映画オデュッセイアの予習
クリストファー・ノーランが『オデュッセイア』を映画化すると知ったとき、最初に思ったのは「また難しい映画になるんじゃないの……?」だった。
ノーラン作品は好きだけれど、『メメント』『インセプション』『インターステラー』『TENET』と、観るたびに「今、時間軸どうなってる?」と混乱させられる。時間や記憶や現実の構造をひっくり返してくるタイプの監督だ。
だから公開までに、せめて原作くらいは知っておこうと思って、『オデュッセイア入門』を読み始めた。
ところが、序盤からつまずいた。神々の家系図、ヘレネ、ペネロペ、アガメムノン、クリュタイムネストラ……。「この人誰だっけ?」というかそもそも『オデュッセイア』本編に入る前に、ギリシャ神話の前提知識が要りすぎる。
仕方ないので、分からないところだけAIに聞きながら読み進めることにしたら、少しずつ人物がつながって、ようやく『オデュッセイア』そのものの物語が見えてきた。
『オデュッセイア』は、単純な「英雄が家に帰る話」じゃない。——ざっくり言うと、トロイア戦争の英雄オデュッセウスが、戦争が終わって家に帰るだけの話なのに10年もかかってしまう、というのが前半の大枠——ただ、物語は直線的に帰らない。主人公は遠くへ行き、迷い、過去を語り、別の人物の物語が挟まり、ようやく故郷へ戻ってくる。そして帰ってきたとき、最初に見えていたものの意味が変わっている。
そこで、ノーラン作品のことを思い出した。
『メメント』では、記憶の断片を逆向きにたどることで、最初に見ていた出来事の意味が変わっていく。
『TENET』では、時間そのものが折り返す。
『インターステラー』では、主人公は宇宙の果てまで行き、最後に「家」や「娘」との関係へ戻ってくる。
どれも、単純な直線ではない。
遠くへ行くほど、物語は原点へ近づいていく。
そして帰還することで、最初に見えていたものの意味が変わる。
「あれ? これってオデュッセイアそのものじゃない?」
そう思って気になって調べてみたら、もっとびっくりした。
映画の公式サイトで、ノーラン本人が『オデュッセイア』について、「ありとあらゆる映画の基盤となっている。今回映画化に取り組むまで、自分自身のどの作品にもそれが息づいていることに気づいていなかった」という趣旨の発言をしていた。
本人も気づいてなかったのね。
つまりノーランは、『オデュッセイア』の構造を意識的に作品に取り込んできたわけじゃない。
20年越しの念願だった映画化に取り組んで、初めて自分の過去作品を振り返って、「自分がずっとやってきたことと、オデュッセイアは深いところでつながっていた」と発見したことになる。
ここまで来て、ちょっと待って、と思った。
既存作品の構造がオデュッセイア的なだけじゃない。
それに気づかないまま20年撮り続けて、20年越しに原典に帰ってきて、そこで初めて自分の原点を発見する——
ノーランの作家人生そのものが、オデュッセイアの構造をしている。
出来すぎてるだろ!!
古代の物語を現代の映画監督が再解釈する、というだけの話ではなくなってくる。
『オデュッセイア』を撮ろうとしたことで、ノーラン自身が自分の映画作家としての原点を発見してしまった。そう考えると、今回の映画化そのものが、「オデュッセイア的」じゃないですか。
遠くへ行くほど、物語は原点へ近づいていく。そして帰還することで、最初に見えていたものの意味が変わる。(2回目)
オデュッセウスが20年ぶりに故郷へ帰るように、ノーランもまた、20年越しに『オデュッセイア』へ帰ってくる。
最初は「ノーランの映画、難しそうだから予習しなきゃ」と思って読み始めた。それが、古代ギリシャの物語を追ううちに、「なぜノーランがこの作品を撮るのか」が少しだけ分かった気がした。
あなたが撮るための物語だよこれは!古典の方が、ノーランが来るのを待っていた!!
映画が公開されたら、今度は逆に「ノーランは『オデュッセイア』をどう読んだのか」を観に行きたい。
そしてきっとそのときにはまた、最初に見えていた物語の意味が変わっているのだと思う。
映画めちゃくちゃ楽しみです!!
※この記事は『オデュッセイア入門』を読んでいる途中で書いた、現時点での考察でした。まだ読み終わってません!笑
