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『たましい、ひとつぶん。』第3章【静かな侵食】


第3章【静かな侵食】


手紙が届いたのは、週明けの午前中だった。
切手の貼られていない、投函された形跡のない白い封筒。
宛名も差出人も書かれておらず、玄関ポストに、ただ、置かれていた。

中には、短い言葉だけが書かれたメモ。

「忘れないで。ずっと、見てるから。」

筆跡は整っていて、不気味な乱れもない。
でも、ぬめりつくような気配が指先に残る。
一文字ずつが、こちらを見つめてくるような圧を持っていた。

私は、それを台所の引き出しに仕舞った。
破ることも、捨てることもできなかった。



その晩、私はもう一度、彼女のアカウントを確認した。
@sara888light——
タイムラインには、花や空の写真に交じって、謎めいた言葉が並んでいた。

「彼の声が、また私を呼んだ」
「月の裏側で、たましいが震えている」
「わたしだけのひと、今もそばにいる」


その中に、夫が過去に投稿した歌声の一節が、繰り返し貼られていた。
まるで、それを合図にして、何かを確信しているようだった。

さらにスクロールすると、明らかに私を指しているとしか思えない投稿があった。

「あの女は偽物。本物の愛を知らない女」
「彼は気づいてる。気づかないふりをしてるだけ」


名前こそ出ていないが、内容はあまりにも露骨だった。
夫を守ってる“女”への、あからさまな敵意。
——私を、見ている。確実に。



SNSに載せていた何気ない写真の一枚。
駅前の看板。ベランダから見える夕暮れの街並み。
そこに映り込んだ、見慣れた路地の形や店の名前。

——あれを見て、彼女は辿ってきたのかもしれない。

そう思うと、手のひらがじっとりと汗ばんだ。
鍵のかかったポストに、誰かが忍び込んだような気配を感じる。

夫にはまだ、あの白い封筒のことを言っていない。



数日後。
いつものように、夕食後の後片づけをしていると、夫がふいに呟いた。

「……俺のタグに、また反応してるっぽい」

「タグ?」

「ほら、“#音が残る場所”ってつけたろ? あれに返信きてた。“音が導きになる”とか。“そろそろ統合の時”だって。」

それを聞いたとき、私は思わず手を止めた。
静かに進行していた“気配”が、ようやく輪郭を持ったような気がした。

彼女は、夫の音、言葉、投稿……
そのひとつひとつを“メッセージ”と読み替えている。
私たちの日々が、どこかで彼女の妄想の材料になっている。

こちらが気づかなくても、彼女は着実に、確実に、近づいている。



夜。
布団に入ったあとも、眠れなかった。

——私たちは、なにか間違ったサインを送ってしまったのだろうか。
——夫の何気ない歌声や言葉が、彼女に“選ばれた証”として届いてしまったのだろうか。

私には分からない。
でも、はっきりしていることが一つある。

夫と私のあいだには、
誰にも入ってこれない静かな深さが、ちゃんとある。

それは言葉ではなく、日々の積み重ねでできたもの。
同じ時間を選んできた者にしか育てられない、静かな確信。

彼女が、どれだけ声を上げようと。
どれだけ“見てる”と囁いてこようと。
その奥には届かない。



そして、——
彼女もまた、それに気づき始めているのかもしれない。



画面の向こう、
あのアカウントの投稿が、一瞬止まったように見えた。

ほんの短い沈黙。
そのあとに、強い焦燥を感じさせる投稿が、立て続けに並んだ。

「気づいて。私を見て」
「あの女は嘘でできてる」
「壊さなきゃ、統合はできない」


その言葉は、呪いにも似ていた。
けれど、私はそこに、ほんのわずかな“諦め”のにおいを感じた。

私たちが築いてきたものを、
彼女がどんな手を使っても壊せないという、
認めたくない現実が、少しずつ、彼女を蝕んでいるのかもしれない。



音もなく、侵食は続いている。
だが、私は夫の声も沈黙も、誰よりも冷静に、深く見据えていた。
静かに、そして、目を逸らさずに、彼女の狂気を見つめていた。



いかがでしたか?
第四章|ひび割れる境界 に続きます。

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