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阿波から大和へ──忌部氏の聖地を巡り「崇祖報恩」の祈りに触れる旅|大麻比古神社・天太玉命神社

@Ricoです。

「国を結び、人をつなぐ」──。

千年の時を超えて受け継がれるその精神に触れたとき、古代の氏族が現代の私たちに語りかけるメッセージが聞こえてくるような気がします。
今回の記事では、阿波(徳島)と大和(奈良)に残る忌部氏の足跡を辿り、彼らが貫いた「共存共栄」の真髄に触れていこうと思います。

前回、安房国一宮「安房神社」への参拝を通じて、忌部氏の歴史と御祭神・天太玉命との関係性を紐解いてきた、その続編となります。
(詳しくは「安房神社参拝|房総のルーツ忌部氏と天富命が紐解く日本の原点」を参照ください↓)

阿波と安房という二つの「あわ」を繋ぐ糸を辿るうち、その源流である四国徳島の地へ参拝する機会に恵まれました。
その中で、阿波国一宮「大麻比古神社」奈良橿原の「天太玉命神社」への参拝を通じて見えてきた、忌部氏が体現する「共存共栄」の精神について深掘りしていきます。

1.阿波と安房|二つの「あわ」を結ぶ忌部氏

房総半島の最南端に鎮座する安房神社。
この地名に触れるとき、よく云われとして耳にすることがあります。

「なぜ四国の阿波と、房総の安房は同じ『あわ』なのか」

その答えを紐解いていくと、遥か神代の昔、黒潮に乗って房総の地を拓いた一族の物語が浮かび上がってきます。それは、天照大御神に仕えた忌部氏と、その末裔である天富命の壮大な開拓の歴史です。

大同2年(807年)に斎部広成が奏上した『古語拾遺』には、天富命が阿波忌部を率いて東国に赴き、房総半島に麻と穀を植えたと記されています。良い麻の生育する土地を「総国(ふさのくに)」と名付け、阿波忌部が開拓した地を故郷にちなんで「安房」と呼んだとされています。

この伝承が示すように、阿波国は安房神社の御祭神・天太玉命の系譜における「源流の地」なのです。
その阿波国一宮である大麻比古神社への参拝は、忌部氏の歴史を辿る上で欠かせない旅となりました。

安房から阿波へ、源流を遡る旅の始まりです。

2.阿波国一宮 大麻比古神社への参拝

徳島県鳴門市大麻町に鎮座する大麻比古神社は、阿波国一宮として1100年以上の歴史を持つ古社です。式内社名神大社に列し、かつては国幣中社に位置づけられた格式高い神社であり、地元では「おおあさひこさん」と親しまれています。

初詣には徳島県内で最も多くの参拝者が訪れる神社としても知られており、阿波の人々の心の拠り所となってきた存在です。

車を降りて境内へ向かうと、まず目に飛び込んでくるのが大鳥居の存在感です。その大鳥居をくぐると、約400メートルにおよぶ参道が真っ直ぐに伸びています。
両側には樹齢を重ねた杉や楠の巨木が立ち並び、木漏れ日が参道に揺れる様子は、まさに神域への道という言葉がふさわしい光景です。

一歩一歩進むごとに、日常の喧騒が遠のいていくのを感じます。参道を歩く時間そのものが、心身を清める禊の時間となるかのようです。鳥のさえずりと風に揺れる木々の音だけが響く静寂の中を、ゆっくりと進んでいきました。

麻紋と阿波忌部|神事を支えた氏族

参道を進み手水舎で身を清め、境内へと入っていきます。
大麻比古神社の神紋は「麻紋」。これは阿波忌部の歴史と深く結びついています。

忌部氏、とりわけ阿波忌部は麻の栽培と加工を得意とした氏族でした。
麻は古来より穢れを祓い清浄をもたらすものとされ、神事において欠かせない素材です。神社で授与される御祓いの大麻(おおぬさ)も、この麻に由来しています。「大麻比古」という社名そのものが、麻との深い関わりを示しているのです。阿波忌部が育てた麻は、神事に用いる重要な素材として朝廷にも献上されていました。

境内は広々としており、参拝者を包み込むような安らぎがあります。
木々の緑に囲まれた空間は、まさに神域にふさわしい清浄な雰囲気に満ちていました。

境内全体図

御神木・大楠|千年の時を刻む生命

境内で最も強い印象を受けたのが、御神木の大楠です。鳴門市指定天然記念物にも指定されているこの大楠は、樹齢千年を超えるとされ、幹周りは約8メートル、高さは約22メートルにも及びます。

御神木の前に立つと、その存在感に圧倒されます。太い幹からは無数の枝が天に向かって伸び、まさに生命力の塊のようです。幹の表面には長い年月を経て刻まれた深い皺があり、その一つひとつが千年の歴史を物語っているかのようでした。

千年という時間を生き抜いてきた大楠は、忌部氏がこの地で麻を育て、神事に奉仕してきた長い歴史を静かに見守り続けてきたのでしょう。
阿波忌部の祖・天日鷲命がこの地に降り立ったとされる神話の時代から、現代に至るまで。この大楠はすべてを見届けてきたのです。

御神木の根元には小さな祠があり、参拝者が手を合わせています。わたしも手を合わせ、この地に根を張り続けてきた生命の力に感謝を捧げました。

楠は古来より神霊が宿る木とされ、その霊性に触れることで心が洗われるような感覚を覚えます。クスノキの「くす」は「奇し(くし)」、すなわち霊妙であることを意味するともいわれています。

拝殿・本殿|霊峰大麻山を背にして

拝殿に進み、二拝二拍手一拝の作法で参拝します。拝殿から本殿を仰ぎ見ると、その背後には霊峰大麻山(標高538メートル)が悠然とそびえています。

大麻比古神社は山全体を御神体とする古代信仰の形を今に伝えています。拝殿に向かって手を合わせるとき、実は大麻山そのものに祈りを捧げていることになるのです。この感覚は、現地に立ってはじめて実感できるものでした。

山を御神体とする信仰は、日本各地に見られる古代信仰の形態です。三輪山を御神体とする大神神社(奈良県)、富士山を御神体とする富士山本宮浅間大社(静岡県)などが知られていますが、大麻比古神社もまたその系譜に連なる神社であることを、この場に立って改めて感じました。
拝殿の荘厳な佇まいは、阿波国一宮にふさわしい風格を漂わせています。

御祭神について|天太玉命と猿田彦大神

大麻比古神社の御祭神は、大麻比古大神と猿田彦大神の二柱です。

大麻比古大神は、忌部氏の祖である天太玉命と同一、あるいはその御子神ともされ、安房神社の主祭神と極めて深い関わりを持っています。
天太玉命は高皇産霊神の御子神であり、天照大御神のお側近くに仕えた重要な神様です。特に「天岩戸神話」において、天児屋命とともに中心的な役割を果たしました。

安房神社の主祭神ゆかりの神が、ここ阿波国一宮でも祀られているのです。阿波と安房の繋がりが、御祭神という形で今も受け継がれていることを実感しました。
千数百年の時を超えて、二つの「あわ」は神々の系譜によって結ばれているのです。

猿田彦大神は天孫降臨の際に道案内をした「導きの神」です。天孫・瓊瓊杵尊が高天原から葦原中国に降臨する際、天の八衢(やちまた)に立って道を照らしたと伝えられています。

忌部氏の祖神と導きの神が共に祀られているこの地は、古代の祭祀と開拓の関係性を示唆しているように思えます。新天地を求めて旅立つ者たちを導き、守護する。そんな神々の加護のもと、阿波忌部は房総へと旅立っていったのかもしれません。

本殿裏手から大麻山を仰ぐ

拝殿での参拝を終え、本殿の裏手へと回ってみました。そこから仰ぎ見る大麻山の姿は、拝殿正面から見るのとはまた異なる迫力があります。

山頂には奥宮である峯神社が鎮座しており、約90分の登山で参拝することができるそうです。峯神社には津咋見命(つくいみのみこと)・天村雲命(あめのむらくものみこと)が祀られています。

ここでふと、「天村雲(あめのむらくも)」という神名に心が留まります。この名は、三種の神器の一つである「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣)」を想起させます。
※天叢雲剣といえば、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲の地で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した際、その尾から現れた神剣です。

「叢雲」とは、群がり立つ雲のこと。
雨をもたらし、作物を育てる水の恵みを象徴すると同時に、荒ぶる自然の脅威も表します。阿波忌部が麻を育てるには、太陽だけでなく雨の恵みも不可欠です。


山頂に水の神の気配を持つ「ムラクモ」の名を冠する神が祀られていることは、この大麻山が単なる信仰の山ではなく、水と実りを司る「命の山」として崇められてきた証なのかもしれません。

今回は時間の都合で山頂までは行けませんでしたが、いつか峯神社にも参拝してみたいという想いを胸に、本殿裏手で手を合わせました。
山岳信仰の聖地として、この大麻山が古来より人々の信仰を集めてきたことを肌で感じる瞬間でした。

境内社を巡る|多彩な神々との出会い

大麻比古神社の境内には、豊受社、山神社、中宮社、丸山社、丸山稲荷社、丸山八大龍王社など複数の境内社が点在しています。

特に印象深かったのは、本殿奥に位置する丸山神社への参拝です。
石段を登っていくと、木々の間から差し込む光が神秘的な雰囲気を醸し出しています。丸山神社には大己貴命(おおなむちのみこと・大国主神の別名)が祀られており、国造りと縁結びの御神徳で知られています。

小高い丘の上に鎮座する丸山神社からは、境内を見渡すことができます。木々の緑に囲まれた静謐な空間は、まさに神々の坐す場所にふさわしい雰囲気でした。

また、丸山稲荷社の朱色の鳥居が緑の中に映える様子も美しく、境内を巡る楽しみを与えてくれました。稲荷社特有の朱色は、生命力と五穀豊穣を象徴しています。

丸山八大龍王社では、水の神・龍神への信仰を見ることができます。農業に欠かせない水への感謝と祈りが、この地でも脈々と受け継がれているのです。

ドイツ橋|神域に残る近代史の証

境内で意外な発見だったのが「ドイツ橋」です。これは第一次世界大戦時に、近くの板東俘虜収容所に収容されていたドイツ兵たちが建設したものです。

板東俘虜収容所は、所長の松江豊寿中佐のもと、捕虜に対する人道的な待遇で知られた収容所でした。ドイツ兵たちは地元住民と国境を超えた友情を育み、パンや菓子の製法、楽器演奏、スポーツなどを伝えました。また、ベートーヴェンの「第九」が日本で初めて全曲演奏されたのも、この板東俘虜収容所においてだったことも意味深いものがあります。

このドイツ橋は、そうした友好関係の証として今も大切に保存されています。石造りのアーチ橋は、ドイツの建築技術を用いて建設されたもので、当時の技術の高さを今に伝えています。

神社の境内でありながら近代史の一端に触れることができる、稀有な場所でもあるのです。
敵国の兵士であっても人道的に遇した日本人の心、そしてそれに応えて技術と文化を伝えたドイツ兵たち。このドイツ橋は、人と人との心の交流の美しさを今に伝えています。

ドイツ橋
心願の鏡池


3.奈良橿原|天太玉命神社への参拝

大麻比古神社への参拝を終え、忌部氏の足跡を辿る旅は奈良県橿原市忌部町に鎮座する天太玉命神社へと続きます。

「忌部町」という地名が示すとおり、この一帯は忌部氏の本貫地(本拠地)と伝えられています。大和における忌部氏の中心地に、今も忌部の名が残っていることに感慨を覚えます。かつてここで忌部氏が祭祀の道具を作り、朝廷に奉仕していた。その歴史が地名として刻まれているのです。

静謐な境内|一歩踏み入れると異なる佇まいを感じる

天太玉命神社は、橿原神宮や畝傍山にも程近い場所にあります。
しかし、観光客で賑わうそれらの場所とは対照的に、天太玉命神社の境内は静寂に包まれていました。

周囲には住宅街と田畑が広がり、のどかな風景の中に神社がひっそりと佇んでいます。訪れる参拝者は多くはありませんが、それゆえに落ち着いた雰囲気の中で心静かに参拝することができます。

鳥居をくぐり境内に入ると、こぢんまりとした社殿が見えてきます。
華やかさはありませんが、どこか凛とした空気が漂っています。

境内は綺麗に整えられており、地域の方々が大切に守り続けてきたことが伝わってきます。忌部氏の末裔かどうかはわかりませんが、この地の人々が祖神を敬い続けてきた歴史の重みを感じます。

御由緒と式内社としての格式

天太玉命神社は式内社名神大社に列する格式高い神社です。
延喜式神名帳に記載された名神大社は全国でも限られた数しかなく、古代において特に霊験あらたかとされた神社のみがこの格式を与えられました。

創建年代は不詳ですが、『日本三代実録』には貞観元年(859年)に「太玉命神」の神階が従五位上に昇叙された記録が残っています。平安時代初期にはすでに朝廷から崇敬を受けていたことがわかります。

興味深いのは、江戸時代にはこの神社が「春日社」と呼ばれていたことです。忌部氏の氏神であることが忘れられ、地域の人々からは春日社として信仰されていたのです。

元禄10年(1697年)に国学者の松下見林が『大和志料』においてこの社を式内社の天太玉命神社に比定し、以後その名で呼ばれるようになりました。
一時は忘れられかけていた忌部氏の氏神が、学術的な研究によって再発見されたのです。
忘れ去られた歴史を掘り起こし、本来の姿を取り戻す。松下見林の功績により、忌部氏の記憶はこの地に蘇ったのです。

御祭神と配祀神|宮廷祭祀を担った神々

御祭神
主祭神:天太玉命
配祀 :大宮売命(おおみやのめのみこと)、
    豊石窓命(とよいわまどのみこと)、
    櫛石窓命(くしいわまどのみこと)

大宮売命は宮廷の平安を守る神として知られ、宮中八神のひとつに数えられています。豊石窓命と櫛石窓命は門を守る神として、宮殿の入口を守護する役割を担っていました。

いずれも宮廷祭祀に深く関わる神々であり、忌部氏が朝廷の祭祀を担ってきた氏族であることを如実に示しています。忌部氏は単に祭具を作るだけでなく、宮廷の様々な祭祀に関わる重要な役割を果たしていたのです。

本殿内には、左右に春日神社と玉依姫命神社が境内社として祀られています。三社が並ぶ配置は厳かな雰囲気を醸し出しており、静かな境内に神々の存在を感じさせます。

また、境内社として拝殿向かって左には、岡本天王社が配置されます。

古来、明日香の岡寺の龍蓋寺に詣でる者は、
まず此の社に賽すれば、仏果必ずあらわれる
との伝承があった、という。

忌部町に立って感じること

天太玉命神社の参拝を終え、周囲を歩いてみました。忌部町という地名は、この地がかつて忌部氏の本拠地であったことを今に伝えています。

現在は静かな住宅街ですが、かつてここには忌部氏の工房があり、宮廷祭祀に用いる祭具が作られていたのかもしれません。耳を澄ませば、ここにかつて響いていたであろう機織りの音や、祭具を磨く音が聞こえてくるような気がします。
鏡や玉、布や武具。天皇の即位式である大嘗祭に欠かせない様々な品々が、この地で作られていたと想像されるのです。

そんな歴史のロマンを感じながら、忌部町を後にしました。目に見える遺跡はなくとも、この地に刻まれた記憶は確かに存在しているのです。

4.忌部氏と中臣氏|共存共栄の精神

忌部氏と中臣氏は、神代より宮廷祭祀を担う二つの氏族でした。
天照大御神が天岩戸に隠れた際、天太玉命(忌部氏祖)は神祭りの器具を整え、天児屋命(中臣氏祖)は祝詞を奏上したと『古語拾遺』に記されています。

天岩戸の前で繰り広げられた神事において、天太玉命は真榊を立て、上枝には玉を、中枝には鏡を、下枝には和幣を懸けました。そして天照大御神が岩戸から姿を現した瞬間、天太玉命と天児屋命は注連縄を張り渡し、「再び入ってはなりません」と申し上げたと伝えられています。

天照大神が天岩戸に隠れた際、天太玉命(忌部氏祖)は神祭りの器具を整え、天児屋命(中臣氏祖)は祝詞を奏上しました。
忌部氏は祭祀の「物」を、中臣氏は祭祀の「言葉」を司る相互補完的な関係で、この相互補完的な関係は、神代の昔から続いてきたものでした。

どちらか一方だけでは成り立たない祭祀を、二つの氏族が協力して執り行う。これが「共存共栄」の精神の体現でした。

祭具がなければ祭祀は形を成さず、祝詞がなければ祭祀に魂が宿らない。
物と言葉、形と心。
この両輪があってこそ、神々への祈りは完成するのです。

八色の姓と忌部氏

天武13年(684年)に制定された「八色の姓」において、中臣氏は第二位の「朝臣」姓を、忌部氏は第三位の「宿禰」姓を賜りました。

八色の姓は天武天皇による律令国家体制確立のための改革で、中臣氏はその後藤原氏として政治の中枢に関わりますが、忌部氏は祭祀・技術の専門家としての立場を維持しました。
政治的な栄達よりも与えられた使命を果たすことを選んだのでしょう。

その精神性は、1300年以上を経た今も大嘗祭の麁服調進という形で続いています。

(忌部五部神、古語拾遺、大嘗祭と麁服については「安房神社参拝|房総のルーツ忌部氏と天富命が紐解く日本の原点」で詳しく解説しています)

5.「ヤマトは阿波だった」仮説について

忌部氏と阿波国の関係を語る際、「ヤマトは阿波だった」という仮説を耳にすることがあります。古代の「倭」「大和」が奈良県ではなく徳島県を中心とする阿波地方にあったとする説です。

✔️ 阿波国に古代祭祀遺跡が多いこと
✔️ 忌部氏のような重要な祭祀氏族の本拠地が阿波にあったこと
✔️ 古事記に登場する地名が阿波に多く残っていること

などが根拠として挙げられています。

ただし、学術的コンセンサスはなく、主流の学説では大和政権の中心地は奈良盆地とされています。考古学的な発掘調査の結果も、奈良盆地が古代政権の中心地であったことを示しています。

しかしながら、大嘗祭の麁服を調進し続けてきた事実は、阿波国が中央との深い結びつきを持った特別な地域であったことを示しています。
単なる地方ではなく、皇室祭祀において欠かせない役割を担っていた。その事実だけでも、阿波国の重要性は十分に語られるのです。

6.忌部氏が現代に伝えるもの

大麻比古神社と天太玉命神社への参拝を通じて、忌部氏の歴史から学ぶべきことが見えてきました。

第一に、「共存共栄」の精神です。
忌部氏は中臣氏と競い合うのではなく、それぞれの役割を認め合い、協力して祭祀を執り行いました。現代社会においても、異なる立場や能力を持つ者同士が協力することの大切さを教えてくれます。

第二に、「報恩崇祖」の精神です。
先祖から受け継いだものを次の世代へと引き継ぐ。政治的な栄達よりも使命を果たすことを選んだ忌部氏の姿勢は、今も三木家による麁服調進として続いています。令和元年の大嘗祭においても、第28代当主・三木信夫氏により麁服が調進されました。

第三に、「国を一つにする精神」です。
忌部氏は阿波から安房へ、大和から各地へと展開しながらも、天皇を中心とする祭祀によって一つにまとまりました。地方に散らばりながらも、祭祀という形で中央と結びつく。
それが古代日本の国のかたちであり、忌部氏はその体現者でした。

参拝を終えて

阿波国一宮の御神木・大楠の前で千年の時の重みを感じ、奈良橿原の天太玉命神社で華やかさとは無縁ながらも確かな存在感を持つ忌部氏の精神性に触れました。

われわれの国は、目立つところで活躍する者たちだけでなく、目立たぬところで黙々と役割を果たす者たちによっても支えられてきました。
忌部氏の歴史は、それを静かに、しかし確実に語りかけてくれています。

藤原氏のように歴史の表舞台で活躍した氏族ではありませんが、忌部氏は1300年以上にわたって皇室祭祀を支え続けてきました。その継続こそが、最大の功績なのかもしれません。

忌部氏ゆかりの地を巡ることで、共存共栄、崇祖報恩という日本人が大切にしてきた精神に改めて気づかされます。

そして、この精神は、現代を生きるわれわれの道標となるはずです。

では。

いつも、ありがとう^^

@Rico

幸せは自分のために
世界が平和であるために

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