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「斯波氏」って誰?――三管領の名門が、朝倉・織田に主役を奪われるまで【10ページ漫画】


斯波氏(しばし)は、室町時代を理解するうえでかなり重要な一族です。最盛期には足利将軍家に次ぐほどの家格を持つ「三管領」の一角として、越前・尾張・遠江などを支配しました。しかし最後は、かつて自分たちの家臣だった朝倉氏・織田氏や、隣国の今川氏に領国を奪われていきます。

つまり斯波氏の歴史は、**「足利一門の超名門 → 室町幕府の最高幹部 → 巨大守護大名 → 家臣の下剋上によって衰退」**という、室町時代から戦国時代への変化を凝縮したような歴史です。(コトバンク)

1.そもそも斯波氏は何者なのか

系統としては、

清和源氏 → 河内源氏 → 足利氏 → 斯波氏

です。

鎌倉時代中期、足利泰氏の長男**家氏(いえうじ)**が陸奥国斯波郡、現在の岩手県紫波郡付近を所領としたことが、斯波氏の起源とされています。現在は「紫波」を「しわ」と読みますが、一族名は「しば」です。家氏は足利泰氏の長男だったため、斯波家は単なる足利氏の庶流というより、足利一門でも特に格式の高い家とみなされました。(コトバンク)

面白いのは、初期にはまだ「斯波」を常用していなかったことです。山川『日本史小辞典』では、高経の時代までは足利氏を称していたとされています。後世の私たちが便宜的に「斯波高経」などと呼んでいる部分もあります。(コトバンク)

また嫡流は「武衛家(ぶえいけ)」とも呼ばれます。「武衛」は兵衛府の唐名で、斯波氏当主が兵衛督・兵衛佐などに任じられることが多かったためです。「尾張家」「足利尾張家」と呼ばれることもあります。(コトバンク)


2.斯波氏を一気に大名へ押し上げた斯波高経

斯波氏が歴史の表舞台に躍り出るのが、南北朝時代の**斯波高経(1305~1367)**です。

高経は足利尊氏に従って鎌倉幕府打倒から南北朝内乱に参加し、建武政権・室町幕府のもとで越前守護となりました。越前はこの後、斯波氏にとって最重要の領国になります。(国土交通省 競技力強化センター)

そして1338年、有名な藤島の戦いが起きます。

南朝方の総大将・新田義貞が越前で斯波高経を攻撃していましたが、藤島付近で斯波方の部隊と遭遇して戦死。これによって南朝側の北陸攻略は大きな打撃を受けました。高経自身が義貞を直接討ち取ったわけではありませんが、戦略的には高経側の大勝利でした。(コトバンク)

その後の高経は、室町幕府内部の政争にも深く入り込みます。

1362年には、わずか13歳だった四男の斯波義将を幕府執事に就け、自らが後見として幕政を事実上主導。越前・若狭・越中などの守護職を持ち、「第一次斯波氏全盛期」と呼べる状態になります。(福井県立図書館アーカイブズ)

ところが権力を広げすぎたことが裏目に出ます。佐々木道誉らとの対立や興福寺との問題が重なり、1366年の貞治の政変で失脚。高経は京都から越前へ逃れ、翌1367年に杣山城で死去しました。(福井県立図書館アーカイブズ)


3.斯波氏最大の政治家・斯波義将

高経の失脚後に家を立て直したのが、四男の**斯波義将(1350~1410)**です。

一般には「よしまさ」と読まれますが、「よしゆき」が本来の読みではないかともされています。

義将は父の死後すぐに赦免され、越中で軍事的功績を挙げて復権。1379年、細川頼之が失脚した康暦の政変を経て管領となり、三代将軍足利義満を補佐します。その後も義満・義持政権の宿老として長期間幕政に影響を与え、合計三度管領となりました。(福井県立図書館アーカイブズ)

このころ、

斯波氏・細川氏・畠山氏

の三家から管領が選ばれる体制が定着し、いわゆる三管領となります。斯波氏はその中でも非常に高い家格を誇りました。(福井県立図書館アーカイブズ)

義将の影響力はかなり大きく、1408年に足利義満が死去した際、朝廷から義満に「太上天皇」の追号を贈ろうとする動きが起こると、義将は四代将軍義持に辞退させています。

要するに斯波義将は、単なる一地方の大名ではなく、室町幕府の国家レベルの政策決定に関与する最高幹部でした。(福井県立図書館アーカイブズ)


4.越前・尾張・遠江――斯波氏の「三国体制」

義将から息子の義重の時代に、後世の斯波氏を特徴づける領国体制が成立します。

1400年ごろに尾張守護を獲得し、1405年には遠江守護も獲得。最重要領国の越前と合わせ、

越前・尾張・遠江

という三国が斯波氏の基本的な領国となりました。時期によって加賀・信濃なども支配しています。(福井県立図書館アーカイブズ)

ところが、ここに後の没落につながる大きな問題がありました。

三国は互いに離れています。

  • 越前=現在の福井県北部

  • 尾張=現在の愛知県西部

  • 遠江=現在の静岡県西部

しかも斯波氏当主自身は京都で幕政に参加する必要があります。

そこで領国の実務は守護代に任せました。越前・遠江では甲斐氏、尾張では後に織田氏が守護代として勢力を伸ばしていきます。(福井県立図書館アーカイブズ)

ここが斯波氏史最大のポイントです。

京都では超一流の政治家だが、領国では家臣に依存している。

この構造が、15世紀後半になると危険になっていきます。


5.当主の早死にと「斯波家の家督争い」

義将の子義重以降、

義重 → 義淳 → 義郷 → 義健

と家督が続きます。

ところが義淳以降は早世が相次ぎました。

義郷は1436年、馬ごと陸橋から転落して死亡。息子の義健も1452年、わずか18歳で死去します。そして義健には男子の後継者がいませんでした。(福井県立図書館アーカイブズ)

そこで傍系から迎えられたのが斯波義敏です。

しかし義敏は、越前守護代として巨大な権力を握っていた甲斐常治と激しく対立します。1458年から翌年にかけて越前で内戦となり、義敏側は敗北。これによって「守護である斯波氏」と「守護代・重臣」の力関係がおかしくなっていきます。(福井県立図書館アーカイブズ)

義敏が失脚すると、将軍足利義政は1461年、渋川氏出身の**斯波義廉(よしかど)**を斯波家当主に据えました。

すると今度は、

義敏派 vs 義廉派

という家督争いが始まります。(コトバンク)


6.実は応仁の乱の原因の一つが「斯波家のお家騒動」

ここがかなり重要です。

応仁の乱というと、

「細川勝元 vs 山名宗全」

あるいは、

「足利義政の後継者問題」

という説明が有名ですが、それだけではありません。

畠山氏と斯波氏の家督争いも、京都を全面戦争へ向かわせた重大な要因でした。

1466年、将軍義政は義廉を廃して義敏を復権させ、越前・尾張・遠江三国の守護職を与えます。しかし義廉を支援していた山名宗全らが猛反発。結果として伊勢貞親や義敏らが京都から追放される「文正の政変」が起こりました。(コトバンク)

そして翌1467年、応仁の乱が勃発。

義廉は山名宗全の西軍に入り、義敏側は東軍側につきます。

つまり、

斯波家内部の相続争いが、全国規模の大名対立と直結してしまった

わけです。(福井県立図書館アーカイブズ)


7.越前を朝倉氏に奪われる

応仁の乱の途中、斯波氏にとって致命的な事件が起こります。

もともと斯波氏の家臣だった朝倉孝景が急速に台頭したのです。

朝倉氏は南北朝時代から斯波氏に従っていた一族ですが、もともとかなり独立性が強い武士でした。(福井県立図書館アーカイブズ)

1471年、朝倉孝景は西軍から東軍へ寝返り、将軍足利義政から越前支配について承認を取り付け、越前の斯波・甲斐勢力を排除していきました。ここから戦国大名朝倉氏の越前支配が始まります。(福井県立図書館アーカイブズ)

斯波氏はその後も、

「越前は本来われわれの国だ」

という立場を捨てていません。

1487年にも斯波義寛が将軍に越前の宗主権回復を訴えています。しかし朝倉氏はすでに将軍と直接結びつく独立勢力となっており、斯波氏が越前を取り戻すことはできませんでした。(福井県立図書館アーカイブズ)

この構図、戦国時代らしくて非常に象徴的です。

元家臣・朝倉氏が、旧主・斯波氏から国を丸ごと奪ったのです。


8.遠江も今川氏に奪われる

越前を失った斯波氏は、尾張と遠江を中心に再建を図ります。

ところが東から、駿河の今川氏が遠江へ進出します。

1490年代以降、今川氏親は遠江への侵攻を本格化。1497年には北条早雲(伊勢宗瑞)らと連携して遠江へ攻め込み、次第に斯波氏の勢力を駆逐していきました。(掛川市公式サイト)

斯波義寛の子斯波義達は遠江奪還を目指して何度も出兵します。

かなり意欲的で、1513年には遠征に反対する尾張守護代織田達定を逆に討ち、いったん守護権力を立て直すほどでした。

しかし1515年、今川軍に大敗。

なんと義達本人が捕虜となり、尾張へ送り返されます。これで斯波氏の権威は決定的に低下しました。(大塚耕平 公式WEBサイト)

遠江は最終的に今川氏の領国となります。


9.最後に残った尾張でも織田氏が台頭

こうして、

越前 → 朝倉氏
遠江 → 今川氏

に奪われ、斯波氏に実質的に残ったのは尾張だけになりました。

しかし尾張でも、守護代だった織田氏がすでに巨大化していました。

名古屋市博物館も、室町時代の尾張では「斯波氏を守護とし、そのもとで守護代となった織田氏が尾張を支配した」と説明しています。(名古屋市博物館)

16世紀になると斯波氏は、名目上は尾張守護でも、実際には織田諸家に擁立される存在へ変わっていきます。

そして1554年、尾張守護**斯波義統(よしむね)**が清洲の守護代勢力によって殺害されました。

息子の**斯波義銀(よしかね)**は織田信長を頼ります。

信長は「正式な尾張守護である斯波氏」を味方につけることで、自分の敵対者を「守護に逆らった謀反人」と位置づけることができました。つまり初期の信長にとって、斯波氏の権威にはまだ利用価値があったわけです。(大塚耕平 公式WEBサイト)

しかし信長が尾張をほぼ統一すると事情が変わります。

1561年、義銀が信長に対抗しようとすると、逆に信長によって尾張から追放されます。愛知県の歴史資料でも永禄4年(1561)に「信長、尾張守護・斯波義銀を国外追放」とされています。(あいち歴史観光)

ここで守護大名としての斯波氏は事実上終焉します。

ただし血統そのものが絶えたわけではありません。義銀はその後「津川」姓を用いるなどして生き延び、1600年まで存命でした。


10.斯波氏から「大崎氏」と「最上氏」も出ている

斯波氏の面白さは、嫡流だけではありません。

高経の弟斯波家兼は1354年に奥州管領となり、東北へ下向しました。その系統がのちの大崎氏となります。(コトバンク)

さらに家兼の次男斯波兼頼は1356年、出羽の山形へ入りました。

この系統が後の最上氏です。

つまり戦国時代の有名大名、

最上義光

も、大きくたどれば斯波一族です。山形市も斯波兼頼を「最上氏の祖」としています。(山形市公式サイト)

系図をかなり簡略化すると、

足利泰氏
   │
   └─ 家氏 ← 斯波氏の祖
        │
       ……
        │
       高経
      ┌─┴─────────┐
    義将             義種
      │                │
    義重              満種
   ┌──┴──┐             │
 義淳   義郷          持種
          │             │
        義健           義敏
                         │
                       義寛
                         │
                       義達
                         │
                       義統
                         │
                       義銀

高経の弟・家兼
   ├─ 大崎氏へ
   └─ 兼頼
        │
       最上氏
        │
       ……
        │
      最上義光

というイメージです。(福井県立図書館アーカイブズ)


11.斯波氏の歴史を一気に年表にすると

年代出来事13世紀足利泰氏の長男・家氏が陸奥国斯波郡を領し、斯波氏の祖となる1330年代高経が足利尊氏に従い越前守護となる1338藤島の戦い。新田義貞が斯波高経方との戦闘で戦死1362高経の子・義将が13歳で幕府執事1366貞治の政変。高経失脚1379義将が管領となり斯波氏復活1400頃尾張守護を獲得1405遠江守護を獲得。越前・尾張・遠江の三国体制が形成1452義健が嗣子なく死去1458~59義敏と守護代甲斐氏が越前で内戦1461義廉が斯波家当主となる1466義敏復権問題から文正の政変1467応仁の乱。義敏・義廉の家督争いも乱の一因1471朝倉孝景が越前支配を確立し始める1490年代~今川氏が遠江へ進出1515義達が今川氏に敗れ捕虜となる1554尾張守護義統が殺害される1561義銀が織田信長によって尾張から追放以後武衛家は領国大名としては消滅する

斯波氏が歴史的に重要な理由

斯波氏を一言で表すなら、**「守護大名というシステムの栄光と限界を体現した家」**です。

最盛期は足利将軍家のすぐ近くで幕府政治を動かし、三管領として越前・尾張・遠江を支配していました。ところが、当主が京都にいる一方で現地支配を守護代に任せたため、やがて朝倉・織田という家臣たちのほうが現地で強くなった。さらに遠江では今川氏という戦国大名に敗れました。(福井県立図書館アーカイブズ)

だから戦国史を、

斯波氏 → 朝倉氏
斯波氏 → 織田氏
斯波氏 vs 今川氏

という視点で見ると、ものすごく分かりやすくなります。

特に織田信長の登場は、突然「織田氏」という新勢力が出現したのではなく、「斯波氏―守護代織田氏」という室町幕府の支配構造が崩壊した末に起こったと考えると、尾張戦国史が一気につながります。

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