風まかせ文芸部 「夜風」
夏休みもあと少し。僕は兄ちゃんと一緒にお婆ちゃんちにお泊りにいった。あ。お爺ちゃんもいるけどね。
楽しみはなんと言っても、お婆ちゃんの作る卵焼き。絶品なんだ。スクランブルまでは、いかない。かといって卵焼きというほどには焼きすぎない。箸でかき混ぜて出来上がる。口の中でとろけるようなその食感と甘い香りとかすかな醤油の香ばしさ。僕はいつもお婆ちゃんにせがむ。家でも食べられたらいいけど、お婆ちゃんにしか作れない。放し飼いのニワトリが生む卵でお婆ちゃんはたくさん作ってくれるんだ。
その夜もたんまり食べて寝る時間。みんなで蚊帳を吊って寝る。開けたままの障子窓から、夜風が家の中を通り抜ける。
「ボクはお婆ちゃんと寝るぅ」
いつもお兄ちゃんは最初にそう言う。だから僕は言う。
「僕はお爺ちゃんと寝る・・」
本当は僕もお婆ちゃんと一緒に寝たいけど、僕までそんなこと言ったら、お爺ちゃんがかわいそうじゃないか。
豆電球の灯りの中、兄ちゃんはもうすやすやと寝息を立てていた。
いつもは無口なお爺ちゃんが、不意にしゃべりだした。
「夜風は陸風か海風か、どちらか知ってるか?」
「え?」
僕は考えたこともない質問に戸惑った。でも蚊帳の中、顔をくすぐる優しい風は山の方から流れて来る。
「陸風?」
「よくわかったな。夜風は陸風。でも朝は海風が吹いて来るな」
「うん・・」
お爺ちゃんは何が言いたいんだろう?
「爺ちゃんはな、陸風も海風も吹かない凪が好きだけどな」
「凪って?」
「風が吹いていない時のこと。海は波も立たずに穏やかだ」
「穏やかだから凪が好き?」
僕は優しい夜風も好きだけどなぁと思った。
「おじいさん・・」
お婆ちゃんも不意にしゃべった。
「凪の話をするだけだよ」
お婆ちゃんにそう応えると、お爺ちゃんは独り言のように語り始めた。
「爺ちゃんは戦争に行って、命からがら帰って来たんだ。死んだ仲間の骨を持ってな。その仲間は神様になって石碑が立ち、村の人に称えられた。でも戦争が終わったら、その仲間も爺ちゃんもひどいことをした人になった。戦争は風だ。その風の向きが真逆になった。だから爺ちゃんは、風が吹かない凪が好きなんだ」
その夜の僕は、お爺ちゃんの話がよくわからなかった。凪が好きなことだけはわかった。
時折り、祖父の話を思い出す。自然の風に罪はない。でも人間の作り出す風にごまかされないようにしないといけない。祖父の話は、私に心の凪を与えてくれる。そこには決まって祖母の卵焼きが添えられている。
(了)
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