トイレの扉を蹴破ったら、ほんのり好きだった人がいた。
「ゴリねえ」と呼ばれている。
最初から自分でそう名乗っていたわけではない。
この名前が生まれたきっかけは、会社のトイレだった。
しかも、ほんのり好きだった人を巻き込んだ事件だった。
当時勤めていた会社は、3フロアを借りていた。
トイレは各フロアに1つ。
そして5階のトイレには、知る人ぞ知る「クセ」があった。
扉の蝶番が壊れかけていて、閉めるとぎっちり食い込む。
出るときは、ここを蹴る。
社員の間には、そんな暗黙のコツがあった。
エレベーターのボタンを二度押しするのと同じ感覚で、みんな扉を蹴っていた。
もはや会社の「仕様」だった。
修繕依頼を出した記憶は、誰にもなかった。
そんなある日、上司のもとにLINEが届いた。
「トイレから出られません」
送り主は、印刷会社の新人・佐藤さん(仮名)。
ただ私は、この時点で誰が閉じ込められているかを知らない。
「誰かがトイレから出られなくて困っている」
その一報だけが、私のもとにも回ってきた。
うちの上司は、とにかくノリのいい人だった。
「大変だ! 人助けに行くぞ!」
そう言って、私を連れて5階へ向かう。
刑事ドラマの捜査会議のような顔で扉の前に立つと、こう言った。
「お前が扉を突破しろ。俺が後方支援する」
後方支援とは何なのか、今でもよくわからない。
突っ立って腕を組んでいるだけの人を、そう呼ぶことにしたらしい。
でも私は、完全にそのノリに乗っていた。
「了解です! 私が救出します!」
ここから、ゴリねえ、全力モード。
扉を蹴るポイントは、もちろん知っている。迷いはない。
思い切り、蹴った。
人助けの名目さえあれば、私はいつでも本気を出せる女だった。
ガンッ!
扉が、開いた。
そこに立っていたのは――
ほんのり好きだった、印刷会社の佐藤さんだった。
「……あ、佐藤さん」
一瞬、時が止まる。
さっきまで「救出作戦だ!」とふざけ倒していたテンションのまま、好きな人の目の前に立っている。
でも、もう遅い。
扉は、蹴破ったあとだった。
今さら淑やかな女に戻る扉は、どこにも見当たらない。
とりあえず心の中では、
(ああ、佐藤さん、今日も麗しいわ〜)
と、静かに現実逃避していた。
でも、現実逃避している場合ではない。
廊下に、だんだん人が集まってくる。
そして、まさかの社長まで登場した。
人を呼んだ覚えは、一切ないのだが。
社長は、佐藤さんに向かってにこやかに言った。
「ねえ、佐藤君。この子すごいでしょ。力持ちなの」
始まる、私の武勇伝タイム。
誰も頼んでいない。
「この前なんて、社長室の金庫を一人で運んじゃったんだよ」
その話、今する必要が本当にあっただろうか。
私は、少しずつ後退した。
「いや、私は何も……」
「あれ? ドア、直ったのかな?」
とにかく、その場からフェードアウトしようとする。
だが、逃がしてもらえなかった。
佐藤さんも、ノリのいい人だった。
「いやー、本当に命の恩人ですよ」
何一つ得をしていないのに、なぜか一番慌てているのは私だった。
「うん、大丈夫。あの、本当に……」
何を大丈夫と言っているのか、自分でもわからない。
周囲は大爆笑していた。
私以外、全員楽しそうだった。
佐藤さんまで、笑っていた。
その笑い方が地味にかわいかったことだけは、今でも覚えている。
ほんのり好きだった佐藤さん。
しかし、この事件をきっかけに恋が始まるわけでもなく。
その後も、特に何もなかった。
ただ、たまに世間話ができるくらいの、顔なじみにはなった。
廊下ですれ違うと、
「あ、どうも」
くらいは言い合う仲。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
命の恩人と呼ばれるほどのことをしたのに、恋愛には何一つつながらなかった。
世の中、そういうものらしい。
そのかわり、私には別のものが残った。
会社の人たちから、
「いやー、やっぱりゴリラだね」
と言われるようになったのだ。
扉を蹴破る。力仕事を普通にやる。
まあ、たしかにゴリラっぽい。否定できる要素が、見当たらない。
すると、女性の上司が横から言った。
「でも、ゴリラじゃかわいくないよね。ゴリねえにしよう」
こうして、「ゴリラ」から「ゴリねえ」へ。
改名にしては、ずいぶんあっさりした会議だった。
ちなみに本人としては、
(いや、ゴリねえも別に、かわいくはないけど)
と思っていた。誰にも言わなかったけれど。
私は、好きな人の前で可愛く振る舞えなかった。
というか、トイレの扉を蹴破った。
そのうえ、社長に武勇伝まで暴露された。
結果、恋愛は何も始まらなかった。
でも、「ゴリねえ」という名前が生まれた。
だから私は、ゴリねえになった。
その名前が、嫌なわけではない。
なんなら、ちょっと誇らしい。
だって、ちょっと強そうだし。
だから、私は「ゴリねえ」でいい。
でも。
これだけは、佐藤さん(仮名)には内緒にしてほしい。
