払う代わりに、設備や安全管理上の追加責任を問わない、という条項があった。法定の補償とは別だと書かれている。

「署名するんですか」
「迷ってます」
「設備に問題がなかったと確認できますか」
「分かりません」
「なら、少なくともこのままは」
「五十万、今週入るそうです」

 津田は包帯を見た。

「妹の家賃、俺が払ってるんです。母親には倉庫で働いてるって言ってて。怪我のことも言えない」
「専門家に相談したほうが」
「相談してる間の家賃は、誰が払うんですか」

 答えられなかった。

 僕は津田の許可を得て、確認書の全頁を携帯電話で撮った。

「新藤さんは正しいですよ」

 津田は言った。

「船戻したのも、たぶん正しかった。俺の指、残ったし。でも、正しいことって、先に振り込まれないんですよね」

 病院を出ると、木戸が待っていた。黒いジャージではなく、紺色の防寒着を着ていた。

「久しぶり」
「なぜここに」
「津田の様子見」
「東央管理の依頼ですか」
「榊原さんに言われた」
「同じ意味では」
「細けえな」

 木戸は海の方向へ歩き出した。僕もついていった。

「津田は署名する」
「本人に聞いたんですか」
「金が要る」
「それは署名したいという意味ではありません」
「俺のときも同じだった」

 木戸は立ち止まり、曲がった薬指を見せた。

「かごのワイヤでやった。治療はされた。見舞金も出た。俺は紙に書いた。自分で手を出したって」
「事実だったんですか」
「半分は」
「残り半分は」
「船長が、急げって言った。機械の調子が悪かった。どこまで書けばいい」
「起きたことを」
「全部書いたら、誰かの責任になる」
「責任があるなら」
「責任のない仕事なんかあるか」

 木戸の声が強くなった。

「俺は金もらって、船を降りた。榊原さんが陸の仕事をくれた。妹は高校を出た。おふくろは家を追われなかった。紙が少し違ってたからって、あの三年まで嘘にすんな」
「木戸さんの三年を嘘だとは言っていません」
「同じだよ」
「違います」
「言葉を分けて、金が増えるか?」

 増えない。だが、言葉を一緒にすれば、誰が何を負担させられたのか分からなくなる。

 木戸は封筒を出した。僕の返済明細だった。事故帰港で航海手当と漁獲配分が減り、元金への充当は一万八千円。生活支援費と債務管理事務費は、前月と同じ額だった。

「それで生活できるのか」

 木戸は笑わなかった。

「できません」
「なら黙って乗れ」
「津田君の確認書が正しくなるまでは、黙れません」
「津田は書く。本人が決める」
「その言い方を、榊原さんから習ったんですか」

 木戸の顔が変わった。

「俺をあの人と一緒にすんな」
「では、どう違うんですか」
「俺は海を知ってる」

 木戸は曲がった指を握った。

「乗るやつが、何を怖がるか知ってる。船がなかったらどうなるかも知ってる。だから送ってる」
「三択を迫って」
「あれは榊原さんの言い方だ。おまえには俺は言ってない」
「止めもしなかった」
「止めたら、おまえはどこへ行った」
「分かりません」
「だろ」

 船に乗らなければ、僕はあの冬を越せなかったかもしれない。第八瑞宝丸には食事と寝床があり、毎朝やることがあった。木戸が差し出した道が、救いでなかったとは言い切れない。

「木戸さんは、借金をいくら返したんですか」
「終わったって言っただろ」
「元金と支払総額は」
「知らねえ」
「明細は」
「捨てた」
「なぜ」
「終わったからだよ」

 木戸は苛立ったように指を擦った。

「船に乗る前、電話が鳴るたび吐いてた。三年後、残高ゼロって紙をもらった。それで十分だった」
「余計に払っていた可能性があっても?」
「返せなかった俺が悪い。余計も何もない」

 木戸は歩き出した。

「おまえ、船で嫌われるって言っただろ」
「言われました」
「もう嫌われてるぞ」
「知っています」

 安西の顔を思い出した。

「でも、嫌われても乗れるうちはましだ。降りたら、誰もおまえの飯を出さない」

 それも本当だった。

 津田は翌日、事故経過確認書へ署名した。

〈これでいいです〉

 短いメッセージが届いた。何に対する「いい」なのかは分からなかった。

 次の航海に津田は乗らなかった。代わりに、二十歳の佐倉という男が来た。木戸は、彼を「未経験ですが元気です」と紹介した。本人は一度も元気だとは言わなかった。佐倉は返事が小さく、何かを聞かれるたび、先に周囲の顔を見た。

 出港前、僕は返済委任書を読むよう言った。

「読みました」
「控除の内訳は」
「説明を受けました」
「何にいくらか」
「新藤」

 安西が呼んだ。

「他人の契約に口を出すな」
「本人が理解しているかを」
「おまえが試験することじゃねえ」

 佐倉は俯いていた。僕は黙った。佐倉は作業を覚えるのが速かった。速いというより、怒られない形を覚えるのが速かった。指示を受けるまで手を出さず、安西に「遅い」と怒鳴られると、次からは確認せず動いた。

 安西が見ているときは救命胴衣のベルトを二度確かめ、いなくなると一つ外した。締めたままだと、かごへ身を乗り出しにくいからだった。

「外さないほうがいいです」

 僕が言うと、佐倉はすぐ留め直した。

「新藤さんが言ったからじゃなく、自分で危ないと思ったなら留めてください」
「どっちでも同じじゃないですか」

 佐倉は困った顔をした。

 同じではないと言おうとして、津田の病室で言われたことを思い出した。僕はそれ以上言わなかった。

 佐倉は、餌を詰める作業だけは最初から速かった。冷凍庫から出した魚を鉈で割り、袋へ決まった数ずつ入れる。魚の油で手袋が滑り、船酔いとは別の吐き気がする匂いだった。

「数、合ってますか」

 僕が聞くと、佐倉は袋を一つ持ち上げた。

「五本ずつです」
「さっきの列は四本の袋がありました」

 佐倉は顔色を変え、並べた袋を全部確認し始めた。

「全部やり直さなくていいです。四本の袋だけ足せば」
「でも、ほかも間違ってるかもしれない」
「確認した列は合っていました」
「本当に?」
「はい」

 佐倉はしばらく僕の顔を見ていた。人から「合っている」と言われることに慣れていないようだった。

 佐倉の借金は、父親の軽トラックの名義を貸したことで残ったものだった。父親は仕事を辞め、車だけを残していなくなった。母親はまだ戻ると思っている、と佐倉は言った。

「ほかの方法は調べましたか」

 佐倉は箸を止めた。

「その聞き方、調べてない俺が悪いみたいです」
「そう聞こえましたか」
「はい」

 僕は「すみません」と言いかけ、味噌汁を飲んだ。佐倉もそれ以上は話さなかった。

 翌日、佐倉は餌袋を数える前に、自分で一列ずつ札を置いた。五袋ごとに白い札。二十袋ごとに赤い札。僕が何も言わなくても、最後の数は合っていた。

 海底に長く置かれたかごは、リングまで白い付着物で詰まっていた。僕と佐倉は休憩のあいだ、安西に止められるまで洗った。

 港へ戻ると、会社から次の出港を一日早めたいという連絡が来た。市場価格が上がっていた。帰港後の点検で、揚縄機の安全カバーを留める金具に歪みが見つかった。郷田は、部品を交換するまで出ないと言った。

「部品は明後日です」

 専務が電話で言った。

「応急で使える」
「使えることと、出ることは違う」

 以前、郷田が低気圧について言ったのと同じ言葉だった。

 安西は電話の横で黙っていた。月末まで、二週間を切っていた。僕は彼が会社側につくと思った。

「部品待ちます」

 安西は言った。

「佐倉、機械の近くへ寄りすぎるんで」

 佐倉は自分のことだと気づかず、餌袋を数えていた。

 船は一日、岸壁に残った。価格は翌日に少し下がった。安西はその数字を見て、伝票を裏返した。


 安全カバーを交換した翌朝、第八瑞宝丸は出港した。

 僕にとって七度目の航海だった。

 航海中、黒沢が古いファイルを見せた。

 過去四年分の精算票と、前の司厨員から引き継がれた事故記録の控えだった。事故記録は古いもので十年近く前まで遡る。捻挫。裂傷。低温やけど。揚縄機への巻き込まれ。

 船の日誌と会社の報告では、事故時刻や作業内容が少しずつ違っていた。

「船長は知っていますか」
「自分が書いた日誌は知ってる」
「会社の報告は」
「見せてないと思う」
「黒沢さんは、なぜ残したんですか」
「捨てろと言われなかったから」

 ファイルの中には、山城の返済明細もあった。三年前、四百八十万円。現在、四百十二万円。彼は三年間働き、六十八万円しか減っていない。

「どうして、会社へ出した記録まで持っているんですか」

 僕が聞くと、黒沢はファイルの角を揃えた。

「前の司厨員が残してた」
「その前から?」
「たぶん十年くらい。食材の仕入れ表と一緒に」

 古い紙には、今は船にいない名前が並んでいた。腰痛で下船。指の裂傷。転倒。胃潰瘍。事故とは呼ばれない体調不良もあった。

「捨てようと思わなかったんですか」
「思ったよ。場所取るし」
「では、なぜ」

 黒沢は、いちばん古い紙を開いた。

 事故欄に、〈本人の不注意〉とだけ書かれていた。その横へ、別の筆跡で小さく、〈投光器故障中〉とあった。

「この人、暗い甲板で足を切った。会社の紙には、よそ見してたって書かれた」
「黒沢さんが追記したんですか」
「前のコック」

 黒沢は紙を戻した。

「捨てたら、会社の記録しか残らないから」

 それ以上は言わなかった。

 黒沢はファイルを閉じ、僕へ差し出した。

「持ってて。船に置いたままだと、会社に見つかる」
「外へ出すかは、まだ決めていません」
「それでいい。なくさないで」

 翌日、僕は郷田に、北洋を使い始める前のことを聞いた。

「人はどうやって集めていたんですか」
「漁師の息子。親戚。知り合い」
「今はいない?」
「乗らん。町を出る。残ったやつも沿岸へ行く。九日沖にいて三日陸、また九日、を半年やるより、毎晩家に帰れる仕事を選ぶ」
「給料を上げれば」
「上げるには水揚げを増やす。枠がある。燃料も上がる。船も古い」
「では、北洋がなければ」
「二年前に止まってた」

 郷田は淡々と答えた。

「最初に北洋から来た三人は、全員最後まで乗った。会社は喜んだ。俺も喜んだ」
「借金があるから辞めなかった」
「そうだ」
「それを知っていた?」
「途中で分かった」
「それでも使った」
「使った」

 郷田は言い訳をしなかった。

「俺は、人がいなけりゃ船を出せない。北洋は、降りない人間を連れてきた。どっちも必要なものを手に入れた」
「連れてこられた側は」
「飯と寝床と給料を得た」
「それだけですか」
「それだけじゃないから困ってる」

 郷田は海図を畳んだ。

「簡単に悪いと言えるなら、とっくに切ってる」

 その夜、山城に、ファイルの中の返済明細を見たことを伝えた。

「見ました」
「そうですか」
「なぜ乗りつづけるんですか」
「一回、逃げたから」

 山城は甲板の縁に背を預けた。

「日雇いやってたら、実家に電話が行った。俺が昔やったことを母親に話すって」
「何をしたんですか」
「言いたくない」
「分かりました」
「聞かないんですね」
「言いたくないと聞いたので」

 山城は海を見た。

「新藤さん、俺の紙、外に出さないでください」
「津田君の件を証明する資料になる可能性があります」
「俺は同意しません」
「分かりました」
「本当に?」
「はい」

 約束した。守るつもりだった。山城と話したあと、僕は郷田の操舵室へ行った。

「過去の事故報告を見ました」

 郷田は海図へ鉛筆で印をつけていた。

「黒沢か」
「船の日誌と会社の記載が違います」
「俺は日誌しか書かん」
「違う形で提出されていることは」
「前から疑ってた」
「確認しなかったんですか」
「した」

 郷田は鉛筆を置いた。

「会社は、本人の不注意を詳しく書けと言った。俺は事実だけ送った。向こうが何を足したかは見せなかった」
「それで終わりですか」
「船員を直接雇えと言われても、人が来ない。北洋を切れば、次の漁期は出せない。会社は船を売る」
「だから報告が変わっても」
「いいとは言ってない」
「では、なぜ」
「おまえは、答えが二つしかないと思ってる」
「黙るか、告発するか」
「そうだ」
「ほかにあるんですか」
「探してる」
「いつから」
「北洋を使い始めてから」
「三年です」
「海では、三年でも見つからんものがある」

 郷田は窓の外を見た。

「だからといって、探している人間が正しいわけじゃない。ただ、何も考えず黙ってるのとは違う」

 僕はその違いを認めた。認めても、津田の報告が変わった事実は消えなかった。航海の終盤、安西が黄色いテープを巻いた幹縄を見つけた。

「次の陸で替える」

 繊維の表面が擦れていた。

「いま替えたほうが」
「芯までは行ってない」
「切れたら一連を失います」
「十五分で済むと思うな。継ぎ替えたら全体を見る。今日のうちに入れられなくなる」

 安西はテープを二重にした。

「俺が扱う」

 翌日、その縄は投入中に切れた。破断した端が甲板を走り、安西の肩をかすめた。雨具が裂けた。皮膚に赤い線が残っただけだった。海へ落ちたかごは回収できなかった。

 安西は切れた縄を見た。内側の繊維は茶色く変色していた。

「替えるべきでした」

 僕は言った。

「分かってる」
「昨日」
「分かってる!」

 彼は縄を甲板へ投げた。その夜、安西は食堂で一人、酒を飲んでいた。しばらく黙ったあと、裂けた雨具を見た。

「金がないと、替えるものを後に回す」

 それだけ言った。僕は、その言葉の続きを作らなかった。


 手のひらの水膨れは消え、指の付け根に硬い皮が残った。朝、寝台から起きると両手がすぐには開かない。一本ずつ曲げ伸ばしてから雨具の袖へ通すのが、出番前の手順になっていた。

 かごを送る順番を考えずに動けるようになっていた。幹縄の角度が変われば、海面へ次のかごが近づいていると分かった。殻の色と腹側を見て、残すか戻すかを迷う時間も短くなった。

 安西が僕を呼ぶことは減った。呼ばなくても、必要な場所にいるようになったからだ。

 それが嬉しかった。

 船の仕組みを疑い、書類を集めながら、僕はこの仕事を失いたくないとも思っていた。

 海へ出れば、東京の会社から届いた封書も、債権者からの電話も届かない。食事の時間になれば黒沢が呼び、眠れる時間になれば誰かが交代する。自分で明日の予定を決めなくても、次のかごが上がってくる。

 僕は船に救われていた。

 だから、船を止めるかもしれない書類を外へ出すことを、正義だけで決めたわけではなかった。出したくない理由も、出したい理由と同じくらいあった。

 その航海で、商品にならない大きなカニが一匹上がった。甲羅は十分に硬く、幅もある。ただ、脚が三本欠け、腹側に深い傷があった。

「これは?」

 佐倉が聞いた。

「市場には出さない」

 安西が別の箱へ入れた。

 夕食に、黒沢がそのカニを茹でた。七人で分けると、一人分は脚の身が少しと、甲羅の内側についた身だけだった。

「獲った人間が一番食えない仕事だな」

 山城が言った。

「売れるもの食ったら給料減るでしょ」

 黒沢は身をほぐしながら答えた。

「これは売れないから食べる」

 佐倉が、自分の皿の脚を半分に折り、安西の皿へ置いた。

「何だ」
「この前、俺のせいで出港遅れたって」
「おまえのせいじゃない」
「でも、俺が寄りすぎるからって」
「部品が壊れてたから待った。食え」

 安西は脚を佐倉の皿へ戻した。

 そのやり取りに、誰も笑わなかった。普通の食事として終わった。

 僕はカニの身を食べた。甘いというより、塩気が強かった。海の上で食べるカニは、観光案内の写真ほどきれいではなかった。殻の破片が指につき、身は少なく、食堂には機関の振動が続いている。

 それでも、これまで食べたカニの中でいちばん味を覚えていた。

 翌朝、枝縄の一本に毛羽立ちを見つけた。以前なら安西を呼んだ。今回は交換用の縄を取り、山城に確認して継いだ。

「津田の結び方ですね」
「教わりました」

 航海の終わりに、安西は結び目を見た。

「少し長い」
「何センチですか」
「そういうとこだよ」

 安西はほどかず、そのまま使った。

 その日の午後、空のかごが一つ、船べりへ斜めに当たった。枝縄がガイドの外側へ回り、次のかごまでの幹縄が引かれる。津田が怪我をしたときと、形が似ていた。

「止めてください!」

 声を出してから、非常停止へ手を伸ばした。安西のほうが先にレバーを倒した。揚縄機の音が落ち、張っていた縄が少しずつ緩んだ。

「触ったか」
「触っていません」
「なら、そこに立ってろ」

 山城が棒で縄を外し、安西がかごの向きを直した。七分ほど作業が止まった。海面には次のかごが浮き、波に押されて船体へ当たっていた。

「再開するぞ」

 安西はそれだけ言った。

 食事のとき、僕の椀だけ飯が少し多かった。黒沢へ聞くと、

「炊飯器の底」

 と答えた。隣で安西が味噌汁を飲んでいた。僕は何も聞かなかった。

 航海の四日目、上司から短いメールが届いた。衛星通信で受信された文字は、数時間遅れていた。

〈退職の処理は終わりました。校閲の外注なら、まず一本、頼めます。返事は急がなくていいです〉

 急がなくていい、と書かれていると、返したくなる。けれど、その日は何も返さなかった。

 その夜、甲板で山城と二人になった。

「戻る場所、あるんですね」

 彼は僕の画面を見たらしい。

「仕事の話です」
「仕事がある場所は、戻る場所じゃないんですか」
「そうとは限りません」
「贅沢ですね」

 山城は責める調子ではなかった。

「俺は、戻る場所に連絡されるのが怖くて船にいる。新藤さんは、連絡が来るのが怖くて船にいる」
「似ていますか」
「似てないです。でも、どっちも自分で乗ってる」

 自分で乗っている。

 榊原が使えば腹の立つ言葉を、山城が使うと否定できなかった。

 翌朝、会社から、もう一連上げてほしいと無線が入った。天候は崩れ始めていた。郷田は九十個だけ上げ、残りを次の航海へ回した。

 七十五個目で風が変わった。九十個目を上げる頃には甲板へ波が入り、船は作業を切り上げた。港へ戻ると、会社は残りも上げられたはずだと言った。海に残したかごは、別の船で回収することになった。安西は返事をしなかった。

 帰りの食堂で、彼は僕に言った。

「前なら、船長が弱気になったと思ってた」
「今は違うんですか」
「分からん」

 最後の水揚げで、僕はカニの箱を運びながら、ここへ戻れなくなる可能性を初めて現実として考えた。

 借金が残るからではない。

 この船で、自分が役に立つようになったからだった。

 荷揚げを終えたあと、安西が補修済みのかごを数えた。

「百八十」
「百十二番は?」

 僕が聞くと、安西は札を裏返した。塩で数字の一部が薄くなっている。

「ある。十二もある」
「網は」
「おまえが見ろ」

 以前なら、確認するふりをして安西の答えを待った。今はかごを横へ倒し、底の網目を指で押した。二か所、糸が細くなっている。補修箱へ回した。

 安西は何も言わなかった。僕も報告しなかった。次に必要な場所へ動いた。

 作業を終えて手を洗っても、餌の匂いは爪の間に残った。石鹸を二度使い、湯で流した。それでも消えなかった。

 東京へ戻れば、この匂いもいつかなくなる。

 そう考えたとき、安心より先に、惜しいと思った。


 最後の水揚げを終えた日の夕方、木戸が船へ来た。食堂には僕と山城しかいなかった。

「新藤、ちょっと外せるか」

 岸壁へ降りると、木戸は紙袋から缶コーヒーを二本出した。一本を僕へ渡した。

「榊原さん、おまえを欲しがってる」
「何に使うんですか」
「書類を見る。新しく来るやつに説明する。変なところがあれば、先に直す」
「今回のようなことを防ぐために?」
「そうだ」
「事故報告も直せますか」
「そこまで俺は知らねえ」
「債務の計算方法は」
「会社に言える」
「返事がなければ」
「何で最初から喧嘩するんだよ」

 木戸は缶を開けた。

「中に入らないと変えられないこともある」
「木戸さんは変えられましたか」

 彼は答えなかった。

「おまえが来れば、少なくとも三択の言い方はやめさせる」
「そこだけですか」
「そこからだろ」

 木戸は本気だった。

 その提案がすべて悪いとは思わなかった。外から書類を出せば船が止まる。中へ入れば、次の誰かへ契約の違いを説明できる。ただし、その誰かを船へ送ることにもなる。

「断ります」
「何で」
「どこまで黙れば中にいられるのか、分からないからです」
「入ってから決めろよ」
「僕は、入る前に条件を確認する人間です」

 木戸は呆れたように笑った。

「やっぱり船向いてねえな」
「安西さんには、向いていると言われたことがあります」
「どっちだよ」
「人によって評価が違います」

 木戸は空き缶を握りつぶさず、岸壁のごみ箱へ入れた。

「明日、署名しろよ」
「内容によります」
「それしか言えねえのか」
「いまのところ」

 翌朝、乗組員は会社の会議室へ集められた。長机の向こうに、瑞宝水産の専務、榊原、木戸が座っていた。机には封筒と確認書が並んでいる。

 今期の配分金を受け取る条件として、津田の事故報告に異議がないこと、債務残高を確認したことへの署名を求める内容だった。

「署名しない場合、固定給も支払われないんですか」

 僕が聞いた。

「固定給は本人名義の口座へ支払済みです。東央への振替も終わっています」

 専務が答えた。

「本人への明細がありません」
「東央に確認してください」
「いま確認しています」

 確認書は一枚ではなかった。

 津田の事故についての確認。今期の配分額についての確認。東央管理が示した債務残高についての確認。僕の前に置かれた束では、三つの文書が一組として綴じられていた。佐倉の束だけは事故確認書がなく、配分額と債務残高の二枚だった。事故時に乗っていないからだ。

「別々に署名できますか」

 僕が聞くと、専務は首を振った。

「一体の精算です」
「事故原因と、僕の債務残高は別の事項です」
「今期の就労に関する確認という点では同じです」
「同じ紙に綴じれば、同じ事項になるんですか」

 榊原が机を指で叩いた。

「また始まった」

 安西は書類を一枚ずつ読んでいた。普段、契約の話になると面倒そうにする男が、時間をかけていた。

「事故の紙だけ外せないのか」

 安西が聞いた。

「全員の確認が必要です」

 専務が答えた。

「何で俺が、津田の不注意だったって確認する」
「現場の共通認識として」
「俺は、触るなって言った。あいつは手を出した。でも、作業中だった」

 安西はその部分へ線を引いた。

「ここ、終わった後ってなってる」

 会議室の空気が変わった。

「文言は保険会社との調整で」

 専務が言う。

「俺は保険会社と海に出てない」

 安西はペンを置いた。

「でも、金は要る」

 しばらくして、事故確認書の余白へ、〈時刻と作業状況は船長日誌による〉と自分で書き足した。その上で署名した。

「これならいいですか」

 専務は困った顔をした。

「原文への同意になりません」
「じゃあ金出ないのか」
「会社で判断します」

 安西は書き足した部分へ二重線を引いた。

 手が震えていた。

 最後に、原文のまま署名した。

 僕は止めなかった。

 止めれば、安西が何を失うか分かっていた。止めなければ、事故の文章が残る。それを安西自身も分かっていた。

 花巻は書類をほとんど読まずに署名した。

「内容、確認しなくていいんですか」

 僕が聞くと、花巻は言った。

「前の会社が潰れたとき、未払いのまま終わった。読んでもエンジンは直らん。もらえる日に、もらう」

 安西は封筒を受け取り、中身を数えた。

「今月分、今日入れるんだ」

 僕を見ずに言った。佐倉は書類を読まず、木戸が示した場所へ名前を書いた。佐倉は署名を終えた後も席を立たなかった。封筒の中身を数え、確認書をもう一度見た。

「これ、俺も事故があったら同じですか」

 誰にともなく聞いた。木戸が、「事故を起こさなければいい」と答えた。佐倉は小さく頷いた。僕は何も言わなかった。彼が理解していないと決めつけることも、理解した上で署名したと決めつけることもできなかった。

 黒沢はペンを置いた。

「固定給だけ請求する」
「配分を放棄するんですか」

 専務が聞く。

「その紙に払うほど欲しくない」

 山城は署名欄を見たまま動かなかった。木戸が言った。

「山城。実家、元気か」

 山城の手が止まった。

「脅してるんですか」

 僕が聞いた。

「挨拶だよ」
「いま言う必要がありますか」
「おまえには聞いてない」

 山城はペンを置いた。

「名前を消してください」

 僕へ言った。

「資料から?」
「はい。消すなら使っていい」
「必要になれば、確認を求めます」
「そのとき決めます」

 彼は確認書を裏返した。郷田は船長用の報告書を読んでいた。事故原因の欄へ二重線を引く。

 〈本人の不注意〉を消し、〈操業中の指示伝達及び機器周辺の安全管理に不備〉と書いた。

「この形では受け取れません」

 専務が言った。

「俺が見たことを書いた」
「会社の調査結果と違います」
「会社は海にいなかった」

 木戸が郷田を見た。

「船長。これで船が止まったら、みんな困る」
「もう止まってる」

 郷田は佐倉を指した。

「毎回、借金のあるやつを入れないと出せん船になった」
「それでも出て、全員食えた」

 木戸の声が少し高くなった。

「俺もそれで助かった。山城も、新藤も。船がなかったら、どこにいた」
「分からない」

 僕は答えた。

「なら黙って署名しろ」
「分からないことと、違うことを書くのは別です」

 僕は赤いペンを出した。事故時刻。作業内容。債務残高の算定根拠。配分金を賃金としない記載。

 疑問のある箇所へ印をつけた。

「何してる」

 榊原が言う。

「確認です」
「赤を入れろとは言ってねえ」
「署名するには修正が必要です」
「誰が直す」

 赤いペンを机へ置いた。

「この文章を作った人です」

 木戸が立ち上がった。

「おまえは船で飯食っただろ。借金も減った。全部嘘だったみたいに言うな」
「嘘ではありません」
「じゃあ何なんだ」
「助かったことと、正しいことは同じではありません」

 木戸の曲がった指が、机の上で握られた。

「俺は、それで生きてる」
「知っています」
「それを間違いにするな」

 僕は返事ができなかった。

「木戸さんが助かったことは消しません」

 しばらくして言った。

「でも、津田君の事故時刻も消せません」

 専務は、確認書へ署名しない者について、航海手当と漁獲配分の計算を保留すると言った。固定給は本人名義の口座へ支払われ、契約どおり五万円を残して東央へ振り替えられていた。

「契約書では、航海ごとに算定するとあります」

 専務は答えず、木戸へ顔を寄せた。

 安西が封筒を持って立ち上がった。

「俺は帰る」
「安西さん」

 僕が呼ぶと、彼は振り返った。

「署名を取り消せって言うなよ」
「言いません」
「今月分だ」
「分かっています」
「分かってねえと思うけどな」

 安西は部屋を出た。

 花巻も続いた。佐倉は封筒を胸に抱え、木戸へ、次の船はどうなりますか、と聞いた。返事は、後で連絡する、だった。

 山城は署名しなかった。黒沢も席を立った。

 残ったのは、郷田と僕、瑞宝水産の専務、榊原、木戸だった。

「今日中に考え直せ」

 榊原が言った。

「船へ戻って、頭を冷やせ。明日の出港は予定どおりだ」
「出ない」

 郷田が答えた。

「船長」
「事故の経過が確定してない。安全管理の確認も終わっていない。このまま新しい船員を乗せられん」
「出なきゃ船を替える」
「そうしろ」

 木戸が郷田を見た。

「船長。あんたまで、何してるんですか」
「日誌を書いてる」
「今までだって違うことはあったでしょう」
「今まであったから、次もいいとはならん」

 郷田は訂正した報告書を机へ置いた。

 会社が訂正するかどうかは分からない。僕が署名しなかったことも、誰かを助けるとは限らない。

 その日の会議は、結論のないまま終わった。

 外へ出ると、第八瑞宝丸は岸壁につながれたまま、次の餌を積まれていた。


十一

 翌朝、出港時刻になっても、第八瑞宝丸は岸壁を離れなかった。

 甲板には新しい餌が積まれ、燃料も入っていた。岸壁の綱だけが外されていない。

 佐倉は雨具を着たまま、船尾で待っていた。

「出ないんですか」
「いまのところ」
「宿、今日までなんです」

 北洋が手配した宿は、乗船しない日まで無料ではなかった。佐倉の手元には、前日の封筒がある。だが、その金の大半は、すぐ東央管理へ送る約束になっていた。

「封筒から宿代を出せば」

 僕が言うと、佐倉は首を振った。

「送らないと、次の紹介止めるって」
「誰に言われたんですか」
「木戸さん」

 黒沢が、船内の予備寝具を一組持ってきた。

「今日はここで寝れば」
「会社が入るなって言ったら」
「まだ船員でしょ」

 黒沢は佐倉へ渡した。

 午前十時、会社から運航休止の連絡が来た。期間は未定。乗組員は私物をまとめ、船から降りるようにという。

 花巻は機関室から出てこなかった。郷田が二度呼び、ようやく工具箱を持って上がってきた。

「止めるなら、冷却水抜かないと」
「会社の整備が来る」
「来るまでに凍る」

 花巻は会社の指示を無視し、機関室へ戻った。

 安西は昼前に来た。前日の封筒は持っていなかった。

「おまえ、これで満足か」
「満足はしていません」
「じゃあ、何なんだ」
「分かりません」

 安西は僕の胸ぐらをつかんだ。

 津田の事故のときとは違い、押さなかった。つかんだまま、僕の顔を見た。

「俺はおまえが嫌いだ」
「はい」
「でも、津田の指は残った」
「はい」

「だから余計に嫌いだ」

 手が離れた。

 安西は甲板の隅に置かれた僕のリュックを拾い、岸壁へ投げた。乱暴だったが、水たまりのない場所を選んでいた。

「降りろ。会社の人間が来る」

 僕たちは一人ずつ、船から荷物を運んだ。

 山城の荷物は小さかった。三年乗っているのに、ボストンバッグ一つに収まった。

「どこへ行くんですか」
「安い宿」
「実家には」
「まだ」

 佐倉にも行く場所がなかった。僕は手元に残っていた五万円で、僕と佐倉の二人分の宿代を払った。山城も同じ宿を選んだ。

「返します」と佐倉が言った。

「借金にはしません」
「じゃあ何ですか」
「いまは決めません」

 佐倉は納得していない顔のまま、受け取った。

 夕方、船会社の職員が甲板へ入り、扉へ鍵を掛けた。

 花巻は最後まで機関室にいた。出てきたとき、作業着の袖が油で黒くなっていた。

「冷却水は」

 郷田が聞いた。

「抜いた」
「そうか」

 それだけだった。

 岸壁に残った七人は、同じ方向へ帰らなかった。

 安西は町へ戻った。花巻は夜も港へ戻ると言った。黒沢は知り合いの店へ泊めてもらう。佐倉と山城は宿へ。僕も同じ宿へ向かった。郷田は会社へ呼ばれた。

 その前に、郷田は船長日誌の該当頁を複写した紙を僕へ渡した。

「見た時刻だけ出せ」
「はい」

 僕は、船の寝台を失った。

 宿の洗面台で手を洗った。船では餌の脂が落ちず、石鹸を二度使う癖がついていた。二度目の泡を流してから指先を嗅ぐと、もう何の匂いもしなかった。念のため三度目をつけた。爪の脇の薄い皮が裂け、泡に赤い筋が混じった。

 蛇口を閉めても、しばらく洗面台から手を離せなかった。

 布団へ横になると、体だけが次の揺れを待った。枕元の紙コップは水面を動かさない。倒れる気がして床へ下ろした。目を閉じると、右肩が勝手に壁へ寄り、船体の傾きに備えた。

 一時間ほどして起きた。部屋は同じ位置にあった。

 宿の食堂で、山城と佐倉と三人、夕食を食べた。焼いた魚と、冷えた煮物と、味噌汁。船の食事より品数は少なかったが、床は揺れなかった。

 佐倉は箸を置いた。

「船、なくなるんですか」
「まだ決まっていません」
「会社の人、売るかもって」

 山城が僕を見た。

「新藤さんが資料を出したら、この船、売られますよね」
「僕の資料だけで決まることではありません」
「そういうことじゃなくて。売られるかもしれなくても、出すんですか」

 黒沢から預かったファイルは、僕の鞄の中にあった。

「津田君の事故と、僕自身の契約は確認してもらいます」
「船が止まって、俺の借金が減らなくなっても?」
「はい」

 山城は味噌汁を飲んだ。

「じゃあ、俺は新藤さんのこと嫌いになります」
「分かりました」
「簡単に分からないでください」
「では、どう答えれば」
「知りません」

 佐倉が二人の顔を交互に見た。

「俺、次の船を紹介してもらえればいいです」
「同じ契約でも?」

 僕が聞くと、佐倉は眉を寄せた。

「じゃあ、ほかに何があります?」

 答えられなかった。

 食堂のテレビでは、旅行番組が海辺の市場を映していた。茹でたカニが山積みにされ、出演者が甘いと言っている。佐倉がチャンネルを変えた。

 夕食後、黒沢が宿へ来た。

「ファイル、どうする」
「外へ出す前に、相談先を探します」
「全部?」

 古い事故記録には、連絡の取れない船員の氏名もあった。

「本人の同意が取れないものは、記録が存在することだけ伝えます」
「それで足りる?」
「分かりません」

 黒沢は僕の鞄からファイルを取り出した。

 一瞬、ファイルを取り戻しに来たのかと思った。

 彼女は表紙の裏に、自分の名前と日付を書いた。

「私が渡したことにして」
「責任が」
「残したの私だから」
「会社から何か言われます」
「言われるでしょ」

 黒沢はファイルを戻した。

「でも、あんたが勝手に盗んだことにされたら、話が違う」

 彼女はそれだけ言って帰った。

 夜の十一時を過ぎてから、僕はもう一度港へ戻った。

 第八瑞宝丸は照明を消し、岸壁の暗がりにいた。昼間より小さく見えた。甲板の餌は会社のトラックが回収していた。かごだけが何段にも積まれ、次に海へ入る日を待っている。

 柵の外に花巻がいた。

「夜も来ると言っていましたね」
「来た」
「船には入れないのでは」
「入ってない」

 花巻は耳を澄ませるように船を見た。

「エンジン、止まってます」
「分かってる」
「何を聞いているんですか」
「止まった音」

 意味が分からず、隣に立った。

 波が船体へ当たる音。係船索けいせんさくが擦れる音。遠くの冷凍施設の機械音。エンジンが動いていたときには聞こえなかった音が、いくつもあった。

「動いてない機械にも、音があるんですね」
「周りの音が聞こえるだけだ」

 花巻は言った。

「壊れて止まったのと、止められたのは違う。こいつは壊れてない」
「また動きますか」
「動かすやつがいれば」

 花巻は帰った。

 僕は柵の外から船を見た。動かない船を救うことも、売られるのを止めることもできなかった。

 それで船が止まった、と安西は思うだろう。僕自身も、そう思わないわけではなかった。

 それでも、津田の事故を作業後の自己責任として残すことはできなかった。

 宿へ戻り、僕はファイルと自分の契約書を机へ並べた。どこまでを外へ出すか、一枚ずつ付箋を貼った。

 夜中までかかり、最後に津田の事故経過確認書の写しを封筒へ入れた。

 自分の判断で誰かの生活を動かすのは、あの部屋で三本の指を立てられるより怖かった。

 その夜、宿の狭い部屋で、上司へ初めて返信した。

〈生きています。カニ漁船で働いています。いまは操業が止まり、港にいます〉

 十分後に返事が来た。

〈分かりました。詳しいことは、あとで聞きます。今、何かできることはありますか〉

〈今は大丈夫です〉と返した。

 返事を二度しただけで、その日は十分だった。


十二

 港近くの求人票を見て回った。荷役、加工、清掃。すぐに働けるものは少なく、日雇いの荷下ろしに一日だけ入った。仕事が終わると、足は第八瑞宝丸のいる岸壁へ向かった。柵の向こうの船は同じ場所にいた。手元の金だけが、宿代のぶん減っていった。

 荷下ろしを終えた夜、上司から電話があった。僕は、津田の事故と、事故経過確認書、返済明細のことを順に話した。上司は途中で口を挟まず、最後に言った。

「専門の人に見てもらったほうがいい」

 その日のうちに、労働問題を扱う弁護士の連絡先が届いた。僕は契約書、返済明細、事故経過確認書の写し、船長日誌の該当頁の写しを送った。

 翌週、弁護士に会った。弁護士は、僕が送った資料を机へ並べた。

「推測と、見たことを分けて話してください」

 僕はノートの頁を縦に分けた。左へ見たこと、右へ推測を書き、津田の事故を見た時刻、安西の声、船が旋回した時間、病院へ着いた時間を話した。

 黒沢から預かったファイルも見せた。弁護士は古い事故記録を数枚読み、表紙の裏に書かれた黒沢の名前を確認した。

「本人の同意が取れていない記録は、まだ外へ出さないでください。誰が、いつ、どのように残した資料かだけ控えます」

 ファイルは僕の鞄へ戻した。

「津田さん本人は、協力しますか」
「確認書へ署名しました。見舞金の五十万円も、すでに振り込まれています」
「署名したことと、話すことは同じではありません」

 僕が木戸へ使った言い方を、別の人から返された。

 連絡すると、津田は、話を外へ出すことを断った。

〈俺の話を勝手に使わないでください〉

 僕は〈分かりました〉と返した。

 一週間ほどして、津田から電話が来た。

「妹にばれました」
「怪我が?」
「会社から家に書類が行って。俺が住所、妹の部屋にしてたんで」

 東央管理からの通知には、今後の返済計画と、就労中断による管理期間の延長が書かれていた。妹はそれを読んだ。

「怒られました」
「船に乗ったことを?」
「嘘ついてたことを。あと、家賃はもう払わなくていいって」
「払えるんですか」
「学校辞めて働くって言いました」
「津田君は、どうしたいんですか」
「それ聞くんですね」
「答えたくなければ、答えなくていいです」

 長い沈黙があった。

「病院に来てもらえますか」

 病院の廊下で、津田の妹に会った。津田と同じ目をしていた。彼女は僕の名前を知っていた。

「兄を助けた人ですか」
「船を戻すよう意見を言いました」
「ありがとうございます」
「僕一人で戻したわけではありません」

 彼女は病室の扉を見た。

「ずっと、私のためって言うんです。家賃も、船も。頼んでないって言ったら、すごい顔をされました」
「払ってもらってはいたんですよね」
「はい。だから、何て怒ればいいのか分からなくて」
「僕にも分かりません」

 彼女は少し笑った。

「兄が、新藤さんは面倒だって言ってました」
「よく言われます」
「誰に?」
「最近、何人かに」

 妹は病室へ入った。しばらくして出てくると、僕は入れ替わりに中へ入った。津田の右手は、包帯が外れていた。薬指と小指は腫れ、曲げる角度が小さい。机の上にゴムのボールがあり、握っては離す訓練をしていた。

「先生は、時間かかるって」
「そうですか」
「前みたいには動かないかもしれない」

 津田はボールを置いた。

「聞かれたら、どう言えばいいんですか」
「何をですか」
「作業を続けてほしいと言ったことと、戻らなかったら指がなくなってたことです」
「両方だと思います」
「両方、書類に入るんですか」
「長く書けば入ります」

 津田は左手で紙を引き寄せた。

「俺が書きます」
「弁護士が聞き取りを」
「その前に、自分で書きたいです」

 風が強かったこと。甲板に氷があったこと。縄が斜めに入ったのを見て、自分で直そうと手を出したこと。安西の声は聞こえなかったこと。大丈夫だと言い、作業を続けてほしいと頼んだこと。津田は事故の朝から順に書いた。

 左手の文字は大きく、行からはみ出した。〈揚縄機〉の〈揚〉を二度間違えた。

 僕は直さなかった。

「誤字あります?」
「あります」
「直さないんですか」
「読めます」
「校閲失格ですね」
「内容によります」

 津田は少し笑った。

 最後に、こう書いた。

〈自分にも不注意はありました。ただし、作業が終わった後に勝手に機械へ近づいた、という説明には同意しません。僕は仕事をしていました。〉

「五十万、返せって言われますか」
「可能性はあるそうです」
「家賃、もう払わなくていいから」

 津田は言った。

「返せるかどうかは別ですけど、話すことはできます」

 津田は紙を封筒へ入れ、僕へ渡した。

 木戸から連絡が来たのは、その翌日だった。

〈会えますか〉

 敬語だった。

 港から少し離れた喫茶店で待っていた。灰色のパーカーを着て、テーブルの上に古い封筒を置いていた。

「家に残ってた」

 中には、木戸の返済終了通知と、三年分の給与明細が入っていた。

「読んでくれ」
「捨てたと言っていました」
「おふくろが取ってた」

 最初の元金。毎月の振込額。債務管理事務費。生活支援費。就労準備費。僕の契約にはない更新料と、船を移ったときの再手配費もあった。元金残高の推移は途中から記載がなく、最後の紙にだけ〈債務整理完了 残高0円〉とある。

「いくら払ったか、分かりますか」
「この明細だけでは確定できません。振込総額なら計算できます」
「やって」

 三年間の振込総額は、最初の元金より二百万円以上多かった。利息と費用があるため、それだけで不当とは言えない。だが、費用の根拠は書かれていなかった。

「取り返せますか」
「弁護士に見せないと分かりません」
「分からないばっかりだな」
「はい」

 木戸は終了通知を見た。

「これをもらった日、泣いたんだよ」
「そうですか」
「金が戻るかもしれないとしても、船に乗った三年まで間違いだったことにはしたくない」
「前にも聞きました」
「今も同じだ」

 木戸は明細を封筒へ戻し、終了通知のコピーを一枚だけ僕へ渡した。

「弁護士に見せて。名前を出す前に連絡して」
「分かりました」

 木戸は曲がった薬指を伸ばそうとした。途中で止まる。

「昨日、榊原さんに、新しいやつを連れてこいって言われた。十九。親父の借金。高校を出たばっかり」
「連れていくんですか」
「行かなかった」
「それで」
「辞めた」

「おまえが正しかったからじゃないぞ」
「はい」

 木戸はしばらく黙り、付け加えた。

「三択の言い方も、俺は何回か使った。おまえには言ってない。ほかのやつにだ」
「どうしてですか」
「相手が固まるから話が早い。冗談だって、あとで言えば済むと思ってた」
「済んだと思っていたんですか」
「思ってた」

「その十九歳の人は、どうなりますか」
「別のやつが説明に行った」
「止めなくていいんですか」
「俺が辞めたら、止める権利もなくなった」

 木戸は自分で言ってから、口を閉じた。

「中にいないと変えられない、と言っていましたね」
「言った」
「それでも辞めた」
「俺が連れてったら、もっと変えられない気がした」

 木戸はテーブルの上の砂糖を一袋、指先で裏返した。

「次、何するんですか」
「知らない。まだ何も決まってない」

 言いながら、初めて少し笑った。

 彼が店を出たあと、僕は終了通知のコピーを封筒へしまった。


十三

 弁護士が各社へ照会をかけると、最初に返ってきたのは、事実を否定しない文章だった。

 瑞宝水産は、事故経過確認書の作成過程を確認すると回答した。北洋就労サポートは、東央管理とは別法人であり、返済契約の内容には関与していないと説明した。東央管理は、すべて本人の同意に基づく契約だと回答した。

 どの文章にも、完全な嘘は書かれていなかった。

 照会が続くあいだに、津田の陳述書を整えた。津田の原稿をもとに弁護士が作った案には、会社の事故経過確認書の内容が、会社側の説明として要約されていた。

〈会社側は、甲板長の制止を聞かず、停止を待たずに手を出したと説明している〉

 病院の近くの喫茶店で、津田と一緒に読んだ。

「『制止を聞かず』は違います」
「会社側の説明として書かれています」
「でも、自分で手を出したのは本当です」
「機械を止めてほしいと声を出しましたか」
「出してません」

 僕は紙を読み直した。

「その違いを、津田君の説明として続けましょう。『揚縄機の停止を求めず、自分で直そうとして手を出した』ではどうですか」
「求めず」
「声を出さず、自分で直そうとしたことが残ります」
「出せなかった、じゃなくて?」
「それは津田君が決めてください」

 津田はしばらく考え、本人の説明欄へ左手で書き込んだ。

〈異常に気づいたが、揚縄機の停止を求めず、自分で直そうとして手を出した〉

「これなら、俺がやったことですよね」
「はい」
「会社の説明と違うところも消えませんか」
「消えません。事故が作業中だったこと、隣の作業員が持ち場を離れた理由、船長日誌の時刻は別の段落にあります」

 津田は全体を最初から読み直し、最後に署名した。書類を弁護士へ返す封筒へ入れた。

「新藤さんに直してもらった、って書いたほうがいいですか」
「書かなくていいです」
「何で」
「文を選んだのは津田君です」

 木戸から預かった終了通知の写しも、弁護士へ見せた。

「本人から依頼を受けなければ、この件は進められません」

 木戸へ伝えると、〈今はいい〉と返ってきた。写しは元の封筒へ戻した。

 東央管理には、僕自身の明細について追加の開示を求めた。最初の回答にあったのは、生活支援費、債務管理事務費、交通費といった費目の名称だけだった。

「何をした費用かが分かりません」

 照会と回答は何度か往復した。電話の回数、宿の手配日、交通券の購入額が出た。契約時の説明より高い項目と、二重に計上された交通費も見つかった。

 返済へ入っていた金もあった。実際に手配された宿も、切符も、手袋もある。問題のない支払いと、根拠の薄い費用を一行ずつ分けた。

 東央管理は一部の費用を残高から差し引くことに同意した。すでに返済へ充てられた額を確認し、残った保証債務については、法的な整理を進めることになった。手続きには時間がかかり、僕の収入と資産、保証に至った事情も確認された。

 数字が整理されるたび、船で働いた時間まで計算されているような気がした。

 弁護士が尋ねた。

「借金が、怖くなくなりましたか」
「いいえ」
「では、何が変わりました」
「どこまでが借金なのか、分かりました」

 以前は、紙を開くたびに別の数字へ増えるものだった。

 石崎が以前使っていたメールアドレスへ、法的な整理を始めたとだけ送った。返事はなかった。

 以前の僕なら、石崎が死んでいるのか、逃げつづけているのかを考えただろう。送ったという事実だけを残し、受信箱を閉じた。

 以前届いていた外注の話に、引き受けたいと返信した。校正紙を受け取るため、東京へ戻った。

 受付の床も、エレベーターの音も、辞める前と変わっていなかった。校閲部の机には、知らない人が二人増えていた。僕の席だった場所には資料棚が置かれている。

 上司は会議室で、薄い校正紙を一組渡した。

「試験じゃないよ」
「分かっています」
「一本だけ。会議室、使っていいから」

 原稿は、地方の工場で働く若者を取材した記事だった。冒頭に、〈彼は自ら工場勤務を選んだ〉とある。

 以前なら、〈「自ら」の根拠となる本人の発言を確認〉と書いて終えただろう。

 記事を読み返すと、寮に入れば家賃が下がること、紹介を断れば次の仕事がいつ来るか分からなかったことが、後段に書かれていた。

 余白へ、〈「自ら」の根拠となる本人の発言と、選択時に示された条件を確認〉と書いた。

 それ以上は書かなかった。

 上司へ返すと、彼は赤字を一通り見た。

「条件まで見るんだ」
「選んだ、だけでは足りないので」
「そう」

 上司は校正紙を閉じた。

「戻るかどうかは、急がなくていいよ」
「はい」


十四

 第八瑞宝丸は、その漁期の残りを岸壁で過ごした。郷田は船長を外れた。

 港で会ったとき、彼は係船索の向こうにある船を見ていた。

「これでよかったと思いますか」
「知らん」
「船長でも分からないんですね」
「元船長だ」
「その元は必要ですか」
「今はな」

「僕に分かるのは、津田君の指が残ったことと、事故の時刻が違ったことです。返済額の説明も足りなかった」
「それだけか」
「それ以上まとめると、たぶん嘘になります」
「面倒だな」
「はい」

 郷田は運送会社で働くことになっていた。海を離れるのかと聞くと、しばらくは、と答えた。

「トラックも荷物を運ぶ」
「船と似ていますか」
「乗ってから決める」

 彼は船に触れず、港を出ていった。

 佐倉は別の水産会社で陸上の加工仕事を始めた。船へ戻るかは、まだ決めていなかった。

 船が売られる日、花巻から連絡があった。

〈エンジンかける〉

 港へ行くと、第八瑞宝丸の船名はまだ残っていた。新しい所有者へ引き渡すため、花巻が機関を動かしていた。低い振動が岸壁へ伝わる。

 黒沢、山城、佐倉も来ていた。黒沢は船内から、底の黒い大鍋を持って降りてきた。

「次でも使うんですか」
「穴が開くまで」

 赤い雨具も一着、僕の胸へ押しつけられた。最初に渡されたものだった。袖口は塩で白くなり、右の肘だけ生地が柔らかくなっている。

「これ、あんたの?」
「船の備品です」
「サイズ合ってなかったでしょ」
「最後まで合いませんでした」

 乾いているのに、餌と油の匂いがした。持って帰る理由を考えたが、思いつかなかった。

「次の人が使います」

 雨具を甲板の手すりへ戻した。風で袖が一度ふくらみ、すぐ萎んだ。

 機関の音が止まった。花巻が降りてきて、船体を見上げた。

「名前、塗るらしいぞ」
「新しくするんですか」
「古い名前が透ける。何回塗っても」

 花巻は以前、船ではなく会社が沈んだ、と言った。今度は船が残り、会社と名前が変わる。

「調子は」
「悪くない」
「そうですか」
「悪くないのに、手放される」

 新しい会社の作業員が来ると、僕たちは岸壁を離れた。見送るようなことはしなかった。船はまだそこにあり、翌日もある。ただ、僕たちの船ではなくなった。

 港を離れる前日、港近くの定食屋へ入った。

 カウンターへ座ると、年配の女性が水を置いた。

「今日の日替わり、マグロの漬け丼か、カニクリームコロッケね」

 一瞬、聞き間違えたかと思った。

「どっちにする?」

 選択肢は二つだった。殺されることは含まれていない。値段は同じ。どちらを選んでも、借金は増えない。船が止まることもない。

「急がなくていいよ」と女性は言った。

 どちらも食べたかった。

 女性は少し離れたところで、注文を待っていた。

「決まった?」
「はい」

「カニにします」

 今度は、頷かなかった。

(了)


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